「どの部屋に行つても暇や夏休み」。前句同様、この句もまた楽しくとぼけた風刺がほどよく利いている。そして二句ともに現代感覚の俳味にあふれ、淡々と詠むその奥に麒麟さんの素顔がかくされているような気がしてくる。
その一方で意外や意外、はっと驚かされるような麒麟作品に出会うときがある。その好例句が「冬ごもり鶉に心許しつつ」である。前出二作品とはいかにも対照的で、視線を句に置くだけで、静かなぬくもりにつつまれた渋い味わいに引き込まれてしまいそう。「鶉」のことばの響きが絶妙なまでにあたたかくすんなりと懐に飛び込んでくるようだ。
だが本句集『鶉』を読み進めていくうちに〈意外や意外〉と勝手に受け止めていたその思い込みが大きな見当違いであることに気づかされる。意外どころか、これこそが麒麟さんの発する十七音の源流そのものであることがはっきりと見てとれるのである。なんという嬉しい裏切り行為であろうか。句集『鶉』のかなでる時間を作者と共有したとき、穏やかなせせらぎが心身に溶け込むような安らぎを覚えてしまう。
柿の秋どんどん知らぬところへと
一人は寂し鹿が立ち鹿が立つ
永遠の田園をゆく冬の蝶
あくびして綺麗な空の彼岸かな
端居して幽霊飴をまたもらふ
冷酒を墨の山河へ取りに行く
笑顔を絶やさない麒麟さんがふいに黙りこむ。そんな表情を一度だけ眼にしたことがある。にぎやかな二次会の席だから酒量もハイピッチで進んでいたのかもしれない。だがいつもなら酔うほどに笑顔が満ちて、舌も滑らかになるはずの彼がその時ばかりはまるで別人のようであった。その表情はほどなくして波が引くように消え普段の笑顔に返ったが、一瞬垣間見た沈黙の影にしばし言葉を失った。
揚句、実体感と透明感の交差したような余情をたたえている。こうした作品に出会うたびに、あの席で見せた彼の表情がふっとよみがえり、不安と安堵の思いに駆られるのである。
美しきものを食べたし冬椿
鶴引くや八田木枯なら光る
鶴の句が鶴になるまで唄へけり
鶯を鶯笛としてみたし
天上へ鶯笛は届くかな
麒麟さんが八田木枯氏に私淑していたと知ったのは、氏がこの世を去ってからのことである。『鶉』の集中には八田氏の死を悼む作品が何篇も収められ、その一句一句に自然と眼が留まる。八田氏の存在、そしてその足跡から学び得た教えはいまなお麒麟俳句の糧となりその源流を力強く支えているように思えてならない。源流は何本もの支流を生み出しながらおおらかにゆったりとどこへ流れてゆくのだろうか。
たましひの時々鰻欲しけり
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