辻村麻乃さんの第二句集『るん』が完成した。筆者は以前、麻乃さんの第一句集『プールの底』を拝読。
裸子を追いかけ雲のタオルかな
猫と言ふあだ名の子です猫の子は
をかしくてをかしくて風船は無理
湯気立てて母から私になる時間
といった作品に触れ、その豊かな感覚と詩情にいたく心惹かれたものだった。満を持しての第二句集。心躍らせつつ、じっくりと読ませていただいた。
まずは、麻乃さんならではの朗らかな生活詠の数々。
雨後の空掌ありて暖かし
上五「雨後の空」で切る読み方もあるだろうが、筆者は切らずに読む。雨上がりの空自体に「掌」「掌の温み」を感じるということ。「掌のやう」ではなく「掌ありて」としたところにすこぶる共鳴。嬉しくなる一句だった。
春の菜がドアスコープの一面に
自転車の籠に溢るる春の菜
「ドアスコープ」「自転車の籠」を介すことによって、春野菜の瑞々しさ、鮮やかな色合いがさらに際立ってくる。作者自身の日常の清々しさもまた際立つ。
たましひは鳩のかたちや花は葉に
一読、「たましひ」が鳩の「かたち」であるという捉え方に唸らされた。葉桜になってゆく、その清新な空気に包まれての上五中七に確かな実感あり。鳩のあのピュアな眼差し、所作が浮かんでくる。
何処からか歌声聞こゆ雛納
アネモネや姉妹同時に物を言ふ
をぢさんの顔をした猫秋愁
隣合ふ見知らぬ人やホットレモン
湯気立ててふつと足指戻りくる
北吹くや一本気なる卵焼
そんな朗らかな穏やかな日常の中でふと立ち止まる緊迫のひととき‥‥。全くの異世界への入り口がいきなり現れるから、読んでいて油断できない。たとえば、
雛の目の片方だけが抉れゐて
砂利石に骨も混じれる春麗
午前二時廊下の奥の躑躅かな
路地裏で怖き神輿を見てしまふ
血痕の残るホームや初電車
夜学校「誰だ!」と壁に大きな字
この「誰だ!」、作者にも読者にも強く訴えかけてくるかのようだ。老若男女、様々な境遇の人間がおのおのの意志を持って集う夜学校。壁に記された「誰だ!」という問い掛けは、他者のみならず、記した者自らに向けてのあらためての問い掛けなのかも知れない。
鮭割りし中の赤さを鮭知らず
この句も、作者のある種の自戒、自らへの問い掛けのように筆者には感じられた。
また、この句集には何がしかの欠落感、満たされぬ思いを表白する作品も数多い。ただの呟きではなく、一句一句きちんと詩として昇華されているので、すっと作者の感情の中へ入っていける。
想ひ人と会はざり桜蘂降る
言ひ返す夫の居なくて万愚節
肯定を会話に求めゐては朱夏
夏帯に渡せぬままの手紙かな
私小説受け入れられぬままに解夏
鰯雲何も赦されてはをらぬ
おお麻乃と言ふ父探す冬の駅
「おお麻乃」の「おお」の響きから汲み取れる娘への思いの丈。そして作者が父を迎えに行った「冬の駅」。それは作者の思い出の中の駅、あるいは作者の心の中の無人駅であろうか。
鞦韆をいくつ漕いだら生き返る
ぶらんこを漕ぐうちに蘇ってくる父とのあれこれ。まるでタイムマシンのようなぶらんこの揺れに身を任すひととき。その切なる思いが読者の胸に沁みる。
そして家族、家庭を詠んだ作品群。
家族とも裸族ともなり冷奴
農夫の手受け継ぐ夫と墓参かな
娘てふ添ひ難きもの鳥渡る
小春日や陶器の家の灯りたる
家族皆元に戻れよ冬オリオン
冬満月今度は主婦になりたまへ
この句、何故か強く印象に残った。気高く寒空に浮かぶ月に向かって、主婦としての起伏ありの日常を体験してみろと言い放つ‥‥その立ち姿に圧倒された。
麻乃さんは現在、お母様の岡田史乃さんと二人三脚で俳誌「篠」を運営しておられる。何かにつけ行動を共にする母‥‥その母の日常もひとかたならぬ情愛と誠実さをもって詠まれている。
花篝向かうの街で母が泣く
春昼や徒歩十分に母のゐて
振り向きて母の面影春日傘
母からの小言嬉しや松の芯
帰りたいと繰り返す母冬夕焼
この句集『るん』の表題句となった次の句。
鳩吹きて柞の森にるんの吹く
柞の森といえば秩父神社の「柞乃杜」を思い出すが、「柞」という言葉自体、「母」と同音を含むため、和歌の世界では古来より母の意にかけて用いられてきた。「るん」とは、風であると同時に、たとえば溢れる母性の表われなのかも知れない。
生きようと思へば窓にカーネーション
母の娘として、そして一家の中の母としての自らの在りようをカーネーションに託して表白。
カーネーションの鮮やかさに、さらにもう一歩の力が湧いてくる。その一方で、
ポインセチア抱へ飛び込む終列車
一人の女性としての新しいドアへの興味も決して薄れてはいない。終列車はまさに最後のチャンスであろうか。ポインセチアに込められた熱き思い‥‥。
俗に「玉のような赤ちゃん」という表現がある。その「玉」の部分を残したまま成長し、少女になり、大人になり、妻となり、母となり‥‥。麻乃さんが守り通してきたその玉の質感が、この一冊の句集に見事に活かされていると筆者は感じた。その質感に『るん』という句集名も十分添うように思う。
飲み干すは映りし月と来し方と
俳句作家としての、逞しく生きてゆく一人の女性としての麻乃さんに、これからも期待するところ大である。
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