※前回の「思い出すことなど」は(1)とし、副題を「I thank youありがとうあなた」としました。「思い出すことなど」は連載として少し続きます。
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私が当サイト(BLOG俳句新空間)、同時に当冊子(俳句新空間)の運営に関わったのは、俳句現場の当事者として自己の俳句継続意志を励ます動機になれば…ということに拠っていた。おそらくそれは同人誌のように、自分の居場所であり続けた。
結社離れや同人誌離れが話題になり、さらに俳句各協会の会員離れに拍車がかかっているようだが、それは俳句界隈のことだけでなく、コミュニケーションツールは大躍進をしているのに世の中全体の人とのつながりが平成の30年間を経て希薄になった…と言えるような気がしている。人は孤独であっても心の拠り処を必要とするものではないのかと思う。
創作は孤の作業ながら作品発表を行うことは自己の立ち位置を示すことになる…例えば、SNSや個人サイトを利用してもそれは可能だろう。それが各人の拠り所になる。俳句にまつわる組織が今後どうなるのかわからないが、世間に向ける発信ツールは今後も必要とされるだろうという確信はある。
さて、私がサイトに関わるようになったのは、「詩客」創刊の2011年4月以降。その2か月前の2011年2月に松山を訪れていたところ(吟行が目的)、昼食をとるため店に並んでいたところに筑紫さんから連絡が入った。「詩と短歌と俳句のサイトが出来るのでそこに参加しませんか」と。(松山到着の翌日の夕食は松山イベント組と合同宴会で、御名前のわかる方としてイベント運営として佐藤文香さんはじめ、関悦史さん、橋本直さん、岡田一実さんなどが参加されていた。)
その「詩客」実行委員人選については、いつかの豈に高山れおなさんが書いていたが、筑紫・高山両氏が豈なのでもうひとり豈でいいだろうということで豈新規参加の北川に声がかかったらしい。筑紫・高山両氏は豈weeklyに続くサイトの落着き先を探していたようだ。すでに「俳句樹」というサイトを立ち上げていたはずだが、継続するには困難だったようだ。『新撰』の反響に手応えを感じた筑紫・高山両氏、特に筑紫氏は何かをスピーディに発信、行動に移せるのはインターネットメディアだと思ったのだろう。
豈weekly 創刊ー2008年8月
『新撰21』(邑書林)発刊ー2010年1月
『超新撰21』ー2011年1月
※参照『超新撰21』の応募規定
・2010年1月1日現在50歳未満(U―50すなわち1960(昭和35)年1月1日以降生まれの方)
・2000年12月31日までに主要俳句賞受賞歴がなく、
・同じく2000年12月31日までに個人句集上梓のない俳人
引用:俳句樹
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私は『超新撰21』の公募枠に応募した。
公募1枠は収録時に23歳の【種田スガル】さんが選ばれた。
日曜の朝にこじあけた唇 まだ迷いの渦中 種田スガル
『超新撰21』(2010年12月)
現在、豈weekly 創刊からは10年が過ぎたのだが、週刊俳句、俳句樹における『新撰21』『超新撰21』の特集や回顧録をみていると、俳句に長く関わっている筑紫・高山両氏における相当な俳句的事件だったと受け取れる。その後の第三の波はあったのだろうか、それとも今がその真っ最中なのか。
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詩客発足の前年2010年12月、豈忘年会に於いて筑紫氏から「評論を書いてみませんか?具体的には三橋敏雄論。今までに書いていない人が書いたら面白いと思って。」というお誘いがあった。豈Weeklyのウェブ上共同執筆『相馬遷子ー佐久の星』の書籍化に倣い、ウェブ上での戦後俳句の展開、今までにない戦後俳句を見渡すというという構想だったらしい。
「詩客」での戦後俳句を読むのスタート
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「BLOG俳句空間ー戦後俳句を読む準備号」
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「詩客」準備段階の2011年3月11日14時46分11秒に、東日本大震災が起きた。
この大災害により確実に詩歌の何かが変わるという確信のようなものが実行委員会の各メンバーに感じられた。
しかし、それが何を示すのかが当時の私には実際わからなかった。「何かが変わる」脅威というのは、詩歌にとどまらず文芸、芸術一般、そして世の中の全てが変わる、不安を抱いていたように思う。
311の発生直前に週刊俳句からの初めての原稿依頼【3月の週俳を読む】を書くことになっていた。震災後に書くことになったのだが、それでまえがきに言葉について書いた。(
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災害直後に筆を執るということに対して、何か恐々としていたことを思い出す。さまざまなニュース映像や、情報が頭から離れない時だったが、書く、という行為や態度について考えたことが記憶に残る。よい経験だった。そして何が変わっていくのかを言葉やその態度にフォーカスしたいと思っていたことを思い出す。
震災発生時、私は北関東の実家にて三橋敏雄の句集『しだらでん』をテキストにするため打ち込んでいた。「しだらでん」は、震動雷電の意があるので何か因果がありと思いたくなる。震度7の激震となった地元は、倒壊した家、屋根瓦が崩落した家々が多数あり、未だ崩れたままの家屋も散見する状況だ。今となっては震災が影響しているのか元々なのか何の理由かがわからない経年劣化となっている。一昨年から、無人の建物は取り壊され空地が目立つようになった。
災害はそれ以後の平常が失われることに困難がある。。実際の経験、計画停電や原発の影響などが思い当たる。私が地元で経験した計画停電とその頃の東京の街は、どこか昭和天皇崩御時に勤務先のビル窓のブラインドを下すように指示されたことに似ていた。
北関東の計画停電は午後六時に一斉に電源が落ち2時間の暗闇が続いた。計画停電実施の地方の現状を友人に知らせようと蝋燭の灯りの写真を送ったところ、蝋燭の火にぼんやりと映り込む背景が怪しすぎると歓ばれた。電気の無い暮らしをしたことは無いが、その頃の文化を思い、二時間のタイムトラベルを味わうことは不思議な経験でもあった。暗闇で行われる
夜咄茶事などがあるが、「不謹慎」が世相でもあったため現代から電気の無い暗闇は苦痛の何ものでもなかった。
私が東京にいないことを知らない友人からメールが来、都内の中学に通う息子の非常時の帰宅場所として学校に登録させてもらえないか、という内容だったがすでに東京の部屋にはあまり滞在しなくなり役に立てなかった。 震災当日のその子の状況を伺ったところ、東京駅で一夜を過ごし、翌日幕張の自宅に翌日自力で帰ったと聞いた。東京に暮らす友人たちや元同僚たちは徒歩で帰れない人は、みな会社に泊まったらしい。
生きていると本当にさまざまことを経験する。
震災後に何が起きているのかよくわからないのでニュースをよく見た。
なんとなく煽られている気にもなった。句会にも行った。吟行も予定通り行われた。
句会では、ニュースでの枝野官房長官の受け応えが話題になっていた。普段は政治に全く関係ない雰囲気のご婦人が「ニュースを見ながらテレビに向かって毎日『ふざけるな』っていっちゃうのよね」とおっしゃっていたことが記憶に残っている。
枝野元官房長官と記者のやりとり見ていたら、句会での講評を聞いている気分になり、句会と政治記者会見が何かダブって思えた。後に、高山さんが以下の句を出していて、感心した。世間は人をこんな風に人を見ている。枝野さんは震災当時毎日テレビで拝見したため今も政治家である枝野さんをTVで拝見するたびに不謹慎とおもいつつも高山さんの句が蘇る。世の中が不謹慎な態度を戒める傾向にあったので、本当はだれも思ったりしている口に出すと不謹慎なことを高山さん流に書いたのだろう。
しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も 高山れおな
311の直後に原子力発電所の被害があった。
震災直後の句会にて桑原三郎さん(「犀」発行人・昭和4年生)が以下の句を投句された。
福島第一原子力発電所2号機よりけむり 桑原三郎
(「テレビ揺れ福島第一原子力発電所2号機よりけむり」として『東日本大震災句集 わたしの一句』(宮城県俳句協会)に収録)
上記の作者名を句会で明かした後にその句会に初参加の方から「この句に詩があるのですか?ここにいらっしゃる先生方がこの句に対して詩があるのかないのかをどう思われているのかを知りたい。」と挑発的な質問があった。「詩があるとか、そういうことが問題ではなくて、句の内容が事実である、ということが怖いと思う。原子力発電所から煙が出ることこはあってはならない大変なことよ。」と池田澄子さんがおっしゃっていた。
長谷川櫂さんが短歌で震災を作品にされたり、高野ムツオさんや照井翠さんが震災の作品発表をする以前のことだった。
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政治と俳句は繋がらないと思っていたものが、政治が影響して言葉が変わっていくのか、世の中が突然にスピードを上げて変わってゆく気がして、それが、どう変わるのか、としばらくは政治に興味をもった。 震災から被災、復興に問題はうつり、除染作業や瓦礫の問題が地元ではクローズアップされていた。実際に被災地の瓦礫受入れをする説明会と放射能についての説明会を公民館に聞きに行ったりもした。
以下は瓦礫受入れ説明会の様子。
ほぼ反対派を制圧する説明会だと事前にわかっていた節があり、会場全体にシークレットサービスのように市の職員が配置され重々しい雰囲気があった。市長の説明前、環境庁の青年から国としての説明がはじまった。
環境庁の青年は、公務員というイメージよりもやや長髪で研究者タイプ。鴇田智哉さんに似ていた。「この人も哲学専攻だったんだろうか。俳句などしないよね…」なと関係ないこと想像をしている間に、淀みのない、そしてわかり易すい説明が終わった。会場は、そんな流暢な説明で納得しない!という反対派がなんとなくしびれを切らし…。
市長の質疑応答になると怒号が飛び交った。二十代から四十代に見える若者、特に印象的だったのは子供を連れた若い母親たちの怒りの抗議。100人収容できればよい会場の8割が埋まっている印象だった。反対派の机を叩くなど興奮した行為があり、怒号を浴び、押し倒されそうになり髪が乱れた市長の姿は、ひたすら耐えているように見えた。怯えている人を脅しているような状況に、市長ご本人の見解や意見が見えてこない。平行線の対立的説明会となったため、閉会前に帰宅。その時も句会でのご婦人同様「ふざけるな」という言葉が飛び交っていたことを思い出す。
震災のあたり、ありのままの事実が多く詠まれた。
例えば、御中虫さんの『関揺れる』(2012年4月邑書林/茨城県土浦市で被災された関悦史さんのツイッターでのつぶやきを元に作句されている。)
モデルになった関悦史さんの震災詠も印象に残る。第一句集『60億本の回転する曲がった棒』(2011年11月邑書林)収録「うるはしき日々」より。
激震中ラジオが「明日は暖か」と 関悦史
「母子手帳持参の方、水お頒けします」 〃
筑紫さんは、震災時の行動記録を句集に掲載した。(『我が時代』2004-2013/実業広報社)。
私は震災を機に東京の住居を引き払うことにした。
2011年7月だった。
七階より洗濯機出てゆく水無月尽 北川美美
(続)