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(デザイン/レイアウト:小津夜景)
短絡論的恋愛的 小津夜景
私はその人から目を逸らしました。何故なら私には「見る」といふ行為がまなざしとまたたきとを高度に駆使し、「ついさつき」と「今このとき」を重ね焼きすることだと分かつてゐたからです。
存在とは常に瑞々しく、光り輝き、そしてこれまで重ね焼かれ続けてきた無数の疵を持つてゐます。私は目の前のその人を美しいと思へば思ふほどその無惨な疵、果敢なく漂ふ筈の存在が刻印されんとして無理矢理「自傷」を強ひられてきた痕跡を直視するに耐えませんでした。
世の中を見ると、誰もがアウラを求めてゐるやうです。でもそれは本当に「一回性の光暈」なのでせうか? 私にはこのアウラが、この世の奇跡を死守したい人々によつてかけがへのなさを強ひられた「それ」の負ふ「無数の光傷」に思へてなりません。否、確かにアウラとは、他愛ない自然の流れによつて「それでない何か」へと成り変はることが決して許されない「それ」が、痛ましい価値梗塞に沈められる事件をいつでも示して来たのです。
或る「それ」から「それそのもの」のアウラを抽出する時、「それ」の「もの化」は抜かりなく終へられ、「そのもの」への通過儀礼を経た「それ」は、普く犯された偶像へと堕ちてしまふ。このことに気づいて以来、神聖さを巡るかくも無意味な暴力と決別する為、私は「物自体」が只の世界苦に他ならないことを心得ようと決意したのでした。え? 何の話かつて? 無論、恋愛ですよ。
ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵
うぐひすや異香来たりて泣きさうに
春燈を銜へたる夜の吐呑かな
おぼろよが何もない巣を抱いてゐる
つちふるやのうれんを割り賭場の鈴
曲事を為し半跏思惟的遅日
赤貝と来て人質を絞りあぐ
遣る文の下界に巨万引き鶴ぞ
重力のはじめの虹は疵ならむ
さへづりの降り置く不在メールかな
【略歴】
- 小津夜景(おづ・やけい)
1973生れ。無所属。
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