2014年7月25日金曜日

第80号 2014年07月25日発行

作品
現代風狂帖
作品No.33 他人の巣     小津夜景  ≫読む




●鑑賞・書評・評論・エッセイ 

【戦後俳句を読む】


  • 能村登四郎の戦略――無名の時代 (2) 
(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)
    ……筑紫磐井   》読む
    • 三橋敏雄『眞神』を誤読する 101.
    ……北川美美  ≫読む


    • 上田五千石の句【テーマ:「手」】
    ……しなだしん   ≫読む
    • 「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ
    (続・10、藤田湘子「水草生ふ後朝のうた昔より」)……大井恒行  ≫読む


    【現代俳句を読む】
    • <俳句時評>   吉村昭の放哉   

    ……外山一機  ≫読む

    • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その二十五~

    • <エッセイ・評論>大井恒行の日日彼是       ≫読む
    読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話大井恒行ブログ更新中!!


    (前号より継続掲載)
    • <俳句時評>たまたま俳句を与えられた……堀下翔  ≫読む
    • <俳句時評>川名大の殉じかた……外山一機   ≫読む
    • <俳句時評> 五十句競作終了から30年目……北川美美 ≫読む
      • <俳句時評> BLOG俳句空間の歴史 ……筑紫磐井 ≫読む


      【現代短歌・自由詩を読む】


      • (6月28日詩客転載)<短歌評〉世界のシステムに抗する歌・木下龍也論


      ……竹岡一郎   ≫読む


      • (6月2日詩客転載) 〈自由詩評〉 映りこむもの

      ……依光陽子   ≫読む







      ● あとがき  ≫読む
          PR・お知らせ

          • 速報!竹岡一郎さん 第34回現代俳句評論賞を受賞 ‼
          • 開催間近!俳句の林間学校 こもろ・日盛り俳句祭

          (週刊俳句 第374号 2014年6月22日 特集) ≫読む

          字余り・字足らず・言葉足らず(こもろ・日盛り俳句祭シンポジウム関連)……筑紫磐井   ≫読む

          • 当ブログの冊子!-BLOG俳句空間媒体誌- 俳句新空間
          (創刊号・・・在庫なし/No.2 準備中‼




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              • 仲寒蝉 第二句集   『巨石文明』 

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                第二回 攝津幸彦記念賞各賞発表  》読む
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                • 俳壇7月号 誌上句集『摂津幸彦』(筑紫磐井選による100句)





                第80号 (2014.07.25 .) あとがき

                北川美美

                取り急ぎ更新。 

                ・・・

                ●以下加筆(7月26日)

                梅雨明けと同時に猛烈な猛暑日となっています。お見舞い申し上げます。

                さて今号・・・


                • 外山一機さんの時評では吉村昭に焦点を当てています。

                歴史小説家として知られる吉村昭が学生時代は俳文学が専攻だったようですね。
                放哉のみならず吉村昭自身の最期も壮絶(自身で管を抜いてた)・・・死にざまは生き様。

                タイムリーなイベントを発見しました。(吉村昭忌日は7月31日)

                『第六回悠遠忌ー吉村昭の動物小説』
                            荒川区が生んだ作家・吉村昭氏を偲んで
                ☆日時:平成26年7月26日(土) 14:30~16:30(開場13:30)
                ☆開場:荒川区・アクト21ホール(男女平等推進センター)
                ☆場所:荒川区東尾久5-3-9 電話03-3809-2890
                ☆交通:日暮里・舎人ライナー「熊野前」、都電・荒川線「熊野前」下車2分
                ☆定員:先着100名  ☆入場料:2000円
                ☆主催:吉村昭研究会  ☆後援:荒川区、荒川区芸術文化振興財団、東京新聞社
                                     内容
                ☆朗読:短編小説「ハタハタ」 田中泰子(朗読家)
                ☆講演:「吉村昭さんと旅」  山口昭男(元岩波書店)
                                     解説

                お問合せ:吉村昭研究会 電話・FAX 0898-66-1556

                http://www.geocities.jp/bunmei24jp/osirase.htm



                • 朝ドラ「花子とアン」で柳原白蓮にはまっています。
                ドラマは現在白蓮事件の真っ最中でちょっと目が離せません。伊藤伝右衛門役がまたなかなか佳い味を出しています。

                短歌とは縁が無いと思っていましたが、ひょんなきっかけで読んでみたくなるものです。

                柳原白蓮の歌
                 
                殊更(ことさら)に黒き花などかざしける わが十六の涙の日記(「踏絵」) 
                王政はふたたびかへり十八の 紅葉(もみぢ)するころ吾は生れし(「踏絵」)(白蓮は明治18年に誕生) 
                われといふ小さきものを 天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ(「踏絵」) 
                幾とせか淋しき春を見て泣きし わが若き日の山桜花 
                うもれ果てしわが半生をとぶらひぬ かへらずなりし十六少女(「踏絵」) 
                十六や まことの母にあらずよと 初めてしれる悲しきおどろき


                • 詩客とのクロスオーバーで執筆された<短歌評>竹岡一郎さん、<自由詩評>依光陽子さんをリンクしました。

                • また前号の網野月をさん連載「時壇~登頂回望その二十四~」の記事に誤りがあり改訂いたしました。ご連絡いただきました読者の方へお礼申し上げます。


                当面猛暑続きになる予報が出ています。こぴっと頑張りましょう。 ごきげんよう、さようなら。


                筑紫磐井

                ○7月21日(月)は海の日であるが、海ではない後楽園涵徳亭で第5回田中裕明賞の授与式があった。今年は榮猿丸と西村麒麟が共同受賞しており、二人とも縁が深く、特にこのBLOGで連綿と句集の特集をした麒麟から招かれていたので出席した。他の賞と違って参列者は格段多くはないのだが、過去の受賞者がよく知られていることもあり、注目を浴びている賞である。特色はいくつかあるが、年齢を限定した(45歳以下)若手発掘のための賞であり、自薦他薦で集まった句集を対象としていること、選考委員が比較的バランス感覚のある人が多く、またスポンサーである出版社が特定の傾向を出さないため、極めて冒険的な句集もあれば、穏当な句集もあるということで、受賞者の予想がつきにくいことが特徴である。

                招かれた参列者は多くはないから、いきおい、受賞者の属する結社「澤」と「古志」の人が多いが、一方で超結社的なつながりがこの世代は強く、関悦史(豈、第3回受賞者)、阪西敦子(ホトトギス)、松本てふこ(童子)、小川楓子(海程)、高勢祥子(鬼)、村上靫彦(南風)、鴇田智哉(今年から無所属)などが挨拶をしていた。いずれは彼ら、彼女らが受章するめぐり合わせとなるのだろう。

                ○なお、本BLOGで紹介した西村麒麟の『鶉』(西村一族で出版)は部数もなく紹介しているうちに品切れとなり、わが編集部にも購入の希望が殺到したのだが、残念ながら申し込みに対してお断りしていた。昨日の話によると、近く出る「ふらんす堂通信」に、全句掲載をすることになっているそうである。
                読みそこなった方々はチャンスである。ふらんす堂にお申込みいただければ購入できるそうである。


                ○本号では、「詩客」に推薦して書いて頂いた自由詩時評、短歌時評をリンクすることにした。少し隣の庭を眺めてみるのもよいかもしれない。

                三橋敏雄『真神』を誤読する 101.水重き産衣や春を溺れそめ / 北川美美

                101. 水重き産衣や春を溺れそめ

                前句「肉附の匂ひ知らるな春の母」にて肉附になった未生の僕は、産道からこの世に生まれ、産衣(「うぶぎ」と読むと予想)を着せられている。しかし、その産衣が水を含み重たい状態である。「溺れる」という危険を孕む言葉、加えて酒、女、ギャンブル・・・俗世間ではよい表現には使われない言葉が「春」「・・そめ」と祝辞の接尾語を伴っている。 「溺れる」ことの言祝ぎである。


                すべては「春」という意味が幼児のめばえから大人の異性間の情欲を含む多義であることがなんとも淫らさと雅やかさを兼ねる雰囲気なのである。

                ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」の絵画もしかり、東西問わず、春は愛の季節、生命誕生の季節である。ボッティチェリの「春」にはさまざまな解釈論が展開されてきたが、それと同じく、敏雄の「春」の言葉を用いた句にも多くの解釈が成立する。

                ちなみに「春」は、その漢字の成り立ちの過程で「冬の間地中に閉じこめられていた植物の根が日の光を受けて芽を出そうとする。」という意味を表す。(「常用字解」白川静)

                おおむね、敏雄が「春」という言葉を使用した100句目、101句目、102句目には、春の季題から意味が飛躍し、大人の異性間の情欲として捉える解釈に傾くと思える句が並ぶ。そして性的情趣が伺える鈴の句も「春のくれ」で季節は「春」である。 

                肉附の匂ひ知らるるな春の母 

                水重き産衣や春を溺れそめ 

                晩春の肉は舌よりはじまるか 

                鈴に入る玉こそよけれ春のくれ

                古俳句に精通する敏雄であるが、近世の句に「春」の語そのものに情欲を含蓄するものとして使用している句には簡単に巡り合えない。かろうじて蕪村の「春」を詠み込む句にその雰囲気があるように思える。

                ゆく春やおもたき琵琶の抱心 蕪村 
                枕する春の流れやみだれ髪 
                寝ごころやいずちともなく春は来ぬ

                また、「春を溺れ」と「に」ではなく「を」の助詞使用を選択しているのは、直接の対象として「溺れ」を強調するためと判断する。

                次の102句目の<晩春の肉は舌よりはじまるか>について、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた。

                この一句、この句集のなかでの最高作であるばかりでなく、昭和俳句の名句として銘記されるべき絶頂のポエトリ、パノラマを持っている。マラルメじゃないが、「肉体は悲しい、ああ、すでに読み終わった。すべての書物は」と感じさせるような、具体的な生の旅立ちへのあざやかな目覚めがある。乗り物に乗っていても、夜の酒を飲んでいても、ふっと舌頭によみがえるこの句を中桐雅夫、藤冨保男、関口篤の面々に披露したら、ぶったまげていた。オーデンやカニングスやトマスにだって、このような恐ろしくエロティックな一行はないから当然であろう。作者が生涯の師と仰いだ亡き三鬼の「広島や卵食ふ時口ひらく」と並んで、読むともなく、声に出すともなく、舌頭百転、性的なもののあはれを誘い出す傑作である。 『旗の台管見』(初出/「季刊俳句」昭和49年1月2号)加藤郁乎

                加藤郁乎が記している通り、「春」という語そのもののエロティックさを含蓄し、俳句をより高度な大人の遊びとしているのは三橋敏雄がパイオニアなのではないだろうか。



                さらに上掲句は、春が象徴するような性愛をも含蓄しつつ、人として生まれた人間の業を詠んでいるともいえる。生まれてからは産衣を着、彼の世に旅立つときに死装束をまとわせる。

                上掲句と対になるのは、16句目の下記かもしれない。

                著たきりの死装束や汗は急き
                溺れるのは三途の川も俗世界も同じこととも読める。溺れないためには、衣を纏わず裸でいられたならばどんなに快適だろうと想像する。しかし、衣服は人間としての特権であり人間であることの象徴でもある。産衣を着せてもらったからには、もう母親の胎内にはもう戻れないのである。生まれることと死ぬということ。敏雄句にはその境界線がないといってもよい。

                さらに「溺れ」から、敏雄の有名句を重ね合わせる。

                共に泳ぐまぼろしの鱶僕のやうに  『まぼろしの鱶』
                産衣で溺れそめた僕は現世という水の中で泳ぎはじめる。時には群れの中で時には孤独に。もう会えない仲間とも共に時を過ごすことができる。見えないものをリアルに書く。生きていること死んでいることの境を取り払う。いずれも作句としては至極高度な技でありすぎる。

                17音の句自体が言霊となり誰も三橋敏雄を越えられない偉大で難解な作家、加藤郁乎がiマラルメの引用を使用したように、敏雄の作品の存在はマラルメの言葉(翻訳はされているが)が引き合いに出されるのは、両者の言葉への意識に共通点があるといってよいのかもしれない。

                敏雄もマラルメも両者の作品を正しく解釈し理解するのは至難の業といえる点、難解であるがゆえにありがたがられる。そして名前だけが独り歩きしなんだかわからないがありがたい「文学的偶像」になっているのではないかという点でもマラルメとの共通事項は多い。読者が三橋敏雄作品を理解するための労力は、まだまだ途上にあるといってよい。それが名句の条件とも言えるのではあるが。




                参照(といっても参考にはならないのではあるが)として晩年の敏雄自身の執筆による<私の作句技法>を引用する。

                これまでの間、私は自作の俳句について最初の読者である自分が読んで感動する、といった結果に、数はごく少ないけれど恵まれている。それは自他を超えた先例のない表現を得て、初めて新しく経験できた世界だからだが、それらの俳句表現に共通して当てはまる技法は見出せない。言いかえれば、一句一句そのつど異なる一回性の表現意図、また内容の展開について、同じ技法をもってしてはどうにも間に合わないためである。 
                その意味でも、すでに効果が判明している既成の技法は、あえて使いたくない。だからといって、手さぐりの無方法では当たりを取る確率は低い。おおむね自分で納得できない駄作の量産につながるのである。 
                むろん私にも、自然の季節的現象に虚心に対応して、時に心うたれた発見を一句の言葉に移し替える、といった喜びに出会うことは少なからずある。そういう際、最も力になるのはいわゆる写生に基づく技法だ。しかし先に写すべき対象が存在する句作りとは違って、事前に表現したい対象としての感動のたぐいは全くなく、また、ないがゆえに自身の俳句の表現の創出によって感動したい、というほとんど唯一の目的である持続的な欲求の在り方が、実は私をして俳句を作らしめている、と言っていい。(新日本大歳時記 講談社 2000年)

                「自分が読んで感動する」・・・アーティストは大方、自己陶酔型である。敏雄の「は」の使いが多いのもナルシスト故の助詞使いなのかとも思う。しかし俳句上では、その自己陶酔が読者に受け入れられるのかどうかというのが最大の難関となる。 文芸、芸術あらゆる分野で作品といえるものは多くを語らず、その姿が美しいことに限る。 その意味で三橋敏雄は作品、その作品から見えてくる人となりの美しさが空前絶後なのである。

                三橋敏雄の熱烈な信望者は多い。そして現在、生きていた敏雄を知る方々、三橋敏雄夫人、ご令嬢がご健在である。敏雄が三鬼、白泉の功績を世に残したように、「三橋敏雄全句集」「三橋敏雄読本」が世に出るのはとても近いことなのではいかと思うところだ。


                (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (2) /  筑紫磐井  

                (2) 登四郎俳句の初出

                能村登四郎の俳句の始まりは、昭和14年(28歳)に「書店で表紙の美しい「馬酔木」を見、いままで自分の抱いていた俳句のイメージと全くちがうのに動かされて、投句をしてみる気になった」ことに始まるとされる。これは『能村登四郎読本』などの「年譜」に載っている記事だが、能村研三の編となっているが、実際はこの時期に関する記事は登四郎自らが書いたことになるから当然正確であるべきである。

                登四郎の弟子の今瀬剛一は主宰誌「対岸」に連載した記事をまとめた『能村登四郎ノート』(ふらんす堂平成23年)でこの記事を踏まえて、

                芦焚けば焔さかんとなりて寂し(昭和14年2月)
                この句を登四郎の最初の句として掲げている。ホトトギスの雑詠欄に相当する水原秋桜子選「新樹集」に最初に載っているからである。昭和14年はこの他、次の句があるだけだといい、当時の馬酔木の厳選ぶりを想像している。

                頬白の飛び去りし枝揺れやみぬ(昭和14年12月)
                しかし、実は登四郎が俳句に関心を持ち、自らも始めたのは、昭和13年、市川学園に就職した直後からである。動機も、「石見に帰った牛尾三千夫からよく俳句雑誌「馬酔木」を買つて送れとたのまれたので送つている中に表紙の美しさが私の今までの俳句に対して抱いていた観念を一掃させた。私は牛尾に送る本の他にもう一冊買つて読み、その月から投句をはじめた。昭和14年ごろであつた。

                殆ど休みなく投句したが殆ど一句で年に何回か二句取られた。句会や吟行にも出かけたが全く振るわなかつた。」(「恩寵」/「俳句」昭和46年12月)という。少し年譜とは異なる。ちなみに、牛尾三千夫とは國學院大學の二年先輩であり、能村登四郎に短歌同人誌「装填」に参加を勧めた人であり、卒業後石見に帰り民俗学、特に石見の田歌研究でよく知られている。だから、上記以外にも次のような句が初期の句として馬酔木には掲げられているのである。おそらく登四郎の評伝では初めて登場する句であろう。これらを見れば、登四郎の最初の句は昭和13年秋の「葦の風」の句と訂正しなければならない。

                葦の風遠のく風と思ひけり(昭和13年11月「新葉抄」加藤かけい選) 
                凍つる夜をかさねきたりしいのちなる(昭和14年2月「新葉抄」加藤かけい選) 
                あめつちに霜きよらなり鶴啼けば(昭和14年3月「新葉抄」加藤かけい選) 
                篁に霰ふりやみしとき薄日(昭和14年4月「新葉抄」加藤かけい選)

                  靖国神社招魂の夜

                葉桜に今浄闇のきはまりぬ(昭和14年7月「新葉抄」加藤かけい選 
                秋の薔薇おもらかなるを鋏みたり(昭和14年11月「新葉抄」木津柳芽選)

                ちなみに「新葉抄」とは馬酔木にあって秋桜子選「新樹集」の他に馬酔木主要同人(加藤かけい、木津柳芽、山口草堂)が選をする投句欄であり、馬酔木の初心者指導欄の役割を果たしていた。登四郎も投句をしやすかったし、ここでは没となる可能性も少なかったのである。

                なお話題を戻せば、今瀬は14年中には2句しか掲載にならなかったと言うが、実際は次の句も「馬酔木集」に発表されている。資料の厳密性を確認するために一応指摘しておく。

                黒南風は岩がくれゆくバスを追ふ(昭和14年8月)
                登四郎はこのように、秋桜子、加藤かけいらの選を恒常的に受けていたが、興味深いことに、さらに山口誓子の選も受けていたのである(昭和14年10月「深青集」山口誓子選)。その後の登四郎の作風から行っても縁が薄いと思われる山口誓子であったが、当時の登四郎は貪欲であった。

                熱海にて――初島よりの遠泳着きぬ 
                渡ゆるやかに遠泳の近づきくる 
                汀に上りくる遠泳の子の歩はたしか 
                遠泳の子を抱くべく浜をはしる 
                山口誓子は昭和10年に「馬酔木」に参加していたが、4Sの一人の参加と言うこともあり別格の待遇を受けた。その一つが、「深青集」の設置であり誓子選の連作俳句欄であった。年4回応募があった。「深青集」投句者にはその後の「天狼系作家」が多い。

                従来の資料の乏しかった中での考察と違い、少ないとはいえ、これだけの資料を集め、眺めると、能村登四郎の最初期(昭和14年時期)の作風や態度ががおぼろげながらに浮かび上がるように思う。それは、

                ①登四郎は秋桜子に入門したと言うよりは「馬酔木」に入門したのであり、秋桜子、加藤かけい、木津柳芽、山口誓子など様々な作家の選に貪欲に挑戦したのである。

                ②こうした選を経た作品から、(従来、限られた資料でははっきり分らなかったが)今回示した相当数の作品を見ることにより、初期には極めて短歌的なしらべの作品が多いことが判明する。

                特に②は重要で、詠法、リズム感から言ってもそうなであるし、あるいは逆に俳句の代表的切字である「かな」「や」が見当たらないと言う意味でも、特徴が浮かび上がる。櫂未知子は『12の現代俳人論』(角川学芸出版平成17年)で「能村登四郎論」を執筆し、國學院時代の短歌を丹念に分析しているが、さらに時期を限ってはっきりと――特に昭和14年という、短歌から俳句に移行した直後において――、殆ど短歌と言ってよい俳句を詠んでいたことが確認できるのである。





                【俳句時評】  吉村昭の放哉 外山一機

                笹沢信の遺作『評伝 吉村昭』(白水社)が刊行された。吉村昭といえば戦史小説や歴史小説の名手であるが、没後八年にして自身の評伝が成ったわけである。吉村は一九七七年から石寒太ら親しい仲間とともに隔月で句会を続けており、句集『炎天』(私家版、のち二〇〇九年に筑摩書房より刊行)もある。もっとも、笹沢も指摘しているように句会はあくまでも友人との楽しみとして行われていたものであって、句作もまた趣味のひとつとして認識していたようである。俳句にかかわる吉村の文学的営為についていうならば、むしろ尾崎放哉の評伝『海も暮れきる』(講談社、一九八〇)の執筆をその筆頭に挙げねばなるまい。

                本作がなみなみならぬ放哉への畏敬と共感の念から書かれたものであることはすでに吉村自身が何度か告白しているところである。そもそも放哉と吉村との出会いは一九四八年のこと。学習院高等科文科甲類に入学したもののその八ヶ月後に末期の結核患者として絶対安静の状態となった吉村が、眼に負担をかけぬものとしてひもといたのが改造社版の『現代俳句集』であり、そのなかに放哉の作品が掲載されていたのだった(ちなみに、『炎天』に収められたエッセイのなかで吉村は筑摩書房版と述べているが、これは刊行時期を考えると吉村の記憶違いであろう)。この放哉との出会いを笹沢は次のように書いている。

                吉村昭は衝撃を受けた。俳句それ自体も人の胸を衝くものがあったが、自由律俳句という型にとらわれないスタイルが、なにやら短詩の趣を醸し出していたからである。素晴らしいものを作り出したな、と思った。

                「衝撃を受けた」という箇所については、吉村が「私の好きな句」(『炎天』所収)で語っているところであるが、「素晴らしいものを作り出したな、と思った」という感慨は何に基づいて書かれたものなのか僕にはわからない。だがこの言い回しは、若き日の吉村が放哉の句を同時代のそれとして認識してもおかしくはないほど接近した時代を生きていたのだということを僕たちに気づかせてくれる。笹沢の手柄はここにあろう。放哉の死は一九二六年で、吉村は一年後の一九二七年に生まれている。そして改造社版の『現代俳句集』は一九二九年の刊行で、吉村が同書で放哉の句に出会うのはその一九年後の一九四八年のことであった。

                それにしても、なぜ放哉だったのか。ここでいくつかの補助線を引いてみたい。ひとつは吉村が川端康成に心酔していたということである。笹沢は「吉村文学の原点にあるのは、多くの血族の死であろう」とし、また川端が「幼くして血族の多くの死に遭遇した体験は吉村昭と共通するといえる」と述べている。吉村には「戦艦武蔵」などの戦史小説、歴史小説がある一方で、「透明標本」「星への旅」など死を扱った多くの作品がある。

                これまでの創作過程を総括すると、吉村昭の初期作品には一つの顕著な特徴がみられる。「死体」「さよと僕たち」「白い虹」「白衣」「墓地の賑い」につづく、遺体献体を描いた「青い骨」、少女の遺体が解剖され骨と化していく「少女架刑」、美しい骨格標本作りに執念を燃やす外科医を主人公にした「透明標本」などであるが、これら初期の秀作に共通するのは人間の死、重い病気を扱った暗いテーマのものが際立つことである。(略) 
                これらは吉村昭が結核で大量喀血、左胸部の肋骨五本の切除などの体験を引きずってきたことを窺わせる。(略) 
                一方、吉村昭も少年期から思春期にかけて周囲は「死」で彩られていた。そうした状況の中で吉村昭は川端と同じく「死」の世界を通して、その文学的資質が磨かれたのではないだろうか。

                吉村による放哉への注目はこうした吉村の文学的資質からすれば自然なことであった。とりわけ、重篤な結核患者としての放哉は吉村にとって近しい存在であったろう。「放哉の日記、書簡を読むと、その心情があたかも自分のそれであるかのような不思議な思いであった」「少なくとも、この作品を書いている間、私は、放哉とともにあった」(「後記」『吉村昭自選作品集』第十巻、新潮社、一九九二)という言葉は、なんら誇張のないものであったように思われてならない。

                また、『尾崎放哉全集』(井上三喜夫編、彌生書房、一九七二)が刊行され、放哉に関する資料にアクセスしやすい状況が生まれたことも吉村にとっては幸運であった。もっとも吉村が若き日にあれほど衝撃を受けた放哉について長年書かずにいたのは、放哉の享年をこえるまではその理解ができないだろうという自制心からであったが、少し見方を変えると、これは吉村が自らの文学的営為において参照するに足ると認識していた俳句を他に持たなかったということでもあろう。たとえば吉村は久保田万太郎の句を称賛しているが、それは俳句表現史から一線を画した位置から発せられる称賛であった。吉村は中村真一郎の『俳句のたのしみ』(新潮社、一九九〇)の一節を引いて次のように述べている。

                戦後、桑原武夫氏が俳句を「第二芸術」だと論じ、それによって俳句作者たちは、俳句を「『第二芸術』の域から引きあげて、作者の人生観、世界観、社会観などの全体的表現の点で、現代詩や小説などに匹敵する役割を演じさせようと、血の流れるような努力をし、技法的にも現代の前衛詩である超現実主義までも吸収している」と書いている。(略) 
                素人の俳句愛好家である私は、はなはだ時代遅れもいいところで、現代の俳人の句をまったく新しい観点から見なければならぬのだ、と、専門俳人からすれば、今さらなにを、と大笑いされるようなことを知ったのである。(略) 
                中村氏は、万太郎の作風を「江戸風の発句の面影を残し」たもので、「それが極度の技巧の冴えを見せ、その方向では行くところまで行っているという印象を与える」と記している。そして、氏は、万太郎の句が「文学と人生との、あるいは表現と魂との関係において、素人だという嬉しい印象を与えてくれるのである」とも書いている。 
                私も嬉しくなった。私が万太郎の句を好きなのは万太郎の句が素人のものであり、それだからこそ素人である私にもよく理解できるのだ、と。

                吉村はあくまで「素人の俳句愛好家」としてのスタンスをとっていた。これはむろん、謙遜交じりの自負であろう。この「素人の俳句愛好家」という自意識には、戦後俳句史への関心の薄さを装うことでそれを容易には認めまいとする吉村の批評精神がうかがわれる。あるいはまた、これをもう少し深読みするならば、『現代俳句集』的な史観への愛着の発露とみることもできるかもしれない。『現代俳句集』における万太郎らの扱いについては橋本直が次のように指摘している。

                俳句の配列は、まず旧派宗匠俳人が17人。次に「日本」「ホトトギス」関係俳人が85人。非ホトトギスの有季定型(「懸葵」「石楠」の大須賀乙字や臼田亜浪ら)10人。そして新傾向や自由律(「三昧」「層雲」「海紅」の碧梧桐、井泉水、一碧楼ら)33人。「秋声会」(巌谷小波、伊藤松宇ら)21人。文人俳人4人(万太郎、龍之介、三汀、犀星)となっている(ちなみに女性は4人しかでてこない)。俳壇史的流れに沿って冒頭には旧派宗匠がおいてあるものの、後はあくまで有季定型派が先で無季自由律派は後まわし。さらに秋声会や小説家のような趣味派?は最後にまわされてしまっている。いたって「ホトトギス」中心的で素っ気ない。(「週刊俳句」2007年8月12日

                橋本は同書の人選について「おそらくは各有力俳人の推薦を編集部で集め、虚子が正否を決めたのではないかと思われる」とも述べているが、こうした編集が若き日の吉村の目にどのように映ったのかは定かではない。ただ、笹沢は吉村が「死んだらこの現代俳句集を棺桶に入れて欲しいと頼」んだとも記している。「無季自由律派」や万太郎を俳壇の主流からそれたものであることを示唆する『現代俳句集』の編集方針と、同書を愛読し後に「素人の俳句愛好家」を自称する吉村が放哉や万太郎に執着したこととの間に何らかの関係を見出すのは、強引に過ぎるだろうか。

                さて、改めて「海も暮れきる」に話を戻そう。笹沢は、「放哉の最晩年を、吉村昭はまるで自身の自伝を書くように描いている」「おそらく放哉を書くことは、吉村昭自身を書くことでもあったのだろう」と述べているが、放哉と自身とを重ねあわせたかのような記述はたしかに本作に見られる。

                かれは、着物の裾を開き、股の間に体温計をさしこんでみた。が、腿も骨が浮き出ていて両腿に力を入れてみても、体温計の先端がふとんの上に脱け落ちてしまった。かれは、疲れきって検温をあきらめた。体が痩せこけて体温計すらはさめぬようになっていることに、暗い気分になった。体重をはかるすべはないが、もしかすると、九貫匁程度しかないのかも知れなかった。 
                かれは、旅人に体温計をはさめぬので検温できない旨をしたためた手紙を書き送った。そして、句帳に、 
                肉がやせて来る太い骨である 
                と、書きとめた。

                吉村はこの句を冒頭に据えたエッセイ「病床での実感」(『炎天』所収)で、結核で入院していた当時を次のようにふりかえっている。

                絶対安静を守って寝たきりの生活をつづけていたが、病状の悪化に伴って体に変化が起こった。掌をかざしてみると、皮膚が極度に薄くなったらしく、動、静脈の毛細血管がきれいに浮き出て、交通網図そっくりにみえた。(略)喀血してから半年後に手術のため入院して体重を測(ママ)ってみると、六十キロの体重が二十五キロも減っているのを知った。(略)

                この句は、私の実感そのものであった。なんという太い骨かと、突き出た鎖骨にふれながら思ったりした。

                 ここで吉村が三五キロに落ちた自身の姿を描いていることと、「九貫匁」すなわち約三四キロ程度にまで落ちたかもしれない体重を危惧する放哉の姿を描いていることとを、たんなる偶然の一致といってすませてよいものか。別のエッセイ(前掲「私の好きな句」)でも吉村は「かれの句に表現されている肉体の衰えと迫る死を見つめる心情は、そのまま私自身のものであった」と述べたうえで「肉がやせて来る太い骨である」を挙げ、「この句が実感として感じられた」と語っている。結核で生死の境をさまよっていた当時の吉村自身の体重と放哉のそれとが一致して書かれていることは偶然ではあるまい。吉村にとって、「尾崎放哉」を書くということは、たとえば両者の体重を一致させつつ書いていくということなのではなかったか。両者の体重が実際に同じであったとか違っていたとかいうことは問題ではない。これを自己演出だというなら、これほど命懸けの自己演出がほかにあるものか。「少なくとも、この作品を書いている間、私は、放哉とともにあった」という吉村の言葉を僕が信用するのは、僕には放哉を書く吉村が自らにとっての書く行為の意味を僕たちの前に端然と提示しているように思われるからである。

                いわば、吉村にとって「尾崎放哉」を書くということはすなわち「吉村昭」を書くことであった―そう思うとき、吉村の遺書が放哉の死のありようとどこか一致することも肯ける。たとえば笹沢は吉村の妻である津村節子の作品(「紅梅」)をもとに、吉村昭のしたためたという遺書の内容を紹介している。そこには「家族葬とすることは、死顔を第三者に見せぬためである」という一節があるが、一方で吉村は、「海も暮れきる」において肉親に死顔をさらすことを拒みながらも妻の馨の写真を手許に置くことを欲する放哉の最晩年の姿を描いている。また、死の少し前、食事もろくにとれなくなり厠に行くこともできなくなった放哉が小沢武二から送られた煙草をのむ姿は、死の前日にビールとコーヒーを所望する吉村の姿と重なって見える。

                かれは、早速、マッチで煙草に火を点じた。一口吸ったかれは、うまい、と思わずつぶやいた。高価な英国製煙草が、これほどの味であったのか。(略)食欲も失われたかれには、煙草の味と香りが得がたい貴重なものに感じられた。(「海も暮れきる」) 
                そして死を把握した三十日の朝、吉村昭は人生の別れに、まずビールを所望する。津村節子が吸呑みに入れて渡すと、一口飲んで「ああ、うまい」と言う。しばらくして「コーヒー」と言ったので渡すと旨そうに飲んだ。以後、すべてを断った。(『評伝 吉村昭』)

                ところで、死に際といえば、『評伝 吉村昭』の巻末で斎藤洋子が「本書は笹沢の絶筆、遺作になりました」と記している。笹沢は食道癌に冒されて入院する直前に本作の第一稿を書きあげ、その後のわずかな退院期間の間に推敲を重ね、脱稿したのだという。一方、本作において笹沢は、遺作となった「死顔」の果てしない推敲を続ける吉村の最期の姿を描いている。「死顔」の推敲を死ぬまで続けた吉村と、その吉村のありようを書き終えてまもなく死を迎えた笹沢―両者の執筆活動への執念もまた、偶然の一致ではあるまい。





                 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その二十五~ 網野月を

                (朝日俳壇平成26年7月21日から)

                ◆夕焼けて一と日まるごと美しく (北海道鹿追町)高橋とも子

                稲畑汀子と金子兜太の共選である。汀子の評には「一句目。太陽が西の空に沈む夕焼けの美しいこと。暑かった一日を「まるごと」美しいと言いたい作者」とある。座五にある「美しく」は生な表現である。何に美を感じるのか?何に対して美を感じているのか?は想像するしかないのだが、掲句の場合は「一と日まるごと」を捉えての美なのである。一方、掲句は美の本質には触れていない。俳句のような最短詩形では文字通り無理な相談だ。「一と日まるごと」を言いたいだけなのであるから。それにしても掲句は、景も叙述も大掴みだ。「一と日」も「美しく」も具体性がないだけに作者の見ている夕焼けの景までもが大き過ぎるように感じる。両選者はその大きい景がすっぽりと夕焼けに包まれて、より大きなものを感じていることに感じ入ったのであろう、と想像する。作者の目の当たりにしている景を夕焼けがより大きなその懐に抱いているような感じを受けたのであろう。

                掲句には切れが無い。上五の接続助詞「て」に拠って原因を提示し、「美しく」の結果を導き出しているように読める。上五で切れを作る方法もあるように考える。

                ◆夏富士に集ふや入社五十年 (西宮市)黒田國義

                金子兜太と長谷川櫂の共選である。多分、入社同期組の五十年目の集いであろう。既に定年退職している仲間同士が富士登山を試みたのであろうか?はたまた富士近辺の温泉宿にでも投宿したのだろうか?同期入社して友となりライバルとなり、いつしか共に定年退職を迎えた僚友と「入社五十年」を祝うことの出来た感慨が、「夏富士」にピッタリである。この集いは単なる楽しみではないような気がする。人生の残り三分の一を迎えるに当たり、もう一度自分を見つめ直す良い機会になったであろう。
                この世代の方々は生に対して真っ直ぐに立ち向かう勇気を持っている。

                他に金子兜太の選で

                ◆先づ以つて男の咽せるところてん (川越市)渡邉隆
                ◆戦前を知る人速し蚊を打つ手 (新庄市)三浦大三

                がある。両句ともに「男」「戦前を知る人」と句中に主語が入っている。が「男」も「戦前を知る人」もすべての「男」すべての「戦前を知る人」を叙してはいない。特定の人物を想定している。つまり前掲句の場合は主題が季題「ところてん」であり、後掲句の場合は「速し」にあるからである。

                閑話休題。それにしても実に戦前を知る人の蚊を打つ手は速い。つい最近も実見したばかりである。




                【執筆者紹介】

                • 網野月を(あみの・つきを)
                1960年与野市生まれ。

                1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

                成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

                2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

                現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




                (「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)



                【小津夜景作品No.33】



                他人の巣    小津夜景



                帰り道、車内でわたしたちが交した会話は、とても他愛ないものだつた/その人は新しいレコードを買つたから近いうちに聴きにおいでと言つた/わたしが「うん」と言へずにゐると、その人は話の中にさりげなく別の人物をまぜた/八月になつたら、あの人も誘つてみんなで旅行に行かう/今、北欧行きの飛行機が安くなつてるから白夜でも見に/その人物の名を聞いて、わたしはやつと普段の調子で会話するきつかけをつかんだ/白夜?/それ夏至の頃でせう?/そんなてきたうな台詞に騙されて、あの人が旅行に行くわけないと思ふよ/さうか/でも僕はあの人が嫌がる顔を見るのが好きだし、さうなつたら却つて嬉しいかもね/無理にでも連れて行くさ/さう言ふとその人はこちらを向くのを止めた/そしてほんの少し車の速度を上げた/前方にあいまいな闇が力なく迫り、切られるハンドルの大きさだけ、視界はその安定を奪はれてゐるやうだつた/しばらくして、白つぽい樹林の光景が左右にあらはれると、わたしたちはヌガーを思はせるその柔らかな檻のなかへゆつくり車ごとのめり込んでいつた/ときをり訪れるなだらかなカーブだけが、変容のないこの空間が時間に生け捕られてゐる感覚を、誰にともなく示してゐた。

                ひるねより目覚めてからだ薄くなる

                過ぎゆきしはづを緑雨の重さかな

                南風よふくれつつらの帆の寛容よ

                夏帽子ねざめのやうに酔ひなして

                日時計の黴をぬぐうて旅立てり

                なつぞらよとろむぼおんの灰に充ち

                飲み干せばまぼろしと砂日傘かな

                風鈴の手を眠りへとさしまねく

                ゆふだちやまつしろな鋏を下ろす

                白き夜のここは他人の巣なりけり






                【作者略歴】
                • 小津夜景(おづ・やけい)

                     1973生れ。無所属。





                2014年7月18日金曜日

                第79号 2014年07月18日発行


                作品
                • 平成二十六年花鳥篇 第八(最終回)
                仲 寒蝉、しなだしん、堀本 吟、筑紫磐井   ≫読む

                現代風狂帖

                  作品No.32 オンフルールの海の歌     小津夜景  ≫読む




                  ●鑑賞・書評・評論・エッセイ 

                  【戦後俳句を読む】
                  • 上田五千石の句【テーマ:「手」】
                  ……しなだしん   ≫読む
                  • 能村登四郎の戦略――無名の時代 (1) 
                  (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)
                  ……筑紫磐井   》読む
                  • 「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ
                  続・10、藤田湘子「水草生ふ後朝のうた昔より」)……大井恒行  ≫読む


                  【現代俳句を読む】

                  • <俳句時評>たまたま俳句を与えられた
                  ……堀下翔  ≫読む

                  • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その二十四~




                  (前号より継続掲載)
                  • <俳句時評>川名大の殉じかた……外山一機   ≫読む
                  • <俳句時評> 五十句競作終了から30年目……北川美美 ≫読む
                    • <俳句時評> BLOG俳句空間の歴史 ……筑紫磐井 ≫読む


                    大井恒行の日日彼是       ≫読む
                    読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話。どんどんどんと更新中!!


                    412日更新:筑紫磐井『我が時代』         》読む
                    4月30日更新:仁平勝『路地裏の散歩者ー俳人攝津幸彦』 》読む 



                    ● あとがき  ≫読む



                        PR・お知らせ

                        • 速報!竹岡一郎さん 第34回現代俳句評論賞を受賞 ‼
                        • 俳句の林間学校 こもろ・日盛り俳句祭

                        (週刊俳句 第374号 2014年6月22日 特集) ≫読む

                        字余り・字足らず・言葉足らず(こもろ・日盛り俳句祭シンポジウム関連)……筑紫磐井   ≫読む

                        • 当ブログの冊子!-BLOG俳句空間媒体誌- 俳句新空間
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                          • 我が時代-二〇〇四~二〇一三-<第一部・第二部>筑紫磐井句集』
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                            • 仲寒蝉 第二句集   『巨石文明』 

                            (当ブログ「戦後俳句を読む」のコーナーにて赤尾兜子句鑑賞執筆者!)

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                              第二回 攝津幸彦記念賞各賞発表  》読む
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                              【小津夜景作品No.32】




                              オンフルールの海の歌   小津夜景

                              『空想家』とはとてもきちんとした良い人たちのこと。 
                              さう言つたのはわたしの大好きな人。海鳥の伯父さんをもつ音楽家だ。 
                              先日わたしはひさしぶりにその人の家に行き、グランドピアノよりも巨きい梨のかたちをした堕天使と話した(この堕天使は梨のくせに人語を解するのである)。 
                              音楽家は留守なのです、とすまなさうにする梨の堕天使にわたしはポワレではなくカルヴァドスを勧め(梨は共食ひをしないらしい)一緒に窓から海を眺めた。 
                              自由。自由。自由。自由。自由。 
                              それ以外何の思ふことがあるだらう? 
                              まだ頭の黒いカモメの子供たちが、空を泳いでゐるかと思ふと、たちまち波間に落ちる。パラグライダーの真似をして遊んでゐるのだ。 
                              突然、梨の堕天使が、阿呆らしくなるほど感情を込めて語り出した。 
                              タコは隠れ家にゐる。
                              タコはカニと戯れる。
                              タコはカニを追ひかける。
                              タコはカニを変なところに呑み込んでしまふ。
                              取り乱して足をもつらせる。
                              調子を戻さうと、タコは塩水を一杯飲む。
                              この飲み物はとてもいいんだ、飲むと気分も変はるから。 
                              ……ださうです。わたしは笑つてまた窓の外を見る。さうして出来た海の歌。


                              まほろばのくらげや気まま離れ島

                              なつぎぬのたましひ帆にも空回る

                              びいどろよひとがさかなとよぶものは

                              みなみかぜして埋葬はまたたくま

                              いかさま師さまざまの海思ひ出にき

                              木霊なりあらゆる意味でうみねこが

                              まひまひを食らうて待ちわびて睡魔

                              雨だれがまもなく(今)と言ふだらう

                              サビシカルマンバウ夕立トロピカル

                              真夜中の島さかさまに浮いてこい





                              【作者略歴】
                              • 小津夜景(おづ・やけい)

                                   1973生れ。無所属。





                              「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(続・10、藤田湘子「水草生ふ後朝のうた昔より」) 大井恒行

                              藤田湘子「水草生ふ後朝のうた昔より」

                              藤田湘子(1926〈大15〉1.11~2005〈平17.4.15〉の自信作5句は以下通り。

                              山眠る男の眉の和むごと            第9句集『前夜』(未刊) 
                              けむり吐くやうな口なり桜鯛             〃  
                              道艶にして山へ入る野分後              〃 
                              巣立鳥明眸すでに岳を得つ              〃 
                              水草生ふ後朝のうた昔より              〃

                              一句鑑賞者は中田剛。その一文は大手拓次の詩を引いて、他はほとんどない無い。以下にその全文を引いておこう。「大手拓次には『水草の手』と題する詩がある。

                              〈わたしのあしのうらをかいておくれ、/おしろい花のなかをくぐつてゆく花蜂のやうに、/わたしのあしのうらをそつとかいておくれ。/きんいろのこなをちらし、/ぶんぶんはねをならす蜂のやうに、/おまへのまつしろいいたづらな手で/わたしのあしのうらをかいておくれ、/水草のやうにつめたくしなやかなおまへの手で/、思ひでにはにかむわたしのあしのうらを/しづかにしづかにかいておくれ。〉

                              ここにあるのは至極退屈で、あまやかなエロティシズム。そうして水草ゆらいでいる光景はまがうかたなき現代のきぬぎぬの光景」。もともと中田剛の文章や句そのものがごくシンプルに描かれているものが多いと思っていたが、他の鑑賞文の多くが1ページの分量をほぼ守って書かれていたが、この中田剛の一文は、予想を越えてシンプルで、まるでこれ以外に書きようがないではないかといった趣だった(中田剛のあと一名の一句鑑賞は鎌倉佐弓「つばめ来よ胸に穴あく燕こよ」だったが、この一文はもっと短かった)。

                              藤田湘子の平成の自信作5句はすべてが未刊句集『前夜』からというのも(発表誌からではなく)、他の俳人諸氏とは違った特徴だったが、実はこれら五句のなかで(たぶん書き損じて)書き直し、推敲を留めているのが、「この水草生ふ」の句だった。推敲前の句は中七「きぬぎぬの歌」だった。それが万年筆のインクで消されて「後朝のうた」となっていたのであった。



                               【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その二十四~ 網野月を

                              (朝日俳壇平成26年7月14日から) 訂正版
                                                        
                              お詫びがございます。筆者の勉強不足から「道をしへ」について誤解がございました。お詫びして訂正させて頂きます。ご指摘を頂戴いたしました読者の方には、深く感謝申し上げます。この一事を今後の勉強の糧といたします。  


                              ◆道をしへ行方不明となりにけり (大村市)小谷一夫

                              大串章の選である。掲句の評には「第二句。「道をしへ」が「行方不明」になった、という言い方が面白い。」とある。「行方不明」になったのは誰だろう。もしかしたら作者自身であろうか?

                              それとも作者は傍観者であり、「道をしへ」が何処かへ飛んで行ったということであろうか。作者自身だとすれば、道を教えて貰ったにもかかわらず、迷子になったということである。しかしながら自身の行動を行方不明というのは少々大仰かも知れない。とすればやはり、「道をしへ」は飛んで行ってしまった。作者からは、見失ってしまったということであろう。

                              そもそも座五の「なりにけり」というのは、重厚な表現であり、単に事実の確認にとどまらずに作者の感情の深みや感慨を示していると言えよう。中七「行方不明」のニュースタイトルのような表現を座五の表現がどっしりと受け止めている構図だ。


                              ◆両翼に海の力や夏燕 (船橋市)斉木直哉


                              長谷川櫂選である。季題「燕」や「夏燕」の句には類想もあるが、掲句は句のスタイルもスッキリとしていて如何にも句意にぴったりだ。座五の「夏燕」の発音が多少詰まり、「夏燕」を何かに喩えているのかしら?と愚考したりする。が、やはり此処は素直に「夏燕」のこととして捉える事にしたい。



                              【執筆者紹介】

                              • 網野月を(あみの・つきを)
                              1960年与野市生まれ。

                              1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

                              成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

                              2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

                              現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




                              (「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)



                              【俳句時評】  たまたま俳句を与えられた  堀下翔

                              俳句甲子園の季節である。先月の14~22日にかけて各地で地方大会が開かれた。筆者は15日の東京大会を見に行った。

                              見物に行ったのは、もしかしたら内田遼乃に会えるかもしれないという期待からだった。内田遼乃。いったい彼女のことを知っている人がどれくらいいるだろう。昨年の秋、週刊俳句の10句欄に登場した女子高生俳人である。当時、東京家政学院高校俳句同好会の二年生。この年の俳句甲子園地方予選に出場している。掲載されたのは、こんな句である。

                              ピーチ姫を助けに行くわたしは実はあみどだった 
                              ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう 
                              私を月につれてってなんてはつなつのぬるい海で我慢してね



                              意味が分からない。言うまでもないけれど、五七五ではない。賛否が分かれるのは明らかだった。先に筆者の立場を言えば、面白いと思った。こんなむちゃくちゃなことを書く人がいるのか。もちろんこれは批評ではなく感想である。この「前髪ぱっつん症候群」には、同好会顧問の外山一機氏による解題が付されている。それによれば「この作品は俳句甲子園の東京予選に向けてつくられたものです。結局これらの句を俳句甲子園で使うことはなく、だからこれまで誰の目にもふれることはありませんでした」「僕はこうした俳句を読んだことがありませんでしたから、面白いと思いつつも、どうしたらよいものか戸惑っていました。そして、おそらく内田の句を受け入れてくれる場は、高校生向けの俳句コンクールやイベントの場ではないとも思っていました」ということだった。そうだろうな、と思った。

                              自分が同じ高校生俳人だったから、というのが大きいとは思うが、以来、内田遼乃のことがいつも頭の中にあった。俳句甲子園というシステムから彼女のような作家が出てくるとは思わなかった。良くも悪くもディベートを通して俳句を戦わせる俳句甲子園において、「ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう」のような句は突っ込みどころの塊でしかなかった。だけれどもこの句はいい句だと思った。面白いから。

                              週刊俳句に登場した反響がどれくらいあったか知らない。同誌の鑑賞記事を見る限り、一人の作家として見る評者もあれば、これからの勉強に期待、という評者もいて、まちまち。とにかく作家内田遼乃は出発した。高校二年生だ。卒業後に俳句を続けるかは知らないが、部活動として、あと一年は俳句を作るだろう。

                              それで、東京大会に足を運んだのだった。結果から言えば、内田はいなかった。顧問の外山氏に聞くと、もう俳句は作っていないとのことだった。その代りに、彼女の俳句をまとめて見せてもらった。摂津幸彦賞や芝不器男賞にも応募していたという。いただいたのは、その応募句群。重複を除いておよそ100句である。ここに書かないと次に陽の目を見るのがいつになるか分からないので、紹介の意味も込めて見ていこう。なお季語が「初夏」「目高」「網戸」に集中しているのはこの年の俳句甲子園の兼題がこれらだったからである。

                              いい娘さんになろうと思った。あみどよりも速く 
                              なつはじめにもらった君のメアドの中には〝aragaki yui〟の文字  
                              めだか、3号機のかわりなんていないの 
                              この首の先は君にかかってる私をメリバにつれてって(はつなつや) 
                              目高を真ん中に私は左に君は右にほら家族みたいじゃない? 
                              柿の種を飲み込んだ目高 大丈夫?つまってない?


                              思いついたことをそのまま書き連ねていくような文体。女子高生っぽい点で痛々しくて、その意味では神野紗希「起立礼着席青葉風過ぎた」以来の「高校生俳句」の王道ではある。可愛くて癖があって、まるで歌手のやくしまるえつこの歌詞のようだと思っていたら、そのまま「やくしまるえつこはつなつのベッドのうえで私は今日も図書館へ」という句があった。もう一人連想するのは福島泰樹である。彼もまた言葉が流出しつづける作家。小高賢が『現代の歌人140』(2009年/新書館)で指摘していたが、福島の短歌文体の特色は間投助詞「よ」の頻出である。詠嘆と呼びかけの「よ」。内田句もまた(「よ」ではないが)詠嘆と呼びかけがはなはだしい。ことに彼女の句では「の」が異常に多い。上には「3号機」を引いたが、全101句(二賞の応募句から重複を除いた数)中24句に「の」が現れる。会話語なのでここまで多いとくどさは否定できないが切実である。

                              内田が、俳句は575の定型だと知っていたかどうか、分からない。そしてもし彼女がたとえば短歌という形式を与えられていたとしても、結果として彼女が作るのは、ここまで見てきた「作品」と、まったく同じものだっただろうと筆者は思う。外に出るべき言葉があって、たまたま俳句という形式を与えられたのだから。

                              俳句甲子園は、こんなふうに、「たまたま俳句を与えられる人間」を量産しているのだろう。所属していた文芸部が顧問の意向でたまたま俳句甲子園に出場することになった、とか。それに俳句甲子園は5人で1チーム。出場するために、俳句に触れたことのない部員を誘うなんて話はざらである。山口優夢だってそもそもは「タダでマツヤマに行ける」(山口優夢「俳句甲子園と僕」/『週刊俳句』第171号2010年8月1日)から俳句甲子園に出たのだった。

                              俳句甲子園の功績は、ひとつにはこんなところなのだと思う。「部活」という特殊な高校のシステムによって、たまたま俳句を与えられる人間が何人もいる。彼らがその後俳句を続けるかは別として、結果として多くの俳句が生み出され、誰かしらの心に残ることになるというのは、素直に見て、健康的である。

                              そもそも多くの俳人にとっての俳句へのかかわりは「たまたま」である。親が俳人、担任が俳人、職場に句会があった……。たとえば岡本眸はもともとOLで、バンドを組んで歌ったり、芝居をやったり(岡本眸『朝』あとがき/1971年/牧羊社)、こっそりテレビドラマの脚本を書いたり(加倉井秋を「岡本眸論」/『俳句』1972年2月号)するような若者だったのが、職場句会で富安風生に出会ったために俳句を始めた……というような話を聞くに及んで、筆者は、しみじみとこの「たまたま」に感じ入るのである。

                              俳句甲子園によるこの「たまたま」の量産が将来どんな結果につながるか、ちょっと楽しみにしている。


                              【執筆者紹介】

                              • 堀下翔 (ほりした・かける)

                              1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。現在、筑波大学に在学中。



                              第79号 (2014.07.18 .) あとがき

                              北川美美

                              梅雨明け間近ですが、すでに暑い日々が続いています。皆様体調にどうぞお気を付けください。

                              さて、今号の花鳥篇第8にて最終回となります。 次の俳句帖シリーズは「夏興帖」となります。

                              速報として当ブログで精力的に作品をご寄稿いただいております竹岡一郎さん第34回現代俳句評論賞を受賞されました。お祝い申し上げます! 

                              以下現代俳句協会のページより。

                              第34回現代俳句評論賞 竹岡一郎氏 「攝津幸彦、その戦争詠の二重性」 

                                   同  佳 作 武良竜彦氏 「『不可能性の文学』の大いなる可能性―高野ムツオ句集の軌跡から」

                              ◎受賞者略歴 
                              ◇竹岡一郎(たけおか・いちろう)
                              ・1963年(昭和38年)大阪市生まれ。大阪府在住。   
                              ・1992年(平成4年)「鷹」入会。藤田湘子、小川軽舟に師事。
                              ・1995年(平成7年)「鷹」新人賞。「鷹」同人。 
                              ・2007年(平成19年)「鷹」俳句賞。
                              ・2009年(平成21年)鷹月光集同人。
                              ・句集に『蜂の巣マシンガン』
                              ・現在、俳人協会会員 
                              ◎選考委員(敬称略・五十音順)
                               秋尾 敏、綾野道江、恩田侑布子、小林貴子、高岡 修、中里麦外、柳生正名

                              竹岡さんは、詩客ページにて日めくり俳句を数度ご寄稿いただいておりますが、最近に於いては同詩客にて短歌評も論じられています。 


                              現代俳句協会サイトには現在、佳作を受賞された武良竜彦氏についての紹介が記載されていませんでしたが、小熊座同人でいらっしゃるようです。武良氏のホームページに高野ムツオ句鑑賞が掲載されています。 http://homepage2.nifty.com/sousakubun-club-mura/haikukan.html  童話作家でいらっしゃるようです。

                              竹岡さん、武良さんおめでとうございます。


                              曽根毅さん、西村麒麟さんにつづき受賞ラッシュの2014です。





                              筑紫磐井

                              ○今回で、花鳥篇も最終回。そろそろ「俳句新空間」第2号に取り組みたいと思う。なお、毎週の「BLOG俳句空間」の更新はかなりの負担がかかっており、またこの前後にはいろいろなイベントも重なったりするので、8月中は15日を夏休みにしたいと思っている。予めご了承いただきたい。私としては、この間に「俳句新空間」などの作業に当てたいと思っている。

                              ○前号は「玉藻」の1000号祝賀会、「鷹」の50周年祝賀会について報告したが、次の7日には俳句四季が恒例の七夕会が開催された。両方の結社のメンバーが参加していたこともあり、慰労会の雰囲気でもあった。特に2次会は、星野高士(玉藻新主宰)や奥坂まや(鷹50周年実行委員長)が残り、直近の話題としてそれに話が集中していた。短期間に3つの会でいつも出会う人がおり、我ながら祝賀会付いていると思う。来週は、田中裕明賞の祝賀会に行って、西村麒麟の受賞の祝辞を述べなければならない。賞めてくれと言われているので、頭が痛い

                              高山れおなは、こういう状態を、以前しばしば「お付き合いもほどほどに」と揶揄していたが、俳句界の人達が何を考えているかを知るためには、それなりに有益であろうと思っている。確かに知らないうちに時代はどんどん移り変わって行く可能性がある。知らなくてもいい情報もあるが、情報の選択は自分がすればよいのであり、特にこの「BLOG俳句空間」や「俳句新空間」に参加している人には一面識もない若手も多いので、こうした場で多少は会える機会を求めている。



                              (「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (1) /  筑紫磐井

                              (1)はじめに 

                              昭和40年代後半の沖における若手俳人の動向を書いて来たが、途中でふと気になりだしたことがある。昭和20年代には能村登四郎自身が馬酔木において若手作家として活動をしていた。登四郎にとってみれば、自身の昭和20年代の青春と、昭和40年代後半の弟子たちの青春とをどのような思いで比較していたのだろうか。自身を見る目と、他を見る目を比べてみると、戦後俳句の、移り変わったものと変わらないものとの違いが浮かびだしてくるのではなかろうか。

                              前の連載で、「沖」創刊早々の能村登四郎の青年作家に寄せる言葉を紹介したが、青春俳句はかくあるべきという変わらない思いと、一方で、実際の青年作家たちのギャップに当惑している登四郎がまざまざと浮かんでくる。登四郎の内心を考察するには、登四郎自身の青春時代をまず知らねばならないだろう。例えば、妙な言い方だが、昭和40年代後半の弟子たちの打算・戦略と、能村登四郎ら昭和20年代後半の作家たちの打算・戦略とを比較しなければ、両世代の作家としての動向を比較はできないはずだ。

                              ただ、こんなことに関心を持つのは、当時の「沖」の若手作家の中ではせいぜい私ぐらいであった、なにしろ皆は自分のこと(俳句)に夢中であったから。したがって、後日、「若き日の登四郎」「処女句集研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、(編集長の林翔以外)およそ反応はなかったようである。しかし、こうした作家個人に注目した研究は、時代を理解する上で必須だと思う。そして同時に、能村登四郎の青年時代を研究するということは、藤田湘子をはじめとした馬酔木系の有名無名の青年作家(当時いずれも無名であり、その後結果的に有名になったに過ぎず、当時は誰も彼も無名でありながら、野心に満ちていたはずである)を研究するということである。そうした集団の歴史というのはなかなか研究する機会がないに違いない。

                              ここでは、能村登四郎のたどった俳壇的生活を能村登四郎の目から見て描いてみたいと思う。

                                  *

                              能村登四郎は昭和14年から「馬酔木」に俳句を投稿したといわれている(これが間違いであることは次回述べたい)。28歳であり、当時若い作家がたくさんいたから晩稲(おくて)であるといわねばならない。国学院大学在学中には同人誌で短歌を発表していたが、卒業後はそうした文芸からしばらく離れ、千葉の中学の教師として変化のない生活を送っていた。こうした中で俳句を始める。

                              当時の馬酔木の状況は、ちょうど加藤楸邨、石田波郷が活躍し、山口誓子が同人参加をして深青集という連作俳句の投稿欄を持っていた時期であった。昭和7年に「馬酔木」がホトトギスから独立してその存亡を危ぶまれた時期からだいぶ落ち着きを得、一方改造社から昭和9年に創刊された「俳句研究」が順調に俳壇をリードして、いわゆる新興俳句と草田男・楸邨・波郷ら人間探究派が脚光を浴びた時期で、これを受けて「馬酔木」は最も華やかな時代であったのだ。特にその直後、波郷は「鶴」(昭和12年9月創刊)を、楸邨は「寒雷」(昭和15年10月創刊)を創刊していたから、登四郎の新人時代とは俳句が希望に満ちあふれていた時代ではなかったかと思われる。

                              しかし、時代的には、既に昭和12年支那事変(日中戦争)が始まっていたし、直後の昭和16年から大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるわけであるから、正確には光と影の交錯した時代であった。

                              「馬酔木」にも「俳句研究」にも、やがて戦時の風が吹きこみ始める。「馬酔木」には<聖戦俳句抄>が設けられ、「俳句研究」には<支那事変三千句>等の特集記事が出てくる。「馬酔木」作家からも、小島昌勝、相馬遷子、石田波郷らのように従軍して行く作家たちが続出した。いや何よりも、紙の配給制限からみるみる雑誌の頁数が薄くなり粗悪な資質となっていった。やがて、昭和15年には新興俳句系の「京大俳句」「広場」「上土」の俳人たちが治安維持法違反で逮捕されるという弾圧が行われるのである。

                              昭和16年から20年の休刊まで、この薄い雑誌に登四郎はささやかな市井の営みを詠った俳句を発表し続ける。



                              上田五千石の句【テーマ:「手」】/しなだしん


                              手だまにもとろや出羽の初茄子  上田五千石

                              第三句集『琥珀』所収。平成元年作。

                              「羽黒山」の前書があり、「出羽」には「いでは」のルビがある。

                              「手だまにもとろや」は、「手玉に取る」の活用を俳句の韻律に載せて変形させた表現だろう。ルビの通り、「出羽」は「でわ」ではなく、旧国名の「いでわ」と読ませるリズムとなっている。

                                      ◆

                              『琥珀』の掲出句の前には、

                                 象潟へ 
                              翁追ふ旅寝みじかし合歓の花
                              があり、さらにその前には、
                                 立石寺門前 高砂屋女将に 
                              涼しさの山寺蕎麦のしなこさよ
                              が収められている。それぞれの前書、「立石寺門前 高砂屋女将に」「象潟へ」、掲出句の「羽黒山」からも、山形、秋田を訪れた折の一連の作であることがわかる。

                                      ◆

                              前書にある「羽黒山」は鶴岡市にある出羽三山のひとつ。標高414mで、山岳信仰の山。

                              「おくのほそ道」で芭蕉も訪れており、当地には芭蕉像が建てられ、「涼しさやほの三日月の羽黒山」などの句碑もある。

                              五千石には芭蕉に似た表現や、型の句があることは「41回テーマ:夜」「42回テーマ:も」で触れた。掲出句は実際に「おくのほそ道」を辿る旅で詠まれた句になる。
                              「翁追ふ」の句では文字通り、芭蕉を追う気持ちがそのまま詠われており、「旅寝みじかし」も芭蕉の旅を意識したつくりになっている。

                                      ◆

                              掲出句。「手玉に取る」は辞書によれば「手玉をもてあそぶように、人を思いどおりにあやつる」の意。「手玉」とはいわゆる「お手玉」のこと。

                              この「手だまに取る」という強い言葉にしても、「とろや」の表現、「いでわ」という旧国名などを見ても、古めかしい表現であり、芭蕉への憧れが感じられる。

                              一方、「初茄子」はどんな茄子か定かではないが、「手だま」からは、まるまるとした“丸茄子”が想像される。

                              「羽黒山」のある鶴岡市には、民田茄子(みんだなす)という地域伝統の丸茄子があるようだ。手のひらに乗るくらいに成長したところで収穫、卵型で果皮が堅く、果肉のしまりが良い、という。手のひら大の丸茄子というから、この民田茄子は「手だまにもとろや」にはぴったりな気がする。

                              「初茄子」はその年はじめて取れた茄子。「手だまにもとろや」はその初々しさを表わした措辞だろう。



                              平成二十六年 花鳥篇 第八 (最終回)




                                   仲 寒蝉
                              をんどりの尾をひきずるや竹の秋
                              神々の混み合つてゐる青嵐
                              レーガンの時代あれからかたつむり

                                   しなだしん(「青山」)
                              軽く手を触れて下さい目借時
                              おしぼりは真白き獣冷し酒
                              念力のやうな音して冷蔵庫
                              行水のをんなの黒く大きな目
                              ルイ十四世のやうな男のゐる露台
                              マンゴーが手に収まれば沖を見る
                              活きのよきをんな西日に置いておく

                                   堀本 吟
                              愛てなに?梅雨の茸のじわじわと 
                              万緑やいきなり刺してきたりけり
                              椎の花無頼というに世も過ぎて
                              ほそき尾のこころぼそさや蜥蜴ゆく
                              瑠璃は識る音楽は識る蜥蜴の世

                                   筑紫磐井
                              カルピスをこぼして飲んで幼な恋
                                玉藻1000号記念祝賀会
                              諸兄諸姉祝辞は長し五月雨
                                鷹50周年記念祝賀
                              法王なりたし夏至の魔女の夜
                                俳句四季七夕会にて
                              七夕短冊 嘘がばれませんように



                              2014年7月11日金曜日

                              第78号 2014年07月11日発行

                              作品
                              • 平成二十六年花鳥篇 第七
                              黒岩徳将沙、汰柳蛮辞郎、北川美美   ≫読む

                              現代風狂帖

                              作品No.31 梨のかたちの空をとぶ    小津夜景  ≫読む




                              ●鑑賞・書評・評論・エッセイ 

                              【戦後俳句を読む】
                              • 我が時代――戦後俳句の私的風景 7.
                              ……筑紫磐井   》読む


                              【現代俳句を読む】


                              • <朝日俳壇鑑賞> 時壇 ~登頂回望 その二十三~

                              • <俳句時評>(「詩客」より)  詩人くさい俳句ってなに? 

                              ……財部鳥子  ≫読む

                              • <俳句時評>(「詩客」より) 村松友次(紅花)先生のことなど。
                              ……江田浩司  ≫読む


                              (前号より継続掲載)
                              • <俳句時評>川名大の殉じかた……外山一機   ≫読む
                              • <俳句時評>字余り・字足らず・言葉足らず(こもろ・日盛り俳句祭シンポジウム関連)
                                ……筑紫磐井   ≫読む
                                • 〈俳句時評〉 クプラスの第二特集にびっくりした……堀下翔   ≫読む

                                • <俳句時評> 五十句競作終了から30年目……北川美美 ≫読む
                                  • <俳句時評> BLOG俳句空間の歴史 ……筑紫磐井 ≫読む
                                    • <西村麒麟『鶉』を読む>15 幽霊飴 ……中山奈々 》読む








                                    • <「俳句新空間No.1」を読む>7  ……陽美保子   >>読む









                                    • <俳句評>(詩客より) 俳句と現代詩のあいだ ……宇佐美孝二   ≫読む 



                                    大井恒行の日日彼是       ≫読む
                                    読んでなるほど!詩歌・芸術のよもやま話。どんどんどんと更新中!!


                                    412日更新:筑紫磐井『我が時代』         》読む
                                    4月30日更新:仁平勝『路地裏の散歩者ー俳人攝津幸彦』 》読む 



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