18.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
the Letter from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi .
論争が「評論を誰かが読んでいる」ことのネガティブな証拠であればこそ、なのですね。よく分かりました。論争に変わる何かがあればそれでよい。その何かを考えるのはひとまず置いて、BLOGの批評の話になったので、そちらのことをもう少し聞いておきたいと思います。少し話が離れてしまうかもしれませんが。
このところ短詩界隈で俄かに人気の沸騰している
柳本々々が、ブログにこんなことを書いています。
わたしは毎日バックナンバー(堀下註――週刊俳句の)を読み進めているのですが(そのあいだに『週刊俳句』はわたしをおいて未来にどんどんすすんでいくのですが)、週刊なのにこんなにも長く続けておられるのがすごいなあと率直におもうのです。わたしが図書館で閉館まで毎日本を読んでいたときも、寝込んでなにもせずにつっぷしていたときも、ふらふらとチョコレートをかたてに夜の街を遊び回っていたときも、終電のおわってしまった駅の階段ですやすやしていたときも、『週刊俳句』はずっとそしらぬ顔で続いていたのだなあとおもうと、ほんとうにすごいことだって素直におもうんです。(『あとがき全集。』2015/02/18 21:07更新分〈【お知らせ】「夢八夜 第三夜 本屋で鮫じゃんか」『アパートメント』〉)
柳本々々がこのような形で記した「
週刊俳句」を読む気分というのが僕にもよく分かるんです。電車の中だとか、本を読むほどでもないけれど時間のあるときだとか、そういうときに週刊俳句に限らずBLOGの批評をさかのぼっては読んでいます。読んでも読んでも読み終わらない。こと僕の場合、作句開始の2012年以前にまったくそれらを読んでいないことも大きいのですが、すでにして巨大化しつつある過去の評論に圧倒されます。その時々の勉強会や書籍に色々な人が言及していて、自分はそれを過去のものとして読み、楽しむ。まさしく「アクセス」という感じです。
BLOG批評の醍醐味はこんなところにある気がしないでもないのです。その時々において何が話されていたか、という点が空気感としてある。時評的文章に限りません。このところ週刊俳句は
八田木枯や
今井杏太郎をよく取り上げています。もちろん運営者とその人との関係性はあるにせよ、記事になればそれがきっかけで読者も増えるでしょうから、あとからこれらの記事を読んだ人は「ああこの時期には木枯や杏太郎が読まれていたんだな」ということを感じるわけです。
このたとえを挿入する必要があるかは自分でも疑問ですが、思いついたので言えば、BOOKOFFの品ぞろえを思い出します。BOOKOFF台頭の時代の子なものですから、小学校のころから本を読みたくなったらここに通いました。それで、さいきん気が付いたのですが、わずか数年のうちにどの店舗でも品ぞろえががらっと変わっているんです。僕が中学校にいた2000年代後半、BOOKOFFには
かんべむさしや
豊田有恒、横田順彌が置いてありました。ところがここ数年の間にこういった作家はほとんど並ばなくなってしまった(ように思われる)。新しい本ばかりが並ぶようになったわけではなく、同じ時期の本であっても相変わらず出ている作家はいるのです。売られなくなった、並べられなくなった、残らなくなった、いずれのプロセスを経たのかは知りません。ただその時代時代において、新刊でなくとも読まれない作家/読まれる作家がいるのだとBOOKOFFで学びました。
誰が読まれているのか、という時代の空気感をとどめる役割をいまBLOG批評はになっているのではないか、と思います。総合誌も、結社誌も、そういうものはになえるし、あるいはになっていた時期もあるのは承知ですが、BLOG媒体のアクセス性はそれらを凌駕しているように思われました。
と、評論とは何か、という話からはそれてしまいましたが、そんなことを思いました。
19.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
the letter rom Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita,Yuki
時代の空気というものはなかなか見定めがたいものがあります。ちょっと前のことですが(堀下さんが俳句を始める以前のことでしょうが)、週刊俳句等で「
サバービア(郊外住宅地)な俳句」が提唱されちょっと話題になったことがあります。
榮猿丸氏が発端ではなかったかと思います。何か時代をつかんでいるように思われたのですが、それがどのように定着したのか、あるいは
猿丸俳句などを論じるときに、これはどのような痕跡を残したのかは分からなくなっているように思えます。多少の論争もあったように思いますから、その意味で「読まれた」ことは間違いないと思います。ただ、時代に対する感度が大事だということは言うまでもありませんが、もう一つどのように定着するかということも不可欠のように思います。定着するかしないかは、それぞれの作家が持っている人生観、まあそれが大げさであれば、ある文学や言葉に対する体系とどう呼応するかではないかという気がします。
以前堀下さんが言っていた(
連載⑥)「人間探究派」、あれが定着するための条件を、あの時代の精神の体系で考えてみる必要があると思うのです。
*
それよりなにより、このところ色々取り紛れて、BLOGはもとより余り俳句雑誌を読む時間もなかったのですが、たまたま
「俳句」3月号で
関さん(編集部注:関悦史)が拙著『
戦後俳句の探求』を紹介してくれているのを読みました。拙著そのものというよりは、私と
川名大氏との違いを指摘して、川名氏は近代文学の立場にたった「俳句表現史」、筑紫は近代文学的価値評価とは必ずしもかかわらない「詩学」の立場に立つと紹介しているのが面白かったです(ついでながら川名は、90年代の近代文学の終わりとともに取り上げるべき新作句を見失う、と書いています)。成程そう言う面もあるかも知れませんが、俳句史を書く以上前提となる詩学があるべきでしょうし、抽象化された詩学にはその背景に具体的な俳句史観が存在しているでしょうから、そう厳密に切り分けるわけにはいかないかもしれません。
川名氏がいかなる詩学を持っているかは自ら語るべきでしょうが、私の場合は、
金子兜太の史観をかなり下敷きにしていることは言ってよいかも知れません。「造型俳句」論で兜太は、俳句史では諷詠的傾向と表現的傾向の対立があったと見ています。諷詠的傾向に
「花鳥諷詠」(虚子)や
「人生諷詠」(波郷)があり、表現的傾向に
「象徴的傾向」(楸邨・草田男)、
「主体的傾向」(誓子、赤黄男、三鬼らの新興俳句)があったと見るのです。以前から素朴に思っていた感想、戦前の新興俳句と人間探究派(ある時期からの波郷は除きますが)の本質はそれほど変わらないのではないか、戦後の
草田男と
兜太は実は瓜二つではないか、の答えが、これによりぴったりとした回答を得られることになったように思いました。言ってしまえば、
虚子・波郷に代表される伝統派と、
草田男・兜太の反伝統派の2軸で俳句史を読んでもいいのではないか。その根拠を「造型俳句」論は与えてくれたのです。兜太にすれば、新しい俳句は常に反伝統派から生まれ、かつ、一層新しくなるためには前の反伝統派を乗り越えなければならないから「造型俳句」を唱えた、と見るのが妥当でしょう。ですから
兜太は、独自の史観に基づいて、自分の居場所を定めたことになります。
しかし、言っておくべき事は、この立場に立つ以上、それぞれの詩学が他の詩学を否定する根拠はありません。花鳥諷詠の詩学は、造型俳句の兜太の詩学(兜太の場合は『短詩型文学論』で集約されたと見てよいかも知れません)を否定するものではありません。逆もまた然り。勝敗は詩学ではなく、その詩学で生まれた作品が決めるものであろうと思います。ですから、進化論的な一本調子の俳句表現史について私はかなり懐疑的です。花鳥諷詠はダメだといいつつも、ある日、ある一句によって、花鳥諷詠が傑出した理論になる可能性を秘めていることもあると思います(もちろん可能性だけです)。実は豪放磊落に見える兜太にも案外こうした謙虚さがあるように思うのです。
堀下さんの最初の
連載④で俳句史に関する話題があったので、ふと思い出して、書いてみたくなりました。私の場合は、なかなか同じテーマでやりとりするタイプではないので話題が飛びますが今回はこんなことでお答えしておきます。