独特のスタイルのある句集である。『鶉』は、作者にとっての「俳句」が芸能のニュアンスを含む「芸」に近いということにある。伝統芸能としての舞い、歌、地方、それぞれの芸には型があり熟練が必要である。麒麟俳句は、五七五のリズムを守ることに徹し、わかりやすい言葉で音韻にも無理がなく一句の仕上がりが至極すっきりしている。誰にでもできそうであるが、そう簡単にはできないのが俳句。「秘すれば花」の世阿弥の境地の上に麒麟スタイルがある。現代に生きる作者が、古典的な定型の中で遊んでいるというイメージである。
奥付の略歴に麒麟は、「俳句結社『古志』入会。長谷川櫂に師事」という明記がある。古い志と書く「古志」のモットー「古典によく学び、時代の空気をたっぷり吸って、俳句の大道をゆく」のスローガンがよくあらわれているように思う。結社所属の場合、第一句集は主宰の選を仰ぎ、主宰の「まえがき」が慣例のようだが、本人の「あとがき」もない作品のみを第一句集として読者にさしだしている。その真意は、自己の俳句のみを一人歩きさせたいという願望なのか。「古志」の俳句五箇条にある、「一、あとは存分にされたし」を具象化したのが『鶉』なのだろうと受け取っている。
作品一句一句に、現代性、世代性を大いに反映していることも特徴である。特に直接的感情表現〈好き〉〈大好き〉が世相を映しているように思えた。「好き」という表現は書けるようで書けない(と思う)。気前よく〈大好き〉〈心から好き〉と書けてしまう。句集内に四句ある〈好き〉〈大好き〉〈心から好き〉という表現は、傍目にみると、昨今のヒット曲が直接的表現でしか共感が得られないことと重なる。今後の詩歌の危惧であるのかどうかは、意見の分かれるところだろう。
絵が好きで一人も好きや鳳仙花
大好きな春を二人で待つつもり
昼酒が心から好きいぬふぐり
雀の子雀の好きな君とゐて
「好き」という感情の要を書くことにより、「好き」と言ってしまったもの勝ち。作者自身が誰よりも一番先に好きなものを獲得できると読者を諦め、納得させることができ、さらに道まで譲ってくれることができると思える。子供っぽい表現であることは確かだと思う。「好き」と反する「嫌い」にはたくさんの理由が並べられるが、「好き」という感情に理由をみつけることはなかなか難しい。「好き」という言葉に読者は屈服するしかない。男子が簡単に「好き」と書く、ノー天気さを句集に収録することにより、大らかで素直なイメージとなる。俳句という短い中で「好き」を言い切る。古典の中で感情を叫ぶことは、歌謡にあたり、芸能なのである。
「好き」を入れた俳句で思い出すのは、池田澄子である。
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
生きるの大好き冬の始めが春に似て
澄子俳句には、ただの好きではない〈好き〉、好きの反対の嫌いを考える〈好き〉が見え、屈折の構造がある。麒麟スタイルの〈好き〉は嫌いになることなんて考えていないと思えるし、〈嫌い〉になったら大変なのだ。〈大好き〉とくると、ふーん、と引いてしまいそうなのだが、どうでもいいといえば、どうでもよく、もとより〈嫌い〉になるところなど考えていない空気が、なんというか、面白いのだ。
しかし、〈好き〉といっても、〈ひとりも好き〉という孤独オタクの風情もあり、〈待つつもり〉と未確定な状況であるところに共感が持てる。〈待つつもり〉なのは相方の同意がとれていない、あるいは、〈ずっと一緒にいたいから結婚するつもり〉の告白のニュアンスとも読める。〈大好き〉と書けるなんて明るくていいなぁと思う反面、屈折した歌詞のヒット曲で育った私には、<好き>という直球がこんなに多くていいのかな、ということを考えた。
また〈叱られる〉〈楽しい〉〈怠ける〉〈ねだる〉〈もらう〉などの大人の幼児性を作者自身が楽しんでいるように思える表現は、世代的な反動とも感じられる。これも麒麟スタイルである。
虫売となつて休んでゐるばかり
叱られぬ程度の酒やちちろ虫
大久保は鉦叩などゐて楽し
この人と遊んで楽し走り蕎麦
冬の蠅怠けても良き時間あり
うつかりや鶯笛を忘れたる
陶枕は憶良にねだるつもりなり
端居して幽霊船をまたもらふ
作者の世代をみてみると、西村麒麟は1983年生まれで現在30歳。「就職氷河期」といわる「日本のロストジェネレーション世代」の最後の方に当てはまる。派遣労働やフリーターを強いられ安定した生活は望めない「諦めの世代」といわれている。懐古主義でもなく舶来主義でもない、新しい価値観を暮らしに還元していくことができる世代といわれている。一方では、いつまでも思春期が終わらない感覚があるとも。麒麟の俳句には怒りや悲しみ憂いは伺えない。「戦わない」姿勢が麒麟スタイルである。
「俳句は少年と老人の文学」といったのは、三橋敏雄である。青春性と死を除いた世代は何を詠めばよいか。思春期を引き摺っているような大人子供のような西村麒麟の句が存在するのも時代のせいである気がするが、それで大丈夫なのかしら、と不安になったりもする。俳句に時代の責任など何もないが知らず知らずに時代が写ってくる。しかし、麒麟スタイルに見るロストジェネレーション世代の諦めの象徴のようにも読み取れる句から、時代に対しての不安を抱いたりするのである。驚いたことに、春興帖での麒麟の投句は、まさに諦めの表現であり、面白い句である。
ぜんまいののの字の事はもういいや 西村麒麟 春輿帖より
世代的反映にも読める『鶉』は、西村麒麟自身の渡世術の現れであるのかもしれない。屈折していないのが麒麟スタイルでもある。だから楽しい。これが山本健吉定義の「軽い俳句」(出典「俳句とは何か」)だとしたら、いい俳句ということになる。芭蕉の晩年の「軽み」とも重なり、麒麟スタイルは老練な句ともいえる。大人子供のふりをして、さらに年寄りのふりもして遊んでいるのだ。まったくもって「古志」のスローガンの「俳句の大道」をいっているのではないだろうか。
また『鶉』が趣味性のある芸と感じられる理由に「地名」「食べ物」「擬態語」「固有名詞」の頻度が高いことがあげられる。麒麟の地名の句は日記俳句的な要素が盛り込まれているようだ。虚子の影響だろうか。地名の句は、思い入れのある「尾道」の句と思える句以外は、全国的知名度から読者にわかり易い地名、修学旅行で選ばれる地名であることが特徴である。ツイッタ―的なつぶやきにも似た日記俳句なところがいいといえばいいのだが、〈松島におぼろの島の二百ほど〉などば、誰でも知っている風景の説明に過ぎないところがあり、物足りなさを思うところもある。
上野には象を残して神の旅
鎌倉に来て不確かな夜着の中
江ノ島を駆け巡るなり猫の恋
おしるこや松島は今雪の果
燕来る縦に大きな信濃かな
松島におぼろの島の二百ほど
夕焼雲尾道は今鐘の中
擬態語にも独特の麒麟スタイルがある。
柿の秋どんどん知らぬところへと
よろよろや松の手入に口出して
ゆく秋の蛇がとぷんと沈みけり
凍鶴のわりにぐらぐら動きよる
うだうだと楽しき梅の茶店かな
お雑煮の御餅ぬーんと伸ばし食う
もし若い集団が「よろよろ」「うだうだ」「ぐらぐら」というのは締りがない。一時、高校生の制服の崩し方に男子はズボンをズルズルに腰でま落とし、女子はルーズソックスが全国的に大流行した。まさか西村麒麟の過ごした世代なんだろうか。調べるとルーズソックスが流行ったのは、1996-1998年で、まさに麒麟が思春期真っ只中の13-15歳の中学生時代。昨年あたりからルーズソックスが高校生の間でリバイバルの兆があるらしいが世代感全開のように思えるのが、麒麟スタイルである。面白いのだが、だらだら感のある面白みがあるが、そういうウケばかりでよいのか、という気がするところだが、まぁよいのか、と読者であるこちらも諦めの境地になる。
食い物、酒の句の多さは突出しているが、地名の句同様の日記俳句的な印象がある。多分、食べてみた、飲んでみた、という経験報告に過ぎない印象を受けるからだと思う。食い物・酒の句の麒麟スタイルについては、まだまだ食に対する味わいが足りないという気がするのだが、今後の作者の人となりに繋がっていくことだろう。
いきいきと秋の燕や伊勢うどん
この人と遊んで楽し走り蕎麦
ぜんざいやふくら雀がすぐそこに
あなご飯食うていよいよ初詣
鰆食ふ五つの寺をはしごして
鱧鮨の太きを一つ手土産に
夏の果さつと来る漁師飯
続いて収録配列について。句集の扉を開けると「秋」の稿として上記の三句が冒頭に配されている。句集を手にとった読者はまず瓢箪の国へ連れて行かれる。題詠の連続と思える配置が句集内に多数確認できる。
へうたんの中より手紙届きけり
へうたんの中に見事な山河あり
へうたんの中へ再び帰らんと
三橋敏雄『鷓鴣』の冒頭三句では、三鬼・白泉・敏雄のそれぞれの鷓鴣の句が配され風格と怖さがある。また山本紫黄は第一句集『早寝島』にて「早寝島」と下五に配した句を二頁二句配置とし三十句続けた。新興俳句にみる連作とも群作ともモンタージュ手法とも異なる山村暮鳥の〈いちめんのなのはな〉(タイトル「金銀もざいく」)のモザイク発想ともいえる配置である。
さて『鶉』の冒頭の「へうたんの中」の三句は意味、そして作者の句集がこれからはじまるエピローグのように三句でひとつの意味を持つように感じた。「へうたんの中」は、少年でも老人でもない西村麒麟の世界があり、西村麒麟の俳句の桃源郷へ連れて行ってもらえる期待感が高まる。三句という数はほどよい。筑紫磐井氏の呼びかけで開始した「歳旦帖」にはじまる俳句帖での句数にも一致し、句集の中での麒麟の芸として取り入れ、昇華されている気がするのは偶然ではない気がする。読み進めていく季節の稿に「虫」「柿」「鶴」「鶯」と同様の配置手法がみえるが、「へうたんの中へ」の扉の三句以外の連続俳句は中途半端な印象が否めなかったが冒頭以外の連続配列にある意図が読み取れなかった。
冒頭句にて「へうたん」の国にまず連れていかれた私は「瓢箪鯰」という言葉を想起した。とらえどころのないさま、また,そのような人をいう。まさに西村麒麟の様かもしれない。句集の中に期待していた鯰は出てこなく、こちらの勘は的外れとなったが、「へうたんの中」の麒麟の桃源郷はどこまでも続き、今後も私たち読者をその先へ連れていってほしいと願う。
上げたり下げたりアイロニーな見方ばかりだったので好きな句を掲出しておきたい。個人的には、麒麟スタイルの中でも古俳句の趣きのなかに、現代的感性が見える句、不思議さを探検しようとする眼で小さな命を讃歌する句が好きだ。芭蕉、蕪村はもちろん、虚子、長谷川櫂、筑紫磐井、八田木枯、攝津幸彦、阿部青鞋などなど、麒麟スタイルに影響を与えた作家が多数あるように思う。滑稽とも前衛ともとれる景がみえ巧妙な句が多い。
初めての趣味に瓢箪集めとは
ばつたんこ手紙出さぬしちつとも来ぬ
猪を追つ払ふ棒ありにけり
卵酒持つて廊下が細長し
仏壇の大きく黒し狩の宿
手をついて針よと探す冬至かな
初湯から大きくなつて戻りけり
ポケットに全財産や春の旅
それぞれの春の灯に帰りけり
春風や一本の旗高らかに
この国の風船をみな解き放て
かたつむり大きくなつてゆく嘘よ
玉葱を疑つてゐる赤ん坊
働かぬ蟻のおろおろ来たりけり
夏蝶を入れて列車の走り出す
どの部屋に行つても暇や夏休み
第一句集にて、自己のスタイルが確立され、〈好き〉な俳句をそのまま読者に投げかけた『鶉』は、羨ましい限りの句集である。まだまだ迷いが沢山ある自分の句のなんと小さいことか。今後の麒麟スタイルを楽しみにしている。
第一句集上梓そして芝不器男俳句新人賞・大石悦子奨励賞受賞お祝いを申し上げる。