2020年3月27日金曜日

第133号

※次回更新 4/10

祝!井口時男さん、芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】up!

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和二年春興帖
第一(3/20)仙田洋子・曾根 毅・夏木久
第二(3/27)五島高資・松下カロ・辻村麻乃

令和二年歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃
第二(1/17)曾根 毅・池田澄子
第三(1/24)坂間恒子・大井恒行・仙田洋子・山本敏倖・堀本 吟
第四(1/31)浅沼 璞・渕上信子・松下カロ・加藤知子・関悦史
第五(2/7)飯田冬眞・竹岡一郎・妹尾健太郎・真矢ひろみ・木村オサム・神谷波
第六(2/14)早瀬恵子・夏木久・中西夕紀・岸本尚毅
第七(2/21)ふけとしこ・花尻万博・前北かおる・なつはづき・網野月を・中村猛虎
第八(2/28)林雅樹・小林かんな・小沢麻結・渡邉美保・高橋美弥子・川嶋ぱんだ・青木百舌鳥
第九(3/6)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・のどか・水岩瞳
第十(3/13)家登みろく・井口時男・仲 寒蟬・五島高資・佐藤りえ・筑紫磐井

■連載

【抜粋】〈俳句四季4月号〉俳壇観測207
結社はどこへ行くか――俳壇35年の回顧から見えてくるもの
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(7) 小野裕三  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉛ のどか  》読む

句集歌集逍遙 樋口由紀子『金曜日の川柳』/佐藤りえ  》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
5 温かい視線/衛藤夏子  》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ    》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
3月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


「兜太 TOTA」第4号 近日刊行!



「俳句新空間」11号発売中! 購入は邑書林まで


豈62号 発売中!購入は邑書林まで


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【句集歌集逍遙】樋口由紀子『金曜日の川柳』 佐藤りえ

「金曜日の川柳」はウェブマガジン『週刊俳句』の別館『ウラハイ』に連載されている(2020年3月現在も継続中)。気鋭の川柳作家が作品評を書き下ろし、それをほぼ毎週読めるというなんとも贅沢なコンテンツだ。こうして一冊の本に纏まるのを、筆者は楽しみに待っていた。

筆者は川柳に疎い。川柳について何かを書こうと思うと、冷たい汗が背中をつたう。韻文に関してのさして多くもない経験を持ちだして、どうにかこうにかその場をしのいでみるものの、それが「間に合った」のか、深いところまで手が届いているのか、心許なく、足元がおぼつかない。かように川柳の庭は広大で、迷子になること夥しい。

「金曜日の川柳」はそんな心許ない読者の手をひいて、ほどよい速度で導いてくれる。著者の樋口由紀子さんは『容顔』『めるくまーる』などの句集で現代川柳の一角を(なかなかの強度で)掌打する第一人者である(集中にご自身の句も一句ひかれているが、ほかに「ラムネ壜牛乳壜と割っていく『容顔』」「半身は肉買うために立っている『容顔』」「どう向きを変えても高遠に当たる『めるくまーる』」「わたくしをひっくりかえしてみてください『めるくまーる』」などの作品がある)。
収録作は現代の作家による作品を中心にしたとあるが、明治の作家から平成後期の句集まで、多岐多彩な作品が揃っている。
解説文は文字通り解説であることもあれば、樋口さん自身のつぶやきめいていることもある。1ページの下半分ほどにまとめられたごく短い文章には、作品を読み解く楽しさと川柳史のエッセンスが一体となって詰まっている。

 こんな手をしてると猫が見せにくる  筒井祥文
 徘徊と言うな宇宙を散歩中  野沢省悟
 人間を取ればおしゃれな地球なり  白石維想楼

穿ち・軽み・おかしみをさりげなく差し出している三句をひいた。猫の所作を人間側のいいように解釈してみせて、猫愛がだだもれの一句目、「徘徊」のスケールをさっと差し替えて壮大な行動としてみせた二句目、地球にごみごみとくっついた、食物連鎖の頂点、などと嘯く生物を取り去ったら「おしゃれ」じゃないか、という三句目。価値観や通念を覆し、あっけらかんとしている、これも川柳の特徴の一に数えられよう。

 犬小屋の中に入ってゆく鎖  徳永政二  
 五十歳でしたつづいて天気予報  杉野草兵

鎖でつながれた飼い犬が犬小屋に入っていく瞬間、たしかに鎖も犬につられていく。シュルレアリスム絵画のように犬の姿がことばの上で省略された描写の一句。次の句はテレビのニュース番組の進みようをそのまま書き起こしたかのような筆致である。訃報なのか犯罪のニュースなのか、人の年齢を告げたその口が即座に天気の話題に変わる。
この世の姿をありのままにうつしとる、と考えれば、このようなかたちの「写生」も可能なはずである。

 すっぽりと包めば怖いことはない  但見石花菜
 つぶ餡のままで消えようかと思う  谷口義
 世界からサランラップが剥がせない  川合大祐

現代川柳において筆者が最も突出している傾向にあるとおもう句群をひいた。これらの句が俳句の会に提出されたなら、具体性に欠けるだの、わけがわからないだのと言われてしまうかもしれない。表現なのだから「何」を伝えるか、それを明確にせよ、とせまられ、あれを消して季語を入れろ、だの、これをはしょってモノを示せ、だのとバッドサジェストを受ける情景が目に浮かぶ。
しかしこうした句に「説明」を求めるのはとても愚かなことだ。俳句の範疇では表現するのが(自律的に)憚られている「ある感じ」、それを平易な語によってあらわしている、このような句に目を見張らされる。

 開脚の踵にあたるお母さま  なかはられいこ

川柳のもうひとつ大きな特徴として、接頭辞の使用が挙げられる。筆者個人にとってはとても気になる関心事だ(集中にはほかにも「美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている/中西軒わ」「革命を考えているおばあさん/鈴木節子」「赤紙が来るかも知れぬお味噌汁/須田尚美」などの句が見える)。「お母さま」と接頭辞をもたらされた表現により、母は抽象化した存在となり、踵を押さえたりぶつかったりする現実の肉体は後退し、概念的な固まりとして「あたる」モノになっている。このような接頭辞の用法は川柳と俳句の守備範囲―表現指向を大きく分ける指標といえるのではないか。

もう少し、川柳と俳句の対比としていくつかの句を見ていきたい。掲出句の俳句のほう(1字下げ・赤色文字)は本書に掲載されていない、筆者がこの稿のために引いたものである。

 なんぼでもあるぞと滝の水は落ち  前田伍健
  滝の上に水現れて落ちにけり  後藤夜半

どちらも滝を詠んだ句であるが、滝自身が自らの水量を誇るように詠んだ前田と、水を「流れる」ものでなく「現れる」ものだ、と主観的な物理として詠んだ後藤の違いは、ジャンルの違いというだけでなくおもしろい。

 恋人の膝は檸檬のまるさかな  橘高薫風
  恋ふたつレモンはうまく切れません  松本恭子

こちらでは恋人の膝のまるさをいとおしく描写した橘高に対して、松本の句のほうが恋情を間接的に言うかたちとなっている。檸檬の「まるさ」も、「うまく切れない」ことも、ある程度幅のある表現であるにもかかわらず、松本の句は季語として機能する「レモン」によって爽やかさを読後に残し、橘高の句は視覚的なやわからさのみを残す。

 夜桜を見てきて誰も寄せつけず  渡辺康子
  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  杉田久女

夜桜を見てきた高揚をうたった渡辺の句と、花見から帰った倦怠をあらわした杉田の句。いずれも人を厭う感じをもたらすが、「寄せつけず」の動的な結句と、「まつはる」のアンニュイな感覚が、真逆の方向性を感じさせる。

この一冊からひしひしと伝わるのは、川柳というジャンルが歴史だの伝統だのというものの上に胡座をかくことなく、作家じしんが自分の居場所を明確にせんとタコ(土固めの道具)をどすんどすんしている姿だ。
川柳の多様性は今日もあたらしい句を生み続けている。わけのわからぬ飴糸のようなものをどんどん巻き込みながら、常識だの見識だのに流されることなく、そのアメーバはことばによってのみ存在しうる。どうです、この無統制な感じ、わくわくするじゃないですか。
本書は章立てが花鳥風月、春夏秋冬といった分け方をされていない。ゆるやかな傾向や共通性により句が少しずつまとめられている。月曜日に「月曜日」の項目を読むのもよいし、目次をひらいて目に止まった章(小章のタイトルもとてもいい)を見るのもいいと思う。
かたくるしいことでなく、しかししっかりと川柳のふところをのぞかせてくれる――そんな好著がこちらである。
(「金曜日の川柳」左右社・2020年3月)


英国Haiku便り(7)  小野裕三


アンソロポシーンへの静かな異議

 幾人かの外国人の前で自作の俳句を朗読する機会があった。最初は日本語、次に英語で読む。日本語がわからないはずの彼らの反応は意外で、日本語の朗読は「異文化への扉」のようで刺激的だったと語る。そんな議論の後、あるイギリス人女性が話題を変えた。例えば環境問題などのポリティカルな取り組みにも俳句は可能性があるんじゃないかしら、と彼女は言う。僕はためらいがちに、俳句は短いから政治的な抗議を詠み込むと詩としては成立しにくい、と説明する。すると彼女はこんなことを言った。そんな形じゃなくても、全体としての俳句のあり方自体がそのままで環境問題への抗議になりうるわ、と。それはまさに僕自身がこの数年考えてきたことでもあった。
 地球環境をめぐる問題は、アートの世界でもホットなテーマだ。アーティストたちの口からもアンソロポシーン(Anthropocene)という新語をよく耳にする。人間の活動が地球という惑星の地質学的なレベルにまで影響を与えるようになったことを意味するもので、つまりは人間がもたらした気候変動や環境破壊などの深刻さを示す言葉でもある。現代のアーティストたちも真摯に取り組むこのテーマに、自然と深く関わり続けてきた俳句のあり方自体が「静かな抗議」になるというのはありうることと思う。
 マーカス・コーツというアーティストがいる。日本で主催された現在美術の賞を受賞し、滞日経験もあるなど日本との縁も深い。彼の活動テーマはまさに自然との関わりで、シャーマンのように動物の物真似をするパフォーマンス作品が代表作だ。そんな彼と少し会話する機会があった。彼は日本人の自然観を称えてこう語った。西洋人は自然を風景という全体として捉えるが、日本人は例えば一本一本の木を独立したものとして捉える、と。そのような感覚が、季語で自然をくまなく網羅しようとする俳句の原理とも繋がっているのだろう。
 しかし半面で、日本人の自然観は課題も孕む。日本文化を特集したBBCの番組での、こんな指摘が印象に残る。日本人は太古から自然災害を受け止めてきた経験があるため、例えば戦争といった人災(原発事故なども入るか)による惨禍ですらその延長で捉えてしまいがちだ、と。結果としてそれに対する異議や抗議よりは、受け止めて「嘆く」ことが主になりかねない。
 しかし今のアンソロポシーンの時代には、人間はもはや受け身ではなく、自然を人間自身が不可逆的に変えてしまった。俳句と自然、という手垢のついたテーマも、そのように前提条件が大きく変わった中では、新しい視点から捉え直すべきだろう。
(『海原』2019年7‐8月号より転載)

【緊急発言】切れ論補足「切字と切れ」座談会・特集用メモ② 筑紫磐井

2.その後の川本皓嗣―――川本皓嗣「新切字論」

 『俳諧の詩学』(2019年)は『日本詩歌の伝統』(1991年)につぐ、川本皓嗣の俳諧に関する論文を収めた評論集である。この中で本書標題と同じく、「俳諧の詩学」と題した章があり、その中で「新切字論」が掲げられている。その内容は2つある。

(1)「切字とは何か」及び「「切字論」とその後」の節では、『芭蕉解体新書』(1997年)の「切字論」(『現代俳句教養講座』第二巻(2009年)「俳句の詩学・美学」中の「切字論」も同旨)で掲げた、句中の切字は係助詞であり遠隔操作的にその勢いの及ぶ句末で切れるのだとその機能を述べたという説を紹介したものである。本説については、多くの識者から賞賛されたものの、藤原マリ子からは句末の切れを全て説明しているわけではない、切字が係助詞であっても、その力が必ずしも句末にまで及ばない場合がたくさんあると指摘された。因みに、藤原は、切字「や」を古い口伝から始り分析し、主格の「や」、配合の「や」を指摘し、芭蕉以降の配合の「や」の機能を重視している。

(2)「切字論」の節では藤原論文の対象とした切字「や」から全切字に対象を拡大し、『菟玖波集』から『獺祭書屋俳句帖抄』までのテクストを使ってその推移を分析する。詳細な分析であるので的確に記述することは難しいが、その変遷を特徴付けるキーワードだけ挙げると次の通りとなる。

①菟玖波集
[変化特徴]以後の基準となる句集なので反歌に関する記述はなし。
②竹林抄
[変化特徴]様式化・定型化、かな止め・体言止め
③新撰菟玖波集
[変化特徴]切字多様化
④竹馬狂吟集
[変化特徴]純正連歌を忠実に受け継いでいる、やと下知の優位
⑤新撰犬筑波集
[変化特徴]体言止めを中心とする、発句の型
⑥犬子集
[変化特徴]中世から受け継いだ類型を一歩も出ていない、や特に中七末のや
⑦西山宗因全集
[変化特徴]固定化した枠の中に安住、①や・②切字の種類の多さ・③切字なし
⑧芭蕉・『松尾芭蕉集(一)』全発句
[変化特徴]芭蕉の切字論は枚挙のいとまがないほどであるし、その前後の時代に比して革命的な特色を持ているが、芭蕉の独自性だけが際立ってきて推移がたどり難いのでここでは省略する。
⑨蕪村・『自選句帳』
[変化特徴]種類が減少、切字なし、中七末のや、や+用言止め
⑩一茶・『新訂一茶句集』
[変化特徴]さらに種類が減少、けりの重用
⑪子規・『獺祭書屋俳句帖抄上』
[変化特徴]大きな変動なし

[筑紫の感想]
(1)芭蕉を除いては切字に関して大きな革命はなかったようで、多少の時代の流行はあるものの切字は近世から近代への「展開」と言うほどのものは見られないようである。
(2)本論では「「作法書の切字リストは時代と共に揺れ動くので、厳密な判定は難しい」「じかにいちいち自分の眼で確かめる他はなく、むしろその方が手っ取り早そうだ。もちろん限られた個人の努力では万全とはいかず、思わぬ見落としがあるかもしれない」ということは再三述べられている。つまり、切字と非切字の境目を明定できない状況である。
 切字の推移については、このBLOGの「動態的切字論」で既に触れたが、川本論文を理解するために、再度整理して示すことにする。

1)標準切字(「専順法眼之詞秘之事」による=所謂切字18種)
①助詞=かな●、もかな(もがな)、よ、や、そ(ぞ)、か
②助動詞=けり●、らむ(らん)●、す(ず)、つ、ぬ、じ
③形容終止形の語尾=【青】し●
④動詞命令形の語尾=【尽く】せ、【氷】れ、【散りそ】へ、【吹】け
⑤疑問の副詞の語尾=【いか】に
[注1]●は最初期の切字(順徳院『八雲御抄』・二条良基『連理秘抄』)を示した。なお、順徳院『八雲御抄』が掲げる「べし●」(助動詞)は「し」として専順の「し」(形容終止形の語尾)に入れられてしまったのかもしれない。またこの「べし」は挙堂『真木柱』にはないが、滝沢馬琴・藍亭青藍『増補俳諧歳時記栞草』には収録されている。
[注2]①助詞の「や」以下が係助詞である。⑤疑問の副詞の語尾「【いか】に」と併せて句中の切字となる。

2)後世の増加した切字(挙堂『真木柱』の切字56語+下知9を例にとる。[]は標準切字、黒抜き数字は新出の品詞)
①助詞
[哉]、[もがな]、[よ]、[や]、[ぞ]、[か]、がもな、か(が)、かは、やは、こそ、やら、かも、な、せ、
②助動詞
[けり]、[らむ]、[ぬ]、[つ]、[じ]、[ず]、成けり、けりな、む、まし、き、れり、めり、たり、けらし、ならし、なり、
③形容終止形の語尾
[し]、もなし、はなし
④動詞命令形の語尾(下知)
[れ]、[へ]、[け]、[せ]、よ、な、そ、て、め
⑤疑問の副詞(標準切字を拡大した)
いか[に]、いかむ、いか、いかで、いかにせん、いかがせん、なに、なんと、など、どこ、いづこ、いづち、いづく、いつら、いつ、いづれ、誰、いく、
❻(疑問の副詞以外の)副詞
さそ、さそな(さぞな)、
❼接続詞
いさ、いざ、
❽動詞
候、

(3)川本は本論で、①芭蕉が愛用した古い切字を復活して表現的・リズム的効果を生かす、②二段切れ三段切れも切字に考えてよい、③季語同様続々と新しい切字を案出する、④切字のない句も多く作る、等の提案をするが、子規を除いて近現代俳句の実作でこれらの検証はしていないようである。

【俳句評論講座】テクストと鑑賞④ 松代テクスト  

【テクスト本文】
 小澤克己句集「青鷹」を読む       松代 忠博
  
 俳人であり詩人である小澤克己さんと出会いは著者である「奥の細道」の講習会の時でした。いつものように着物姿の出で立ちで現れた時、会場は一瞬静まる状況だった。本論に入り語り口が静かに入り段々と話の本質に触れる頃は咳払いも無く聞き入ったことを思い出します。

一、小澤克己の生い立ち
 小澤克己は昭和二十四年八月一日、埼玉県川越市小室に生まれた。父勲、母つるの三人弟妹の長男である。川越市は城下町で知られ例年一〇月の川越祭りでは多くの山車が出て賑わう。

  高空に水あるごとし青鷹

 この作品は、第一句集の名称で「青鷹」は「もろがえり」と読む。恰も澄んだ湖水に回遊する鯉のように若き克己の勇姿が飛翔する時である。また、未来に向けて歩き出す時でもある。

二、俳人としての小澤克己
 克己が俳句に出会ったのは、十歳の時である。父勲の影響で俳句を作り始める。十三歳のとき父が逝去(享年四十二歳)。昭和四十年に地元の高校に入り在学中から詩を書き始める。詩集「遅滞」「裸形の嵐」「虚空の水域」等刊行。昭和五十六年詩集「遅滞」で埼玉文芸賞準賞(詩部門)受賞。昭和四十九年十九歳学習院大学に入学し、哲学、ヌーボーロマンや現代詩等の影響を受ける。二十五歳の時、川越市役所に奉職。二十八歳(昭和五十三年)「沖」に入会能 村登四郎、林翔に師事。本格的に句作をすることになる。昭和六十二年四月三十八歳、第一句集「青鷹」(蒼海出版刊)出版。第十一回俳人協会新人賞候補。翌年同句集で第十九回文芸賞準賞(俳句部門)受賞。平成四年(一九九二)四十三歳五月、主宰誌「遠嶺」の創刊。同8年六月、評論集「俳句の未来」(蒼海出版刊)の出版。平成五年六月第二句集「爽樹」(牧羊社刊)出版。同年八月、「艶の美学」(沖積社刊)出版。その後、「オリオン」、「花刈女」、「春の庵」、「雪舟」、「塩竈」、「庵と銀河」、「風舟」など全九句集が刊行。その他、テーマ別作品集「俳句の情景」、対談集『俳句の銀河」、同じく対談集「俳句の時空」、研究書「奥の細道「新解説」など。平成二十二年(二〇一〇)享年六十歳逝去。

 現代俳句文庫小澤克己句集(ふらんす堂)あとがきによれば『遠嶺」が創刊一〇周年を迎えた時の感想文として、小澤克己は「俳句はこれで良いと思ったら不思議にぴたりと止まってしまう文芸なのでこれからも更に邁進していきたいと」と述べている。また、もし節目があるとしたら、それは今年かもしれない。句集には歴史がある。私の分身(エセンス)でもあると記述している。(平成十四年五月)。

三、小澤克己の評価
 (1)『沖』主宰能村登四朗氏は、「青鷹」の「序」で次のように述べている。この句集を「青鷹」と命名しその青鷹は三歳鷹の若い鷹ながらも成熟している。若いけれども既に青年の若さを卒業している小澤克己にぴったりの題である。この句集で詩人である小澤克己を俳人として認めている。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  浮巣みてより旅人の目となれり


など俳人の感性をしなやかに撓めて一字を美しく表現していると評価している。

  悪霊が来てざわめきぬ黒葡萄
  往来の人を魚とす花氷
  ふいの子の遊びが変わり夏に入る


の三句は俳人とは別に詩人である一面がでていてしかも俳句作品になっていると評価している。小澤克己が俳人として認められたことは、今後の俳句活動に大きな自信に繋がったと思われる。

(2)一方、師の林翔氏によれば、「青鷹」のように三十代「青」の世代と言って「鷹のように雄雄しい。そのますらをぶりは俳句の用語に表れていると。

  惨敗の日は凍蝶を見て飽かず
  信条は一語で足れり冬の滝
  凜として苗代寒のこゑ通す


 漢語が句の中で重みを持っていると評価している。
 また、俳人的特質の句として次の作品を上げている。

  山に日がすとんと落ちて柚子湯わく
  徐々に空傾ぐ冬木を伐ってをり
  炎天のはるかより来て尼僧なり


四、小澤克己句集「青鷹」の鑑賞の試み
  いつも陽の死角にありて浮寝鳥

いつも陽の当らない場所を選んでいる浮寝鳥。おそらく鴨であろう。作者の分身かも知れぬ。敢えて陽の当らない場所は安逸しているわけではない。単なる作者の居場所であろう。これからの作者が俳人として歩む場所のように感ずる。

  湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り

昭和五十三年三月浜名湖における同人研修会で能村主宰の特選を得たものである。何よりも「水の微熱」が正しく早春の浜名湖に相応しく言うに言われぬ措辞である。「蝌蚪曇り」と「水の微熱」の調べがこころよい。

  藻の花が咲いて浮上を許さるる

 藻の花は、蕾の時は水中にあり夏になると水面に花を咲かせる。単なる見たままの写生でなく詩的な表現でまとめている。言語芸術の花である(林翔氏)。
若死の父ほど麦踏み難し
 作者は十三歳の時で、父は四十二歳で逝去された。思わぬ死去は、いつも頭の隅にありその父への思いを句にしている。

  父の箸すこし剥げをり花菜漬
  歳晩の父在らば割る薪ならむ
  まだ若き時間の中で胡桃割る


 「蒼」とは青とも碧とも違う。青黒く変化する過程の色と思われる。そのような時間帯。救いの灯はまだ遠い。

五、小澤克己句集「青鷹」を読んで
 「青鷹」を出版した当時は、現代俳句がユニークな作品を求めた時代である。林翔氏によれば、この句集は見事に反映されていると評価している。
 作者は「庵と銀河」のあとがきで、発心・青雲・銀河・精華・無常・和の提唱する情景俳句の推移が分かるように試みた。この「庵文学」を更に深めて行き、憧憬の西行、芭蕉、蕪村らに少しでも近づきたいと述べている。大胆且壮大な志である。志半ばで急逝されたことは残念でならない。その志を継ぐ人には、今後の研鑽を待つしかないと思われる。

引用文献
小澤克己句集「青鷹」蒼海出版
俳句雑誌 「遠嶺」小澤克己追悼・最終号
現代俳句文庫 小澤克己句集 ふらんす堂
「庵と銀河」小澤克己著作 文学の森
「風舟」小澤克己句集 角川書店



【角谷昌子・鑑賞と批評】
 松代さんは、俳人協会の俳句評論講座に参加され、師系についての座談会や研究をなさったらいかがか、との講師のアドバイスに従い、さっそく小澤克己研究に踏み出されました。

 提出された小澤克己論のイントロ部分ですが、出会いの記述のみとなっています。ほかにも師との個人的な体験から、師の人物像が立体的に描かれ、なぜ師事したのか、対象の魅力を伝えると読者も引き込まれると思います。


1)    生い立ち、2)俳人としての小澤克己:これらを別々にせず、この二つを合わせて

略歴を記述し、なぜ第一句集『青鷹』にフォーカスしたのか、理由を書きたいです。また、せっかく小澤克己の言葉を引用したら、そこから論を膨らませたらいかがでしょう。
 
3)小澤克己の評価:登四郎、翔の評価を引用しつつ、ご自身の作品鑑賞を広げたい。

4)『青鷹』鑑賞の試み:登四郎・翔の鑑賞引用から、3)同様に著者の鑑賞を深め、広げたい。ですので、3)4)は、分けなくてもよろしいかと。


5)『青鷹』を読んで:結論部分です。作家論、作品評というより、感想になってしまいました。


〇全体的に、もっと小澤克己の言葉(その場合も、長々と引用する必要はなく)の要点を捉え、彼の作家としての姿勢・志を表現したいです。師事された小澤克己の俳句、また文学への態度が、いかに『青鷹』に反映されたか、論じられたらいかがでしょうか。鑑賞・評価も、先人の言葉の引用中心ではなく、引用から発展させて著者自身の言葉で理論展開していければと思います。

 いずれにしても、まったく初めて作家論を執筆されたわけです。この作を出発点としてさらに肉付けし、ご自身の視点で新しい小澤克己論が執筆されることを期待しています。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
<はじめに>
松代忠博さま

 テクストをありがとうございます。

 第3回の講座では受講者から提出していただいた論文を、私と角谷さんが中心となり論評する方式を取らせて頂きました。拝見したところ、すでに何回か評論を執筆した経験のある方が中心であり、客観的に鑑賞や評価だけで進めてゆくことが可能と思ったからです。
 一方、BLOGには既に評論を連載されている大関さんから、評論のとりまとめ方のご質問を頂きました。せっかくこうした場が出来たからは、色々なご希望に沿って行きたいと思います。
 さて第1回の講座でご質問があったようになかなか書くきっかけのない結社の方がどのように評論を書くかということで、共同研究のやり方をおすすめしました。今回松代さんからは、その第1回目のテクストを提出していただき、あわせて共同研究を進められたい旨ご連絡がありました。
 そこで折角ですので、角谷さんから頂いたコメントを掲載させていただきましたが、一方的に鑑賞批評するだけではなく、共同研究を進めるための私なりの助言もしてみた方がいいのではないかと思いました。
 既に練達の方にはあまり必要が無いかもしれませんが、俳句に入門講座があるように、俳句評論にも入門講座があっても良いと思われたからです。考えるとどんな立派な評論家であっても最初から立派である人ばかりではありません。飯島晴子の昔を知る人から伺ったところ、女性評論家としてぴか一と言われていた彼女も初心時代は涙が出るほどさえない文章であったと聞いたことがあります(これはまた聞きですので正確ではないかもしれません。飯島晴子ファンには失礼します)。
 評論を書くためには各自が試行錯誤してゆくよりしょうがないという王道の見方もありますが、しかし一方で色々なヒントや助言があるに越したことはないと思います。
 第3回の講座のような方式をとったのは、提出者がテーマを探索中で、改めて書く場合も別のテーマになるだろうと思ったからです(テーマが点々移転する可能性があるということです)が、松代さんの場合(共同研究者も含めて)は、テーマはあまり変わらない(小沢克己論)のではないかと思います。その意味ではほかのお三方と少し違ったやり方で進めてはどうかと思います。
 幸い、私も「沖」に在籍し、沖のバックナンバー、小沢さんの著書、古い書簡等を持っているので、利用も可能ですので何かヒントになることを申し上げられると思います。

<そのスタート>
 小沢さんは物故されたとはいえ長い俳句活動があり、さらにその前に詩や短歌でも活動していたこともあり、語るべき材料はいろいろあります。一方、若くして亡くなりあまり結社外では小沢論は多くなく、亡くなった後語られることも少ないようです。その意味では、日の目の当たっていない資料はいろいろあると思います。ご参考までに、思い出す範囲で紹介しましょう。特に、角谷さんが指摘している「彼の作家としての姿勢・志」は結局一番最初にさかのぼることによってたぶんピュアに見えてくると思います。その役に立ちそうなことをやや煩瑣になりますが述べさせていただきましょう。
    *
 小沢さんは、昭和53年(28歳)に「沖」に入会しています。小沢さんが入った直後から私は注目していました。理由は二つあります。
 一つは、小澤さんの入会した直後の54年1月は沖創刊百号記念に当っており、例年にないボリュームある新年号となっていますが、このとき公募された記念作品に、評論の部では筑紫磐井が二位(「女流俳句論」)、小沢克己が三位(「感動の過程」)に入賞したからです。当初からライバルとしてデビューする宿命でした。
 もう一つは、沖では創刊以来、例年二十代、三十代の作家を交互に集めた青年作家特集を五月に行っていました。2か月あとに、結社以外の人気作家にこれらの作品を論評させていたのです。小沢さんが、青年出家特集に最初に登場したのは54年5月でした。
このときの評者、青柳志解樹氏(「山暦」主宰)の懇切丁寧な句評のなかから特に好評を得た句をひいてみます。

  滝口はむしろ静寂山桜       能村研三
  色鯉の暗きに集ひ桜冷え      森岡正作
  まづ空と頒つ興奮辛夷咲く     小沢克己
  いつときは花をちからの想夫恋   筑紫磐井
  思ひきりカーテンをひくリラの花  正木ゆう子


 さらに、この特集で注目すべきことは、特集によせられた能村登四郎のことばでした。その中で、こんなことを言っています。

 「曾て今の六十代の作家が三、四十代のころ社会性俳句が抬頭して戚勢のいい論争が行われたりしてジャーナリズムを賑わしたが、その社会性派と行動を同じくしなかった飯田龍太とか森澄雄などは、寡黙ながら地味な実作で独自の俳句の世界を作って今川に至っている。その頃の三、四十代は今のように先輩に対して畏縮したりしない一種の気慨と自負をもっていたようである。それやこれやを考えると、今の三、四十代の作家は若いということを力にして、もっと自信をもって行動してもよいのではあるまいか。」(「青年作家に望む」)

 これは青年作家一般に対して言っているだけでなく、一躍デビューした(この直前に巻頭となっています)小沢さんに向けられた言葉でもあるのでしょう。
 私は、57年2月に「沖二十代の群像」という評論を書いており、それまでの沖青年作家の活躍を論じたのですが、このとき一章を割いて小沢さんについて書いています。恐らく、俳壇で最初に書かれた小沢克己論であったのではないかと思います。

 「この年(54年)初めて青年作家特集に参加した小沢克己氏は、詩に評論に幅広い活仂をされているが、そのバイタリティにより見事沖作品の巻頭をとげ、翌年同人に推薦されている。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥   小沢 克己
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  考へのどこかで狂ふ冬林檎


 また、その後小沢氏は「シュルレアリスムと俳句」と題して、この詩的技法と俳句について論ぜられた一編を書かれている。若い作家として当然の欲求ともいえる詩論への架け橋として、いささか難解ではあるが熱っぽくプルトン一派の主張を述べられていたのが印象的であった。」


 ここに書かれた通り54年3月沖作品の巻頭を得て、55年1月同人となっているのです(私と正木ゆう子は翌年同人となっています)。入会してから2年もたたないうちに同人となったのには皆が呆然としたのも無理ないでしょう。
その時の巻頭作品の、登四郎評を掲げましょう。

「いつも陽の死角にありて浮寝鳥   小沢 克己

 一読しておわかりのことと思うが、発想が従来の沖のものとちがうことである。ちかっていて、やはり「沖」風と異質のものでない。つまり「沖」の新しい方向を示した作品であることである。掲句は「死角」などという熟さない言葉を使っていてもすこしも気にならない。内容が浮寝鳥のような古典的なものだからである。」【注】

 ここで、登四郎が「「沖」風」と言っているのは、初期の「沖」にあっては、登四郎、林翔や有力同人に限らず、擬人法を中心とした人為的な表現法を積極的に取り入れており、それが「沖」風と呼ばれていたものなのです。当時の若い作家たちは皆こうした創作環境の中で切磋琢磨したのでした。小沢さんを知るためにも、この点は見逃せないと思います。果たして小沢さんは、「沖」風を脱したのか、「沖」風を深めていったのか、それは松代さんたちにぜひ研究していただきたい点です。

【注】この原稿を執筆後、バックナンバーそのものを探し出して読んでみると原文が次の通りでした。私の元にした資料は大分抜粋しています。


 「同人を数名潮鳴集(筆者注:「沖」の同人作品欄)に送った後(筆者注:「沖」では毎年1月新同人の発表が行われていた)なので、どんな新人があらにわれるかと期待していたら、今月は若い男性作家が期せずして四位までのところに並んだ。その中で誰を巻頭にしようかとしばらく迷った。その結果もっとも入会の新しい小沢克己君にきまった。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥 小沢 克己
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  考へのどこかで狂ふ冬林檎


 一読しておわかりのことと思うが、発想が従来の沖のものとちがうことである。ちがっていて、やはり「。沖」風と異質のものでない。つまり「沖」の新しい方向を示した作品であることである。今「舵の会」あたりで上谷昌憲さんがしきりと試みている新しい系列の作品であるがいかにも二十代の青年らしい斬新さと意欲かある。小沢君は百号の論文でみごと入選したが、作句の底にあのような文学的な理論の裏付けがあるから、俳句の上でどんな新しい試みをしても安心して見ていられる。筑紫磐并君などもあれほどいい評論を書く人だから、俳句にもう一つ踏んばってくれたらといつも思う。
 第一句、「死角」などという熟さない言葉を使っていてもすこしも気にならない。内容が浮寝鳥のような古典的なものだからである。「毛糸玉」の句も「秘密」という語彙がうまく内容ととけ込んでいる。このような毛糸巻の句は未だ見たことがない。第三句の 「冬林檎」の句も林檎を卓上に置いてあれこれと思案する作者の迷える姿が想像される。「沖」の百号以後の新風を期待する。」


<おわりに>

 若い頃の手柄話のような話になり恐縮ですが、当時のことを知る人は少なくなっているために敢て申しあげました。これから研究を進めてゆくにあたって多少ともお役に立てば幸いです。
 ただ申上げますが、評論の書き方は百人百様あり、ここにあげたのは私流の評論の書き方(実証的方法)であり、たった一つの例に過ぎないことです。評論を書くと言うことは、こうした一人一人の評論の書き方を探してゆく事だろうと思います。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉛ のどか  

シベリア抑留俳句および満州引揚げの俳句を読んで‐その1

(1)過酷な境涯を俳句は支えたか

 ここではまず、シベリア抑留のような厳しく過酷な境遇において、俳句が生きる支えとなったかを確認して行きたい。
 これまで参考にしてきた『シベリヤ俘虜記』には、13名305句が収められている。そのうち随筆を添えている者は7名、俳句のみが紹介されている者は6名である。そしてシベリアの様子を伝える随筆のある7名の中から小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さん、庄子真青海さんと『続・シベリヤ俘虜記』からは、高木一郎さんの作品を取り上げた。
 小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さんは、酷寒の地に於いて個の営みの中で俳句を残し、庄子真青海さんと高木一郎さんは、個別に俳句を詠むばかりでなく句座としての人との繋がりの中で、俳句を詠む環境に恵まれたケースとして枠組みした。
 ただし、庄子真青海さんは、酷寒のシベリアに於いて、高木一郎さんは、欧露の将校集団の収容所(ラーゲリ)に於いてと環境の差がある。
 小田保さんの随筆には、ソ連侵攻時の占守島の戦いや、抑留生活での赤化教育とそれに派生する吊し上げ中心に書かれており、俳句との関連する箇所は見当たらない。あえて言うなら『シベリヤ俘虜記』P.36に~文字に飢えた者らに短歌会を指導しソ連政治将校に踏み込まれた~とあり、小田保さんにとって短歌の経験を生かして俳句を詠むことは、あまりにも日常であり、これをよりどころとしてシベリアの3年間を過ごすことができたのだと思われる。
 黒谷星音さんは、随筆の中で3年間にわたる苦難の抑留生活のなかで、新聞やノートの切れ端に俳句を書き綴ったと書いており、それは亡き戦友への鎮魂や俳句への執念ゆえであり、俳句は心の支えとなったとある。
 石丸信義さんは随筆で、出征後兵営で俳句を作り続け軍隊と言う抑圧された世界で、精神的自由と俳句的自由を持つことができた。大自然を脳裡に深く刻みこんでおきたい、再びと無いこの体験が、私の第2の原風景となることを思ったからであると、書いている。
 シベリア抑留の体験を、1回しか巡り合わない貴重な出来事として、肯定的に受け止め俳句を詠み続けることは、ビクトール・E・フランクルが『夜と霧』の中で言う、「避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、人生最後の瞬間においても生を意味深いものにする可能性が開かれている」ということに繋がり、生き延びるための糧になったと考える。
 句座の中で俳句を続ける環境にあった、庄子真青海さんの『シベリヤ俘虜記』の随筆の中には、シベリアでどのように俳句をしたのかについては記されていないが、『続・シベリヤ俘虜記』『カザック風土記 庄子真青海句集』には、月に1回の「若草句会」が開催されたとあり、草皆白影子とのノルマ作業を通じての信頼関係深く、引揚げ後の俳句の世界でもその関係は良好に保たれたとある。
 同じように句座での俳句の場に恵まれた、高木一郎さんは、欧露の左官級の将校が抑留された、ラーダ収容所、エラブカ収容所、ボンヂュカ収容所で、自主的に強制労働に従事している。司令部の高島直一が文化活動として呼びかけたのが俳句会であったと書いており、赤化教育で加熱したつるし上げにより、疑心暗鬼に陥るなか信頼できる人との関係を得ることができたとある。
 しかし、一方で逆境を生き抜くために俳句が支えとなったケースは、出征前から俳句のたしなみがあり、俳句の習熟を得ていたからだという見方もあろうが、収容所での文化活動をきっかけに俳句に親しみ、復員後に本格的に俳句を始めた者もある。
今回採り上げなかった、中央アジアウズベク共和国アングレンにて、運河・建築・炭鉱などの強制労働に従事した北島輝郎さんはの随筆には収容所の俳句短歌の集いの俳句募集のビラへ応募し俳句を始めとある。                         
 また、隈治人さんの場合、ダンボフのラーダ収容所での俳句との出会について、昭和21年の元旦を控えて、兵舎内で短歌・俳句・川柳の募集が行われた。と書かれている。
 極寒のシベリアの収容所や欧露の収容所の文化活動として、五・七・五の調べに自分の境涯や思いを託す俳句や短歌の有ったことは、日本人の幸いである。 
 重複する部分はあるが、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』を読み進めるなかで、シベリア抑留という想像を絶する環境において、俳句は、①厳しい環境の中死の恐怖を抱きながらの生活を支えた。②抑圧的な軍隊という環境に、精神的自由と俳句的自由を与えた。③厳しい環境の中で、それをたった1回しかない貴重な体験として受け止め能動的に生きる姿勢をもたらした。④座の文学としての横のつながりが、赤化教育やつるし上げにより陥りがちな疑心暗鬼から救い、仲間との信頼関係を回復する効果をもたらした。⑤栄養失調やシラミの媒介する発疹チフスなどで次々と死んでいった仲間への鎮魂としての俳句は、生き残ってしまったという贖罪の念からの救いとなった。以上のような点で、俳句は俳句を杖とする者の境涯を支えた。
                    つづく
参考文献
『シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 昭和60年4月Ⅰ日
『続・シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』高木一郎 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日
『カザック風土記』庄子真青海句集 卯辰山文庫 昭和51年4月15日


【抜粋】〈俳句四季4月号〉俳壇観測207 結社はどこへ行くか――俳壇35年の回顧から見えてくるもの 筑紫磐井

俳誌の減少
(前略)
 「俳句年鑑」に載っている雑誌の数で一概に結社の衰退を語ってよいのかはあるがが、「俳句年鑑2020年版」を見るとこの数字はさらに減少して、589誌となっている。
 そこで、「俳句年鑑2019年版」と「俳句年鑑2020年版」を比較してその増減の変化を見てみると、次のようになる。
(中略)
 具体的な誌名を見ると納得できるものもあるが、今更ながらにその変化の激しさに驚かされる。さらにこれらを10年間に限り推移をまとめてみると次のようになる。

 西暦    雑誌数    自選5句人数    (俳壇)雑誌数
2020  589   637        ー
2019  607   640        670
2018  633   656        700
2017  640   628        740
2016  650   637        760
2015  662   646        790
2014  673   662        790
2013  716   671        790
2012  770   694        790
2011  786   707        790

雑誌数の他に指標となる自選5句掲載人数、そしてライバル誌「俳壇年鑑」の雑誌数(2020年版は未刊)も掲げてみた。なお「減少」とは厳密に終・廃刊した雑誌ばかりではなく、「増加」も創刊された雑誌ばかりではない。年鑑での雑誌名の消滅・出現だけを意味するが、およそのイメージは分かる。

俳句年鑑の見方
 注意しておきたいのは「俳句年鑑」の掲載方針だ。私が俳壇というものに関心を持ち始めた1985年以降のことを回顧してみよう。
 「俳句年鑑」は1988年までは俳誌総攬に掲載されている雑誌数は250誌程度であった。この頃は〈エリート結社誌〉総攬であったのだ。しかし、1988年に秋山編集長が就任し、1990年「結社の時代」のキャンペーンを張った頃から400近い誌数に増えて行く。これは秋山に協力して「結社の時代」特集に参加した結社が300ほどあったからその意味ではいわば〈秋山シンパの結社誌〉総攬の数字であった。その後1998年に海野編集長が就任し大幅な年鑑の改革――結社を網羅し、本格的な結社の時代を企図したものだろう――してから774誌と倍増しており、いくばくもなく830誌となっている。〈結社の時代〉が可視化された総攬と言える。「俳句年鑑」の掲載雑誌のピークは確かに涼野の言うように2006年前後であり、それからは減少しているのだが、これは参考に挙げた「俳句年鑑」のもう一つの指標である自選5句掲載人数もほぼ同じ傾向をたどっている。
 しかしこれが俳句界全体の活力を測る指標に直結するかはまだ疑問である。実は「俳句年鑑」の頁数は2010年の644頁から2020年の542頁に大幅減少している。雑誌の頁数が100頁以上減少するのだから、記事内容が縮小しても当然のはずであった。この限りではむしろ編集方針の反映といえなくもない。
 従って、これは他の媒体の数値と比較して見る必要がある。参考に掲げたのは本阿弥書店の「俳壇年鑑」であり、ここでは2015年まで俳誌は横這いで、それ以後「俳句年鑑」の数字より急速に減少している。また、すでに終刊してしまった「俳句研究年鑑」は、途中までの数字しか分からないが、1997年の752誌が2005年には700誌に減っている。
 年鑑の結社雑誌の動向の指標はこのように比較検討して初めて実体が分かるのである。ただその結論は、いずれにしろ俳誌は顕著に減少・衰退しているということだ。私が掲げた「減少」している雑誌に問い合わせればその理由も自ずと分かるはずだ。
 しかしこうした事実は、はるか以前から分かっていたはずだ。「俳句年鑑」の結社数拡大に貢献した海野編集長は当時こう語る。

 「結社誌・同人誌の増加がそのまま俳句の隆盛を意味すると考えるのは、少し楽観的すぎる気がする。編集の現場にいれば、いわゆる「俳句ブーム」なるものがすでに終わっているのはあきらかである、と感じるのだ。」(「俳句年鑑2000年版」編集後記)

 「結社の時代」以後俳句ブームは衰退する。結社の時代から結社衰退の時代に変わったのではない。結社を衰退させたのは俳句上達法特集にかまけた「結社の時代」キャンペーンそのものであった。我々はその30年前のとがめを受けているのである。

※詳しくは「俳句四季」4月号をお読み下さい。


2020年3月13日金曜日

第132号

※次回更新 3/27

祝!井口時男さん、芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞

特集『切字と切れ』

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足

【新企画・俳句評論講座】up!

・はじめに(趣意)
・連絡事項(当面の予定)
・質問と回答
・テクスト/批評   》目次を読む

【新連載・俳句の新展開】

句誌句会新時代(その一)・ネットプリント折本  千寿関屋  》読む
句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿関屋  》読む

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和2年歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃
第二(1/17)曾根 毅・池田澄子
第三(1/24)坂間恒子・大井恒行・仙田洋子・山本敏倖・堀本 吟
第四(1/31)浅沼 璞・渕上信子・松下カロ・加藤知子・関悦史
第五(2/7)飯田冬眞・竹岡一郎・妹尾健太郎・真矢ひろみ・木村オサム・神谷波
第六(2/14)早瀬恵子・夏木久・中西夕紀・岸本尚毅
第七(2/21)ふけとしこ・花尻万博・前北かおる・なつはづき・網野月を・中村猛虎
第八(2/28)林雅樹・小林かんな・小沢麻結・渡邉美保・高橋美弥子・川嶋ぱんだ・青木百舌鳥
第九(3/6)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・のどか・水岩瞳
第十(3/13)家登みろく・井口時男・仲 寒蟬・五島高資・佐藤りえ・筑紫磐井


令和元年冬興帖
第一(12/27)曾根 毅・小沢麻結・渕上信子・松下カロ・山本敏倖
第二(1/10)小林かんな・池田澄子・辻村麻乃・内村恭子・中村猛虎・夏木久
第三(1/17)網野月を・大井恒行・神谷 波・花尻万博・近江文代・なつはづき・林雅樹
第四(1/24)岸本尚毅・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・竹岡一郎・妹尾健太郎
第五(1/31)仲寒蟬・小野裕三・渡邉美保・望月士郎・飯田冬眞・早瀬恵子
第六(2/7)木村オサム・ふけとしこ・真矢ひろみ・前北かおる・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(2/14)菊池洋勝・高橋美弥子・川嶋ぱんだ・青木百舌鳥
追補(2/28)家登みろく・水岩瞳・井口時男

令和元年秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・ふけとしこ
第五(12/6)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子
第六(12/27)青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本吟・飯田冬眞・花尻万博・望月士郎・中西夕紀
第七(1/10)渡邉美保・真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・仙田洋子・渕上信子・水岩瞳
第八(1/17)小林かんな・加藤知子・網野月を・早瀬恵子・中村猛虎・のどか・近江文代・佐藤りえ・筑紫磐井
追補(2/14)菊池洋勝・高橋美弥子・川嶋ぱんだ
追補(2/28)家登みろく
追補(3/13)井口時男


■連載

【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測206
九年目に回顧する震災俳句 ――震災を蒙った私が詠む
筑紫磐井 》読む

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
インデックスページ    》読む
5 温かい視線/衛藤夏子  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉚ のどか  》読む

英国Haiku便り(6) 小野裕三  》読む

句集歌集逍遙 秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ   》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
インデックスページ    》読む
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
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7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
3月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




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「兜太 TOTA」第3号

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【俳句評論講座】評論執筆の質問と回答

 
いつもお世話になっております。
 (現在BLOG「俳句新空間」に連載中の)自分の原稿(「寒極光・虜囚の詠」)について、2点質問させてください。
 よろしくお願いいたします。

<質問>
①文章の前半にかなりのボリュームで、大東亜戦争の歴史や抑留体験者の体験談をとりあげていますが、このような形式で良いのか、他に良い整理の仕方があるか教えてください。

②歴史的資料の引用や句集の作者の体験談の引用もそのままをのせております。これについても、整理した書き方を教えてください。

大関博美(のどか)

【参考】
寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む(目次)

(○の数字は連載の通し番号、BLOGの「のどか」で検索すると逆順で表示)
https://sengohaiku.blogspot.com/search/label/寒極光・虜囚の詠

第1章
Ⅰ.はじめに ① 
Ⅱ.シベリア抑留への歴史 ② 
Ⅲ.シベリア抑留語り部の体験談    
(1)ソ連軍の侵攻 ③ 
(2)武装解除 ④ 
(3)ダモイ・トウキョウ ④
(4)シベリアへ ④
(5)収容所 ⑤ 
(6)極寒 ⑤
(7)食事と飢え ⑤
(8)身体検査と労働等級 ⑥ 
(9)伐採作業 ⑥
(10)自動車積載作業 ⑥
(11)埋葬 ⑥
(12)政治教育 ⑥
(13)引き上げ・帰還 ⑦ 
(14)シベリア抑留体験者の体験談をまとめて ⑧ 

第2章 シベリア抑留俳句を読む
Ⅰ.小田保さんの場合 ⑨~⑪        
Ⅱ.石丸信義さんの場合  ⑫~⑬ 
Ⅲ.黒谷星音さんの場合  ⑭ 
Ⅳ.庄子真青海さんの場合 ⑮~⑯
Ⅴ.高木一郎さんの場合 ⑰~⑳

第3章 戦後七〇年を経ての抑留俳句
Ⅵ.――百瀬石涛子さんの場合 ㉑~㉖

第4章 満州開拓と引き上げの俳句
Ⅶ.――井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む ㉗~

第5章 シベリヤ抑留俳句・満州開拓と引き上げの俳句を読んで(未執筆)

【筑紫磐井の回答】
(1)大関さんの論文につては既に連載で30回に及んでおり、これだけの筆力のある人は多くないと思います。講座の初回で申し上げたように、論理的な評論である必要はあまりなく、「血沸き肉躍る」文章が評論では必要であると思います。これだけ長編の文章を書けると言うことは、作者の思い入れが強いことですから、「血沸き肉躍る」評論となる第一条件は満たしています。繰り返しになりますが、俳句と違って(?)論文の場合は継続する膨大なエネルギーが必要で、それに関しては申し分ないと思います。長い文章さえあれば、後は見直し・添削・書き直しの整理を繰り返せば一流の論文にすることは可能です。

(2)ちなみに、大関さんのテーマ(抑留・引揚者の俳句)に関しては、これらのテーマについて取りまとめた俳句評論として、手近なところでは、阿部誠文氏の単行本『ソ連抑留俳句』(第16回俳人協会評論賞受賞)『満州・中国俳壇』『朝鮮俳壇』『台湾俳句史』等、「俳句文学館紀要」所収の論文「キメラの国の俳句」(9号)「欧露抑留句集『大枯野』について」(10号)「朝日新聞に見る戦時中の俳句」(14号)等やそこに付された参考文献があるようですのでご覧になったらよいでしょう。大関さんは色々な文献を引用されていますが、それらを踏まえたうえで、「評論」としてどのようにまとめるかが分かると思います。論者それぞれ関心は違いますので、必ず読まなければならないわけでもなくそこから鉄則を導き出す必要もありませんが、まとめるにあたっての参考にはなると思います。この種のテーマを取り扱うための勘どころのようなものが見えてくると思います。

(3)以上は一般的なコメントですが、少し細かい点を申し上げます。
問<文章の前半にかなりのボリュームで、大東亜戦争の歴史や抑留体験者の体験談をとりあげていますが、このような形式で良いのか、他に良い整理の仕方があるか教えてください。>
答:基本となる資料(聞き語りや回想録)は大事ですが、それが事実であるかどうかは吟味した方がいいと思います。話者は、思い違いをしたり、場合によってはうそをつく場合さえあります。いくつかの資料を併行して扱えば自ずと真実は浮かび上がるものですから、(2)で述べた関連資料もその意味で役に立ちます。たった一つの真実が面白いのではなく、あれやこれや論者が思い迷うプロセスも面白いと思います。私などは、たった一つの真実などあり得ないと思っています。

問<歴史的資料の引用や句集の作者の体験談の引用もそのままをのせておりますこれについても、整理した書き方を教えてください。>
答1:まとめ方について申し上げます。30回にのぼる長編ですので切れ目が必要です。いくつかのパートにまとめて見て、ひと休止したところで言いたい小結論をまとめてみたらいかがでしょう。そこにまとまり切らないあふれ切った原資料部分はたぶん削除しても支障はないでしょう。それをすることによって文章そのものも引き締まると思います。そしてこうした小結論をまとめると、この論文の結論、大結論となるでしょう。
答2:大関さんの目次で言うならば、第1章(Ⅰ~Ⅲ)と第2章以下(特にⅥ、Ⅶ)の対比は興味深いと思います。第1章の歴史的事実、客観的事実はそれだけで研究書として価値があると思います。ただそのためには、①で述べたようにいくつかの資料を合わせて検証することが望ましいと思います。
 第2章以下はもう少し主観的感想が混じると思います。したがって、両方が相まってうまく融合すると傑作になる可能性はあります。
いずれにしろ、誰にでも書け得るものではない、大関さん固有のテーマが浮かび上がると思います。ご精進を期待します。

【緊急発言】切れ論補足(8)「切字と切れ」座談会・特集用メモ①  筑紫磐井

1.その後の仁平勝―――仁平勝「五七五のはなし」(「都市」全十二回連載)

 4月刊行予定の俳句総合誌「ウエップ俳句通信」では「切字神話よ、さようなら――「切字と切れ」座談会」(仮称)を高山れおな・岸本尚毅氏と行うことになっている(司会:筑紫)が、この座談会のために仁平勝「五七五のはなし」、川本皓嗣「新切字論」について若干のメモをまとめた。予め読んでいただけると理解の助けになると思う。もちろん座談会用メモであるから、2つの論文の概要などというものではなく、私の議事進行用の簡単な手控えであるが、なかなか読む人の少ない専門的な論考なのでこのようなものがあると便利であると考えた次第である。
       *         *
 仁平の切字論は、第一評論集『詩的ナショナリズム』(昭和61年)に始っており、俳誌「都市」の標記の連載でもその前半及び中盤まではその祖述が多い。取りあえず簡単に紹介することにしよう。頭の(番号)は連載回数を示している。

(1)「切れ」は俳句の本質である(筑紫注:「俳句」であって「発句」ではない点に注意。『詩的ナショナリズム』でそう書いているからである)。ここでいう「切れ」とは句末で切れることである。「句切れ」(句中で切れること)ではない。
句中に切れ(筑紫注:上述の入念な注意にもかかわらず、にもかかわらずここでは「句切れ」を指す)を入れることで、句末に切れを生むことがある。
(2)短歌の上句が独立した五七五という定型には、切り捨てられた下句が、いわば「幻肢として」構造的に抱えこまれている。
幻肢としての下句は、俳諧の脇句の名残りではなく、五七五という音数律そのものの不安定さである。切れとは幻肢としての下句から切れる方法意識である。
俳句は短歌に比べて相対的に短いのではなく、絶対的に不安定なのである。
(3)川柳でいえば、川柳には切れはない。前句付の付句は、題に対する答えであり、そのあとに句が続かないから切れは必要ない。
(4)~(6)は、山本健吉の「挨拶と滑稽」「俳諧についての十八章」の解釈であり、仁平の上記の理論の根拠付けであるから、ここでは省略する。
(7)切字の中の「や」は特殊であり、句切れを作って散文脈を断ち切り、そのことで五七五を安定させる。発句的(筑紫注:「俳句的」ではないことに注意)に言うと句末に切れを生む。
(8)結論として切字の機能を次のように宣言する。
①五七五という不安定な音数律を詩の定型として安定させる機能がある。すなわち発句的美学(筑紫注:「俳句的」ではないことに注意)といってよい。
②古語を盛り込むことによる異化効果を生ずる。詩的アナクロニズムという。

 以上は、仁平の『詩的ナショナリズム』に比較的沿った記述となっている。『詩的ナショナリズム』からの微妙なゆらぎは(筑紫注)で示した。しかしこれ以降の、(9)~(11)は以上の論理を変更したと思われる思想である。以下それを紹介したいと思うが、仁平の記述の順番ではなく私の整理した順番で紹介することにする。

(10)連歌師はなぜ切れにこだわったか。連歌師は連歌という形式が和歌とは別の新しい詩型として確立させようとしたのである。連歌の最初に来る発句の五七五は、和歌の上の句と異なる独自の特性がなければならない。それが七七の脇句が切れることであり、そして切れる技法を習得することが連歌師にとって必須の課題であった。切れとは発句を権威づけるための理論武装であり、当時の連歌師にはそれが切実な課題だった。
      *
 しかし今日の俳人たちにそういう切実さはもう存在しない。すでに五七五という定型は大きく確立されており、同じ古典詩である短歌に対して俳句の独自性を主張する必要性もない。だからいつまでも発句の遺産である切れを論じなくてもいいのではないか。「や」「かな」「けり」は発句的な美学として考えればよい。

(9)虚子は平句の形をとった。散文と変わらない文体が、五七五という定型律によって俳句になっている。切れによって、一句が独立性を保つ必要はない。平句のようにラフな形がふさわしい時もある。虚子の好んだ切れのない句を平句体と名付け、そういう句を積極的に支持している。
    *
 五七五という定型はもはや切れを必要としないほどに成熟している。不安定なままで発句的な詩学とは別の定型律を生み出している。発句は俳句ではない。同時に五七五という音数律による古典的な定型詩である。古典詩であるがゆえに「や」「かな」「けり」といった古語が有効なレトリックとして機能する。

(11)(現代の「や」を使った例句をあげて)作者が感動なり、詠嘆しているとは思わない。私がアイロニカルな表現というのはそのことだ。現代語と古語の意図的なミスマッチによる俳諧味といってよい。

(12)は話題を切字から転じ韻文を論じているのでここでは詳しく紹介しないが、ただ次の記述は切字に関連する話題である。
   *
山本健吉に批判された新興俳句は発句と別の面で五七五という音数律を維持し、むしろその効果を切字以外のところで発揮して見せた。

[筑紫の全体的注]
(7)の「や」の特殊な機能については、仁平自身によって具体的には語られておらず、後に川本皓嗣が俳諧作品を例にして係助詞の遠隔操作説で解説した。藤原マリ子は、「や」の分析をすることにより①川本説が全ての場合に当て嵌まるものではないこと、②「や」の使用の歴史的推移から配合の「や」と主格の「や」が江戸俳諧では主流になることを示した。田中道雄は、江戸時代を通じて、特に芭蕉以降、F形式(芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に因むもので、名詞+や+下五の名詞止めの構造を持つ句)が主流となっていく過程を示した。しかし、新興俳句、及び「第二芸術」の影響を受けた戦後の現代俳句ではF形式が忌避されるようになった。例えば仁平が(11)で掲げている「や」はほとんど配合の「や」、主格の「や」、F形式の「や」ではなくなっているようだ。
(9)の「定型はもはや切れを必要としないほどに成熟して」いる原因については仁平は明確にしないが、『詩的ナショナリズム』(昭和61年)以降俳壇を大きく変更させたものに私見であるが、角川書店「俳句」編集長秋山みのるが展開した「結社の時代」キャンペーンがある。「結社の時代」キャンペーンは飯田龍太の「雲母」終刊後2年ほどで破綻し終了したが、「結社の時代」キャンペーンで始った「俳句上達法」は現在に至るまで総合誌の中心企画となっており、こうした文学ではない技術としての発想がもたらしたものが平成俳句であるから、「成熟」は「俳句上達法」と密接な関係を有しているかも知れない。
(11)の「アイロニカルな表現」については、神田秀夫や井本農一の俳句イロニカル説が先行している。

[筑紫の感想]

①『詩的ナショナリズム』及び本論前半では、「「切れ」は<俳句の本質>である」とされていたが、後半では<俳諧の本質>に変えられているようである。「切れ」(句末の切れ)は<現代俳句の本質>であるとはされていない。
②もしそうであるとすれば、「切れ」(句末の切れ)という表徴がなくなるわけであるから、現代俳句と現代川柳を区別する表徴が存在しないことになる。もちろん差別がないことは悪いことではない。
③切字を現代俳句において使う理由は、「古典詩であるがゆえに「や」「かな」「けり」といった古語が有効なレトリックとして」用いられることになるという。
④なお、本論とは別に、「豈」62号では仁平は「「切れ」よ、さらば」と述べている。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉚  のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(4)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
を参考にした筆者文。

【チチハル収容所 11句から】            
  チチハルの真昼の馬糞ぶつけられ

 引揚げを待つチチハルの難民収容所での生活もすぐに帰国できる当てもなく、順番を待ちながら死んでゆく人がたくさんいた。生きる活路を見出すために、井筒さんは仕事を探した。『大陸の花嫁』P.82‐83から
 私は職を求め、食を求めてチチハルの街を歩いた。生活が豊そうな、満馬や驢馬が何頭も飼われているところを訪ねた。私は、清美を負うた腰に寝具の麻袋を巻きつけ、鍋にしている鉄兜をぶら下げていた。収容所に置いておけば盗まれるからだった。
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。
 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」
    (略)
 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」    (略) 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
*ある日井筒さんは、収容所へやってきた八路兵(毛沢東支配の国民革命軍第八路軍の兵隊)の募集する縫製工に応募したが、縫製の仕事は与えられず、夜に仲間の女性が兵隊から襲われてしまい、なんとかチチハルの収容所に逃げ戻ったところ、これまで世話をしてくれたM氏が八路兵から口利きの金を受け取っていたことがわかった。(同じ日本人が、日本の女性を現地の人に売るということは、珍しいことではなく、当時の中国でも日本でも貧困家庭では、娘の身売りは、当たり前のように行われた時代である。)
 井筒さんは、辛くも逃げ出し、母子が住み込みで働けるところを探し、李家(小学校の校長をしている人)のもとで、乳母として雇われた。

【引揚げ3句から】
  ついに帰国防寒服は襤褸でもいい

 李家で、乳母として雇われている間も、時々許しを得て難民収容所へ出かけ
帰国の時を確認していた。そしてついに、 『大陸の花嫁』P.96から
 昭和21年8月28日、いよいよチチハルにいる私たちの引揚げの日が来た。 前日まで世話になっていた李家では、母子に食べさせてもらえるだけで、ありがたいと思っていた。ところが、李夫妻は45日間の給料として四百五十円くださったのである。その頃チチハルの通貨は、ソ連軍票だった。がその軍票はハルピン以南は通用しないということで、李婦人が寄せ集めてこられた満州紙幣であった。これは、くしゃくしゃであったが、お心のこもった紙幣だった。 私はそれを、着ているぼろ服の裏側へ大切に縫い付けた。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16)

【祖国7句から】
  われに祖国敗れても月のぼりくる

*その生い立ちから、悲しい思い出の故郷であるが、それでも帰る祖国があるという安堵感、船の中でみた月であろうか、それとも帰り着いた佐世保の月、生まれ故郷福井県の武生の月で有ったのだろうか、どこにいても月は等しく美しく光り、傷つき疲れた心と体を包んでくれるのである。
 こうして、帰り着いた故郷での暮らしは、決して平たんなものではなく、苦労して連れ帰った清美ちゃんは、2年半の生涯を終えた。
 井筒さんの前半生は、出生の不運と「大陸の花嫁」という国策・戦争・敗戦という大きな歴史の捻じれに巻き込まれ悲惨な日々であった。

【井筒紀久枝さんの作品を読んで】
 井筒さんの作品「大陸の花嫁」は、「満州移民政策」「大陸の花嫁」「ソ連の侵攻」「満州引揚げ」と一連の流れを網羅し当時の様子を良く伝えるものである。本稿では、井筒さんの体験の一部を紹介したにとどまるので、是非、井筒さんの作品を読んでいただけると嬉しい。
 さて、関東軍が首謀し国を挙げて、「満州開拓」「大陸の花嫁」が組織的に仕組まれていたこと、地方の貧困にあえぐ農村にあって経済的な自立を夢見て、開拓民としてまた開拓民の妻として、満州に渡り、ついには、「お国のため」と我慢と苦労の生活を捧げあげくには、「お国」から見捨てられ棄民となった人々の運命の過酷さに驚かされる。これが国策であったことに対してやり場のない怒りを覚える。
 井筒さんは、第1子清美さんと生きて故国の地を踏むことができたものの、引揚げ後清美さんを亡くし、抑留から帰った夫と夫の家族との確執に悩みながら、その生活に終止符をうつ。
 その後、新たな伴侶と二人の子どもに恵まれ、地道に家庭生活を営む一方で、語ることも苦しい体験を自分流に俳句に詠み、「満州追憶」としてメモを残された。
さかのぼると、俳句については紙漉き工場で仕事をしていた、19歳の頃に既に独学で俳句を新聞に投稿し、

  冷たさを確かめて紙漉き始む
  あかぎれの手をいたわりて紙を漉く


が新聞の文芸欄に掲載された。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ~私の青春から~』生涯学習研究社 1993年)
 1968(昭和43)年には、宮中歌会始に入選されたという。 
 既に10代の青春時代に、自分の思いや体験を俳句に結晶し昇華して行くことを体得され、満州からの帰還後は、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句をし始め、昭和52年に百句になったので句集を作成された。この句集は、満州開拓犠牲 者33回忌の法要記念になさった。
 60歳の時に娘さんの陽子さんの勧めで、NHK学園の文章教室に入門し、平成5年NHK学園30周年記念自分史文学賞に応募し、72歳で大賞に選ばれたという。
 井筒さんの作品は、「満州追憶」として纏められたメモから、加藤楸邨の寒雷に投句をして、3年がかりでためたものである。叫びたくなるような凄惨で過酷な現状を、淡々と5・7・5のなかに、凝縮し飾らない表現のなかに、体験者だからこそ伝えられる真実がある。
 井筒さんは、俳句という表現により個人の感情の昇華にとどまらずこの悲しい体験を2度と繰り返さないため、語部の活動に渾身の力を注ぎ死の間際まで続けられた。そうした生き方を俳句は支えたと筆者は感じた。
 先の戦争から、74年の歳月が流れたが、世界中で国と国の戦争、少数民族や異教の民への侵略など、紛争の勝者による敗者への虐殺や略奪・強姦は、絶えることなく、より戦略的に構造化され行われている。74年前の出来事は、現代も巻き込まれる可能性のある脅威なのである。
 戦争の体験が風化せぬよう世に広く語り継ぎ、戦争による負債を埋め、より成熟した平和な世界が実現されるよう、私たち一人一人が史実を学び社会の在り方を考え、選択してゆく必要があると感じた。

参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『大陸の花嫁からの手紙』後藤和雄著 無明舎出版 2011.8.30
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』 小川津根子著 岩波新書 1995.4.20
『THE LAST GIRL-私を最後にするためにー』ナディア・ムラド著 吉
井智津翻訳 2018.11.30


【新連載・俳句の新展開】句誌句会新時代(その二)・夏雲システムの破壊力  千寿 関屋

◆はじめに
 インターネットでは日々新しい出来事が生まれている。いや、インターネット上で日々誰かが新しいサプライズを提供してくれている。これから紹介する「夏雲システム」は野良古(のらふる)さんがインターネットで開く句会のために新しいサプライズを提供してくれるシステムである。
 今回は、インターネット句会をサポートする夏雲システムを、テーブルを囲んで開催する実際の句会で利用すると句会の進行・運営方法がこれまでに比べてどう変わるのか、どんなサプライズを受けるのかを紹介させていただきます。

◆そもそも句会とは
私が参加し始めたころの句会は、ごく普通に、ごく当然に、短冊に作品を記入して”投句“し、割り当てられた短冊の作品を選句用紙へ”清記“するという流れで営まれていました。文字を丁寧に書く作業・選句用紙を作成する作業が句会の貴重な時間のかなりの部分を占めていました。句会といえばこういうもの、と決めつけている方は現在も多く居られるでしょう。しかし私は最近、筆記用具を持たずスマホだけ持参していただく句会を開催できるようになりました。その立役者が野良古さんの提供する「夏雲システム」です。ちなみに会の名称は「和祝(わいわい)句会」です。よろしくお願いします(笑)。

◆短冊なしで作品を投句する
 “短冊なし”と言っても、投句しなければ句会になりません。投句はスマホで行います。夏雲システムの投句画面を表示し、画面の指示に従って作品を入力、その後“送信”ボタンを押して投句を完了します。和祝句会では題詠二句、雑詠四句の六作品の投句をお願いしています。投句済みの作品の変更は定められた締切り時刻まで何度でも可能です。

◆選句と選句用紙の代わりの投句一覧
 選句は選句用紙の代わりに夏雲システムがスマホ画面に表示する“投句一覧”で作品を鑑賞して行います。もちろん選句の際に選評を書き添えることもできます。

◆投句一覧の配布
 和祝句会では投句締め切り後に、先に紹介したネットプリントで投句一覧を印刷し各参加者に配って使用しています。A4サイズの紙一枚に最大三十句を掲載でき、印刷時に“二枚をA3サイズ一枚に印刷”を指定することで六〇句までなら最低料金の一枚二〇円で印刷できます。これを参加者の数だけ印刷し配布しています。参加者は筆記の必要がなくなって余裕のできた時間を有効に使い、配られた投句一覧で作品をじっくり鑑賞できるのです。もちろん、句会後の懇親会(という名の飲み会)でも、その投句一覧は大いに活躍します。
 夏雲システムを利用することで筆記に費やす時間を短縮し俳句作品自体の鑑賞に活用することができるので句会の参加者には大変に好評です。
私は夏雲システムのこの破壊力に感動しました。要するに、夏雲システムを利用すると座の句会がとんでもないことになるのです。そして、夏雲システムとそれを開発した野良古さんは俳句史に名を留めることを確信しました。
 さて読者の皆様は、当然これまで慣れ親しんだ句会の進行・運営方法を確立していることでしょう。また、これからも変わらずに続いていくとお考えのことでしょうから、今になって句会の進行方法を変えることに嫌悪感や違和感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、出来れば“夏雲システム”を実際に体験していただき、その素晴らしさを感じていただけないでしょうか。

◆夏雲システムについて
 さて、“スマホで句会進行をサポートする”仕組み“夏雲システム”について若干の補足を書いておきます。
 夏雲システムは、私の句友である野良古(のらふる)さんが作成したものです。野良古さん自身による夏雲システムの紹介ページがありますので参照ください。
 https://nolimbre.wixsite.com/natsugumo
 「夏雲システムは、インターネット句会のためのシステムです。投句も選句も簡単にできて、句会進行もスムーズ。結果は自動的に集計されます。縦書きでの鑑賞や参加の記録など、役に立つ楽しい機能も。今もなお進化を続けている句会システムです!」と、野良古さんは夏雲システムのホームページで紹介しています。
私が夏雲システムを使ってみて感じた特徴は、インターネットを使うことで参加者の地理的な障壁を無くし、句会への参加のハードルを低くするシステムであること。また、短冊の記入や投句一覧への清記をすることなしに句会を進行できる魔法のようなシステムであること、です。
 文章で伝えるのは難しいですが、実際に体験していただければ、その魅力、その効果が絶大であることを感じていただけるはずです。
 おそらくこのような変化は今後も激しく続いていくと思いますが、“夏雲システム”はその牽引役となり、使われ続けていくと思います。
 “夏雲システム”は野良古さんのご厚意により今のところ無償で提供されており、二〇二〇年二月下旬の集計では、開設句会は百以上、投句された俳句は累計三万句超え、選句は十万評を超えているとのことです。
 私は和祝句会の他にも“夏雲システム”を利用していくつかのインターネット句会を開催しています。ご興味がございましたらお気軽にお問合せください。

◆おわりに
 二回にわたり、私の俳句にまつわる楽しみ方を二つ、気ままに紹介させていただきました。
 一つはツイッターで句会を興行し“ミニミニ句集”を日本全国の読者に素早く頒布すること、また一つは、スマホを使い“夏雲システム”を利用して筆記する手間のかからない句会、楽をして濃密な句会を楽しむ方法ついてでした。
 今回、このような機会を与えていただいた筑紫磐井さん、また斡旋していただいた妹尾健太郎さんにたいへん感謝していることをお伝えし、お終いとさせていただきます。

【ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい】5 温かい視線  衛藤夏子

 ふけとしこさんとの付き合いは、2013年秋、船団の琵琶湖吟行句会があり、その帰りに心斎橋句会に誘われてからでした。船団心斎橋句会は、毎月第一日曜日に、ふけさんのご自宅で10名弱が集まって行われていました。毎回、ささやかなお菓子を持ち寄って、船団以外の結社の方も参加して、わきあいあいと行われています。この句会も今年5月、船団の散在と同時になくなり、寂しくなります。そんな中、去年、ふけとしこさんが第五句集「眠たい羊」を上梓されました。ふけさんは、博識です。草花だけでなく、動植物、そして俳句の基礎知識など、教えていただいたことに感謝しながら、俳句を鑑賞していきたいと思います。

 薄氷つついて猫に嗅がす指
 
 薄氷が張った日、うれしくてとった行動でしょうか。それとも猫が薄氷に興味を抱いたのを戒める意味もあって、冷たいよ、とさしだしたのでしょうか。なんとなく猫への温かい視線を感じる一句です。
心斎橋句会では、ふけさんから「ほたる通信」という、俳句とエッセイを書いたハガキを毎月いただけました。ほたる通信という名前が、ふけさんの亡くなった飼猫「ほたる」からとったものだと聞かされたのは、「ほたる通信」の配布が終わった早春の句会でのことでした。

 戎橋新戎橋鳩の恋

 ミナミの戎橋というのは、繁華街のド真ん中です。戎橋を一緒に渡れば恋愛成就などいう都市伝説もあります。大阪市内は、橋が多いことでも有名ですが、中でも戎橋、新戎橋は歩行者の多い橋として知られています。
 戎橋だけでなく、新戎橋と反復させ、季語に鳩の恋をもってきたところ、都市伝説を知っていて読めばなおさら、橋を行きかう男女と小さな鳩が相まって、リズムよくキュートです。

 向日葵の首打つ雨となりにけり

 向日葵の首、おそらく長い茎のところでしょう。そこに雨があたる。夏の暑い日の恵みの雨であり喜んでいるのか、それとも夕立など不意の雨のことなのか。どちらにしろ、首打つという言葉がとても印象的な一句です。

 コピー紙を置けば平らにくる冬日

 平らにくる冬日、になんともいえない温かさを感じました。
 平ら、というのは実写として、水平に窓から光が入ってくることでもよいし、心象として心に入ってくる光としても鑑賞できると思います。
 寒い日が続くなかの冬日の温かさはうれしいものだし、コピー紙を前にコピーする仕事をこれからがんばろう、とやわらなか冬日の元で思ったり。いろんな場面を想像し、不思議と少し温かい気持ちになった一句です。 

【抜粋】〈俳句四季3月号〉俳壇観測206・九年目に回顧する震災俳句 ――震災を蒙った私が詠む 筑紫磐井

震災を詠む
 東日本大震災から九年目の三月十一日を迎えようとしている。東北の復興は未だ遅々として進まないうちに、オリンピックという饗宴で日本中が浮かれ上がっている。ここでいったん立ち止まり考えてみることとしたい。
震災後、俳句総合誌は幾つかの企画を行った。
①俳句界23・5「大震災を詠む」、
②俳句23・5「励ましの一句」
③俳壇23・6「絆!がんばろう日本」
④俳句研究23・夏「東日本大震災に思う」
⑤俳句年鑑2012 23・12「東日本大震災、その時俳句は」
⑥俳壇24・5「特集・震災俳句を考える」
      (中略)
     *     *
 こうした蓄積の中で、震災俳句に対する思索が始る。その中で一番厳しい批判であったのが同人誌「オルガン」第四号(二〇一六年二月)の「震災と俳句」という特集である。「あなたは震災俳句についてどう思いますか。」に対し次のように答える。
○「震災や時事を取り扱った俳句について、感想を求められたときに何も言えなくなってしまう。ある意味暴力的だと思う。」(宮本佳世乃)
○「(〈双子なら同じ死に顔桃の花  照井翠〉等の句を挙げて)といった句は僕には受け入れがたいものです。それはこれらの句が、震災と同様に、かけがえのないもののかけがえのなさを脅かすものであるように思われるからです。」(福田若之)
○「〈読者として「俳句という形式は「震災俳句」に適していない〉〈作者として《以前と以後とで、私は確実に変わった。言葉を発する私自身が変わったのであるから、発せられる言葉も当然変わるに違いない。》《私は「震災を」詠むのではなく、震災を蒙った私が「何かを」詠むのである。》〉」(鴇田智哉)
 若い作家たちの意見には共感するところが多い。しかし、震災俳句が直ちに問題であると言うよりは、震災俳句としてメッセージを盛りこもうとしたジャーナリズムや結社の姿勢・在り方が問題であるのであり、その俳句そのものが問題というわけではないだろう。

震災を蒙った私が詠む
 こんなところから、前述の俳句総合誌の特集の中で、〈瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ〉〈津波のあとに老女生きてあり死なぬ 金子兜太〉〈なぜ生きるこれだけ神に叱られて 照井翠〉のようなメッセージ性ある俳句を除外し、それ以外の震災俳句を眺めてみることとする。そこから鴇田のいう《「震災を」詠むのではなく、震災を蒙った私が「何かを」詠む》にかかわった作品を見つけることができるだろう。震災俳句といわなければそれらは日常詠としか見えないのである。

それも夢安達太良山の春霞   今井杏太郎
憤ろしくかなしき春の行方かな 青柳志解樹
祈りとは心のことば花の下    稲畑汀子
春寒の灯を消す思ってます思ってます 池田澄子
雉子啼くやみちのくに暾のあまねくて 上谷昌憲
言の葉の非力なれども花便り   西村和子
にはとりの怒りて花をふぶかせり 和田耕三郎
かいつぶり岸に寄るさへあたたかし 対中いづみ
みちのくのみなとのさくら咲きぬべし 小澤實
磯城島に未来は確と物芽出づ  稲畑廣太郎
啼きにくるさだかに春の鳥として 山西雅子
空高くから雨つぶよあたたかし  小川軽舟
かりそめの春の焚火もなかりけり 伊藤通明
いのち惜しめとゴッホの黄花菜の黄 加藤耕子
方円に水従はず冴へ返る     倉田紘文
春は名ばかり何もできないもどかしさ 橋爪鶴麿
春暁の弥勒の指の震へかな    花森こま
東国をおもんばかれど春の闇   福本弘明
春北斗恨みの柄杓逆立てり   松倉ゆづる
三月の飛雪われらの顔を消す   菅原鬨也
たんぽぽや失語症にはあらねども ふけとしこ
みちのくの風花微量にて無量  高野ムツオ
しずけさは死者のものなり稲の花 渡辺誠一郎
春寒くくづるるものを立てむとす 嶋田麻紀
片蔭を失ひ町は丸裸       白濱一羊
百年は一瞬記紀の梅真白     佐藤成之
蘆の角金剛力と人は言ふ    上野まさい
青麦は怖れるもののなきかたち  秋元幸治
真つ白な心に染井吉野かな    関根かな
生き残りたる火蛾として地べた這ふ  斎藤俊次
ありしことみな陽炎のうへのこと  照井翠
フクシマのもぐらはうづらになり得たか  はるのみなと
初夏のテレビ画面にない腐臭  依田しず子
満開の桜からだのゆれてゐる   太田土男
龍天に登るにんげん火を焚けり   小島健
火を創るは神の領域萬愚節   八牧美喜子
水恐し水の貴し春に哭く  手嶋真津子(朝日俳壇金子兜太選)
夏雲や生き残るとは生きること  佐々木達也(黒沢尻北高校・俳句甲子園)

(参考)阪神淡路大震災の句 
義援の荷獺の祭のごと並べ    千原叡子
ほんたうは拝まれてゐる寒さかな 落合水尾
寒塵のきらきら立てり死者運び  友岡子郷
節分の鬼も小犬もいる神戸    秦夕美

 今回震災に関する少し変わった考え方を取り上げたのは、二十五年目を迎えた阪神大震災と東日本大震災では微妙に違いがあると思われるからだ。それはメッセージ性のある俳句では比較が難しいが、こうした〈震災を蒙った私が詠む〉俳句では相違がはっきりする。阪神の「苦痛」に対し東日本の「不条理」と言っても良い。各自感じ取ってほしい。

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

英国Haiku便り(6)  小野裕三


ロンドンから見た平成文化

 先日、日本の「平成」時代のことを扱ったBBCのラジオ番組を聴いた。平成は昭和と比べると印象の淡い時代だなあ、と個人的には感じていたし、その番組の中でも、そんな趣旨の発言をする人がいた。昭和の時代には、その良し悪しはともかくとしても、前半は軍事大国、後半は経済大国として世界にその存在感を示したが、平成は基本的に経済も低迷気味だったからだろう。しかしそれを受けて、その番組ではこんなコメントがあった。いや、平成の日本はポップカルチャーの巨人になったんですよ、と。そしてそれは、イギリスに来て僕が肌で感じていることのひとつでもある。
 まず何よりも、日本の漫画やアニメが世界中の若い世代に大きな影響を及ぼしていることは否定しがたい事実だ。ロンドンに来てそんな人たちに多く出会った。日本の漫画を愛しそれゆえに日本語を大学で学んだという中国人男性、「私はキャプテン翼が好きよ」と明るく言っていたフランス人女性、自分の人生での最高の映画は『攻殻機動隊』(押井守監督)だと言う中国人男性、大友克洋や宮崎駿の作品が好きだと言うアメリカ人男性。みなそれぞれのやり方で、日本のポップカルチャーを愛していた。街角の小さな図書館に行っても、英訳された日本の漫画がずらりと並ぶ。大きな書店に行けば、通常のコミックコーナーとは別に「manga」と書かれた日本漫画専用の書棚がある。大英博物館では今年(2019年)、日本の「manga」をテーマとした企画展を開催する予定だ。
 もちろん、漫画だけではない。もうすこし上の世代になると、村上春樹や小津安二郎がイギリス人にもよく愛好されている。大学教授などのインテリ層に根強い人気を誇るのは、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。面白いのは、これらの二十世紀以降の文化だけでなく、日本の伝統文化も広く評価され、若い人たちも興味を持っているという点だ。以前紹介した「侘び寂び」以外にも「折り紙」などもかなりポピュラーだ。
 あるイギリス人によると、haikuという言葉は形容詞みたいに使うこともあるとか。つまり、「この食べ物はhaikuだね」と言った場合、それは「小さいけど完璧」みたいな意味になるらしい。「折り紙」も「漫画」もまさにそのようなものと思える。一方で、身の丈を「大きく」見せようとした昭和の軍事大国や経済大国は、結果として日本社会の持つ醜い部分を浮き彫りにしたかのようで、そんな日本人の側面は決して世界で愛されることもなかった。今、世界で広く愛される平成のポップカルチャーは、昭和的な覇権主義から遠ざかったことで、逆に俳句や折り紙などの日本古来の良質な部分とつながっていたのかも知れない。
(『海原』2019年6月号より転載)