2020年3月13日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉚  のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(4)

*の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
を参考にした筆者文。

【チチハル収容所 11句から】            
  チチハルの真昼の馬糞ぶつけられ

 引揚げを待つチチハルの難民収容所での生活もすぐに帰国できる当てもなく、順番を待ちながら死んでゆく人がたくさんいた。生きる活路を見出すために、井筒さんは仕事を探した。『大陸の花嫁』P.82‐83から
 私は職を求め、食を求めてチチハルの街を歩いた。生活が豊そうな、満馬や驢馬が何頭も飼われているところを訪ねた。私は、清美を負うた腰に寝具の麻袋を巻きつけ、鍋にしている鉄兜をぶら下げていた。収容所に置いておけば盗まれるからだった。
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。
 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」
    (略)
 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
 その異様な姿に、そこに雇われていた小孩(しょうはい)に馬糞をぶつけられた。 「マアタイ、マアタイ、カイ、ゾウ(汚い、汚い、早く立ち去れ)」    (略) 開拓地にいたころ、移動苦力(クリー)の列から遅れ、衰えはてた中国人が、私の所へ飲み水を乞いに来た。私は、ぼろぼろの服を纏ったこの男が汚らしくて、コップ一杯の水も与えず追い返した。私は今、それにも劣る姿であった。(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)
*ある日井筒さんは、収容所へやってきた八路兵(毛沢東支配の国民革命軍第八路軍の兵隊)の募集する縫製工に応募したが、縫製の仕事は与えられず、夜に仲間の女性が兵隊から襲われてしまい、なんとかチチハルの収容所に逃げ戻ったところ、これまで世話をしてくれたM氏が八路兵から口利きの金を受け取っていたことがわかった。(同じ日本人が、日本の女性を現地の人に売るということは、珍しいことではなく、当時の中国でも日本でも貧困家庭では、娘の身売りは、当たり前のように行われた時代である。)
 井筒さんは、辛くも逃げ出し、母子が住み込みで働けるところを探し、李家(小学校の校長をしている人)のもとで、乳母として雇われた。

【引揚げ3句から】
  ついに帰国防寒服は襤褸でもいい

 李家で、乳母として雇われている間も、時々許しを得て難民収容所へ出かけ
帰国の時を確認していた。そしてついに、 『大陸の花嫁』P.96から
 昭和21年8月28日、いよいよチチハルにいる私たちの引揚げの日が来た。 前日まで世話になっていた李家では、母子に食べさせてもらえるだけで、ありがたいと思っていた。ところが、李夫妻は45日間の給料として四百五十円くださったのである。その頃チチハルの通貨は、ソ連軍票だった。がその軍票はハルピン以南は通用しないということで、李婦人が寄せ集めてこられた満州紙幣であった。これは、くしゃくしゃであったが、お心のこもった紙幣だった。 私はそれを、着ているぼろ服の裏側へ大切に縫い付けた。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16)

【祖国7句から】
  われに祖国敗れても月のぼりくる

*その生い立ちから、悲しい思い出の故郷であるが、それでも帰る祖国があるという安堵感、船の中でみた月であろうか、それとも帰り着いた佐世保の月、生まれ故郷福井県の武生の月で有ったのだろうか、どこにいても月は等しく美しく光り、傷つき疲れた心と体を包んでくれるのである。
 こうして、帰り着いた故郷での暮らしは、決して平たんなものではなく、苦労して連れ帰った清美ちゃんは、2年半の生涯を終えた。
 井筒さんの前半生は、出生の不運と「大陸の花嫁」という国策・戦争・敗戦という大きな歴史の捻じれに巻き込まれ悲惨な日々であった。

【井筒紀久枝さんの作品を読んで】
 井筒さんの作品「大陸の花嫁」は、「満州移民政策」「大陸の花嫁」「ソ連の侵攻」「満州引揚げ」と一連の流れを網羅し当時の様子を良く伝えるものである。本稿では、井筒さんの体験の一部を紹介したにとどまるので、是非、井筒さんの作品を読んでいただけると嬉しい。
 さて、関東軍が首謀し国を挙げて、「満州開拓」「大陸の花嫁」が組織的に仕組まれていたこと、地方の貧困にあえぐ農村にあって経済的な自立を夢見て、開拓民としてまた開拓民の妻として、満州に渡り、ついには、「お国のため」と我慢と苦労の生活を捧げあげくには、「お国」から見捨てられ棄民となった人々の運命の過酷さに驚かされる。これが国策であったことに対してやり場のない怒りを覚える。
 井筒さんは、第1子清美さんと生きて故国の地を踏むことができたものの、引揚げ後清美さんを亡くし、抑留から帰った夫と夫の家族との確執に悩みながら、その生活に終止符をうつ。
 その後、新たな伴侶と二人の子どもに恵まれ、地道に家庭生活を営む一方で、語ることも苦しい体験を自分流に俳句に詠み、「満州追憶」としてメモを残された。
さかのぼると、俳句については紙漉き工場で仕事をしていた、19歳の頃に既に独学で俳句を新聞に投稿し、

  冷たさを確かめて紙漉き始む
  あかぎれの手をいたわりて紙を漉く


が新聞の文芸欄に掲載された。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ~私の青春から~』生涯学習研究社 1993年)
 1968(昭和43)年には、宮中歌会始に入選されたという。 
 既に10代の青春時代に、自分の思いや体験を俳句に結晶し昇華して行くことを体得され、満州からの帰還後は、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句をし始め、昭和52年に百句になったので句集を作成された。この句集は、満州開拓犠牲 者33回忌の法要記念になさった。
 60歳の時に娘さんの陽子さんの勧めで、NHK学園の文章教室に入門し、平成5年NHK学園30周年記念自分史文学賞に応募し、72歳で大賞に選ばれたという。
 井筒さんの作品は、「満州追憶」として纏められたメモから、加藤楸邨の寒雷に投句をして、3年がかりでためたものである。叫びたくなるような凄惨で過酷な現状を、淡々と5・7・5のなかに、凝縮し飾らない表現のなかに、体験者だからこそ伝えられる真実がある。
 井筒さんは、俳句という表現により個人の感情の昇華にとどまらずこの悲しい体験を2度と繰り返さないため、語部の活動に渾身の力を注ぎ死の間際まで続けられた。そうした生き方を俳句は支えたと筆者は感じた。
 先の戦争から、74年の歳月が流れたが、世界中で国と国の戦争、少数民族や異教の民への侵略など、紛争の勝者による敗者への虐殺や略奪・強姦は、絶えることなく、より戦略的に構造化され行われている。74年前の出来事は、現代も巻き込まれる可能性のある脅威なのである。
 戦争の体験が風化せぬよう世に広く語り継ぎ、戦争による負債を埋め、より成熟した平和な世界が実現されるよう、私たち一人一人が史実を学び社会の在り方を考え、選択してゆく必要があると感じた。

参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『大陸の花嫁からの手紙』後藤和雄著 無明舎出版 2011.8.30
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『祖国よ「中国残留婦人」の半世紀』 小川津根子著 岩波新書 1995.4.20
『THE LAST GIRL-私を最後にするためにー』ナディア・ムラド著 吉
井智津翻訳 2018.11.30


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