2014年2月14日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む3】 心地よい句集/樋口由紀子


 嫁がゐて四月で全く言ふ事なし

なんともうらやましい。

 昼酒が心から好きいぬふぐり

なぜ、そういうことになったのかはさだかではないが、麒麟くんと二人で大阪見物をしたことがある。それについては麒麟くんがスピカの「きりんのへや」でくわしく書いたのでくわしくは書かないが、そのときの感想を一言で言えば、麒麟くんはいまどきの若者風でなく、かっこつけなかった。彼は自分の中にないところをさもあるように見せるとか、あるいは自分の中にないところのものを持ってこようとはしなかった。

お昼に何を食べたいかと聞くと大阪なんばの自由軒の名物カレーをと言う。織田作之助が毎日通って食べて「夫婦善哉」の構想を練ったと言われるカレーライスである。混ぜカレーご飯に生卵がのっているだけのもので、20代の男性があえて食べたいと思うものではない。ええと思った。
次に法善寺横丁に行きたいと言う。そこで「行き暮れてここが思案の善哉かな」の織田作之助の句碑を撫でて、感慨に耽るのである。ああと思った。

麒麟くんとは会ったこともないし、性別も違うし、まして年齢も30歳以上離れている。ちゃんと案内できるだろうか、会話が途切れたらどうしようとか、会う前はいろいろと心配した。しかし、すべてが取り越し苦労だった。一緒に行動していて楽しく、会話も弾み、なによりも心地よかった。彼はええかっこもしないし、背伸びもしない。自分の好きなものには正直に関心を示し、ダメな部分はダメなままに、無理をしないでありのままの自分を見せる。そして、順序立てた行動をとる。

それらは『鶉』にも表れている。自分のなかにあるもので俳句を詠んでいる。正直で穏やかで、しかし頑固な麒麟くんが照れながら、それでいてしゃきっと句集の中で立っている。会ったときの印象と同じで、読んでいて心地よい。よほど俳句が好きなのだろう。そうでなければ、これほど親密に形式と馴染むはずがない。俳句の総合力が備わっているのだろう。ぴったりと寄り添って、俳句に守ら、俳句を守っている。

手をついて針よと探す冬至かな 
はねあげるところ楽しき吉書かな 
福笹の鯛がおでこにあたりをり 
困るほど生姜をもらひ困りけり 
冬帽や君昔から同じかほ 
昼酒が心から好きいぬふぐり

あたりまえに身近にあったものに直接手を触れた感じがする。あっ、そうか、こんな手触りだったんだ。頭で知っていたのとは微妙に違う。もっと触れていたくなるような気になる。すでに知っていた気もする。思い出したような気にもなる。

何でもないことである。どこにでもある、ありふれた日常を素直にいいとめている。しかし、こうして一句になると、何でもないことは実は何でもないのでないと気づかせてくれる。何でもないことなんてないのかもしれない。彼はそのことをしっかりと気づいている。だからこそ、見えてくるものがあるのだろう。

虫籠に胡瓜が入るほどの穴 
絵屏風に田畑があつて良き暮らし 
はや船の行き交う島や大旦 
紙切りの鋏が長し春動く 
鶯が太つてゐたること楽し 
紙箱に鶯餅やちよんちよんと

わざわざ、取り立てていうほどことがないと思うことを句にしている。偶然みたいに書いているけれど、偶然ではなく、選択している。ふと自分の目に入ったものを取り入れて読んでいる。ただそれだけなのに、意味をわざわざ自分で言ってないのに、不思議なほどに景が立ち上がり、書かれた以上のものを読み手に引き渡す。

形式にあまりに馴染んでいて、物足りないと思う句もあるが、川柳にはあまりない何かやわらかく存在している。最後に私の『鶉』のベスト5。

跳び跳ねて鹿の国へと帰りけり 
猪を追つ払ふ棒ありにけり 
ゆく秋の蛇がとぷんと沈みけり 
途中まで鶴と一緒に帰りけり 
節分の鬼の覗きし鏡かな




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