なお、併せて、結社の主宰の選もなければ推薦もなし、たぶん結社誌「古志」では特集もやってくれないだろうから、「BLOG俳句空間」で特集を行うことにした。BLOGでこうした句集の特集を行うことは少し筋が違うのではないかという意見もあろうが(既に「詩客」で御中虫特集をやっているという先例はあるが)、こうした、結社とは無関係に出される句集が増えることは、結社にまぎれないことを本意としている「BLOG俳句空間」の趣旨にはかなうものと思って実行することとした。結社の主宰者たちはこの半分冗談を分かってくれるだろうか。
西村麒麟を意識したのはその卓抜な批評によってである。短いのはまだ許せる、中に明らかに嘘が混じっているのは、伝統俳壇の風紀倫理委員会に叱られそうだ。しかしどんな人が読んでも嘘と分かる嘘であるから(あるいは信じたとしてもオレオレ詐欺と違って誰も被害を受けないのだから)犯罪と呼ばれることはないだろう。特に、作品にフィクションが許されるのに、批評にフィクションが許されないはずはない。大いにうそつきとして頑張ってほしい。
しかし今回はそうした批評ではなくて作品だ。以前、麒麟は、作品より批評の方が後世に残ると言ってしまったので、句集が出たところですこし彼をねぎらっておきたい。
この人と遊んで楽し走り蕎麦
これは私のことを詠んだ句だと思われるので、遊んであげないわけにはゆくまい。しかし、「この人と遊んで楽し」と「走り蕎麦」はあまりにも予定調和であるように思われる。ましてモデルが本当に私であるとすれば、このそばは「モリそば」をただちに連想してしまうであろうから、安直と言えなくもない。作者のためには取らない句である。ちなみに作者は私にメールをよこすたびにお酒飲みましょうよと誘う。私も、いずれ乃木坂にお店でも持てたらといいまぎらわしているのだが、なかなかその日は来ないようだ。
それはさておき、本人のためにはあまりこうした句は取りたくない。むしろ次のような句を推奨しておこう。
闇汁に闇が育つてしまひけり
社会にとんでもなく恐ろしい怪物が育ってしまう、そんな現代を比喩で詠っている。もちろん、麒麟も伝統俳誌「古志」の怪物のようなものであるのだから抽象的自画像と言ってよい。
大好きな春を二人で待つつもり今年の新婚(新妻は厚子さんといい、この句集の発行人である)の正月を詠んでいるのであるが、余りにものろけ過ぎているのでここでは評さない。悪いわけではないが、新婚新居に穏やかな正月の朝訪れるのも野暮だろうと言う親切心からである。
どの島ものんびり浮ぶ二日かな淤能碁呂島(オノコロジマ)は日本で最初の島、これにならぶのが、阿波島、阿遲摩佐能島(『古事記』による)。のんびり浮ぶとは領土問題で紛糾していないと言う意味に現代は解釈すべきであろう。後ほどに、「松島におぼろの島の二百ほど」もあり悪くはないが、こういう句は実体がはっきりしない方がよろしい。句合わせをするならこちらが勝ちだろう。
初湯から大きくなつて戻りけりこれはいい。不思議の国のアリスが、日本にやって来たようで、まるで「テルマエ・ロマエ」だ。
紙切りの鋏が長し春動く何でか分からないがよろしい。近代を超克している。「春動く」が動きようのない非季語だ。
あくびして綺麗な空の彼岸かな
こんな感覚の麒麟がいとしい。だから私は、愛情をこめて「麒麟め」と呼んでいるのだが。
学生でなくなりし日の桜かなこんな言い方が成り立つのが不思議だ。一昔前なら「校塔に鳩多き日や卒業す 草田男」。これを意識しているのだろうが、今の学生はこうでなくてはならない。
かたつむり東京白き雨の中まるで龍太。句の全要素がすべて龍太の好みばかりが並んでいる、龍太はいつよみがえったのであろう!
涼しくていつしか横に並びけり少し龍太。ただ龍太はあまりこうした切字は好かないので、途中で波郷に寝返った感じがしなくはない。
冷麦や少しの力少し出す私の作品がヒントになっているようだが、モリそばでないこと、また人を揶揄していないのがいい。前にも述べたように私に私淑しているようなのだが、これは決定的に私と違うところだ(厳密には、「私淑」とはひそかにその人を師と考えて尊敬することで、近頃の若い作家たちが、会ってしまっている人を公然と私淑しているといったりするのは無知の証拠である、と某俳句商業誌の編集長が言っていた)。
香水や不死身のごときバーのママまるで、楠本憲吉。こういう趣味の人が最近は減ったから懐かしい。しかし、こうした俳句世界を維持するためにはお金がかかることに注意しないといけない。
* *
以上、西村麒麟風に2、3行で評して見たが確かになかなかに難しい。麒麟の評のスタイルも一つの芸だと理解できた。
最後にまともな文章を書いてみる。明らかに麒麟は斜視的な態度から俳句をスタートさせている。
それは次のような句から明らかである。
絵が好きで一人も好きや鳳仙花
初雁や野菜どつさり持ち帰れ
それぞれの悩み小さく鯊を釣る
ばつたんこ手紙ださぬしちつとも来ぬ
鎌倉に来て不確かな夜着の中
冬帽や君昔から同じかほ
江の島を駆け巡るなり猫の恋
嫁がゐて四月で全く言ふ事なし
しかしここからは虚子には近づけても、新しい麒麟の俳句世界は生まれてこないように思う。もちろん、第1句集にこれらの句を入れてみることは悪くはない、第2句集でこれらの残り香は当然なくなるであろうからである。青春の彷徨、若気の過ちである。また、今回、主宰の選もなく推薦もない句集を出すにはこれぐらいの照れ隠しをしないでは出しにくいことも承知している。考えても見るとよい、もしも巻頭に大々的な文学的序文を掲げていたら、水原秋桜子がホトトギスに造反した時に書いた「自然の真と文芸上の真」(「馬酔木」昭和6年10月号)に匹敵する大事件となってしまうだろう。だからほどほどがいいのである。
しかし、これからの麒麟の行く先は、それであってはならないと思う。多少冗談めいて書いた先の批評はかなり本気である。麒麟の行く先はかくあるべきであろう。
その一方で、その中に見た龍太・健吉の模倣のようなものがあってもよいのではないか。模倣とは言語の力である。それを余儀なくさせる言語の力である。言語の力を借りない詩など無に等しい。模倣とは独創とは同じぐらい詩人には親しいものだ。大事なのはそうした自覚をすること、無意識の模倣こそよろしくないのである。
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