ことばの空白地帯
「英語には、肩こりっていう言葉がないんですよ」
と教えてくれたのは、米国暮らしが長いバイリンガルの日本人青年だ。言葉がないと肩こりという症状すらがそもそも存在しないかのようで、アメリカ人は肩こりになっても気づかない(自覚しない?)、少なくとも痛くなるまではその症状を意識しない、と言う。
このように、ある言語とある言語は、決してすべてが等しく結ばれてはいない。例えば、英語ではよく使うけど、日本語にはそれに該当する一語がない、という単語がある(reslient、accommodateなどがそうか)。そういう単語は、日本人には覚えにくく、言われてもニュアンスを掴みにくく、自分でも使いづらい。いわばそこに〝ことばの空白地帯〟が露わになる。
逆も然りで、日本語の側で思いつくのは「お世話になります」「よろしくお願いします」「しょうがない」の三つだ。これらに該当する簡潔な英語の言い回しはない。たぶん、「肩こり」に気づかないみたいに、これらの三つの概念をほとんど使わずに英語圏の社会は回っている。そう思うと、日本の社会は逆にこの三つの概念を潤滑油のようにして回っている気もするのが、興味深い。英語と日本語を通して見える社会の景色はそれぞれ異なる。
〝日本語の力〟といった言い方は美化されがちだが、僕は日本語には、英語にはないひとつの〝悪しき力〟があると思っている。それは、言葉を使うことが常に人間の上下関係を意識させる、ということだ。英語には「ためぐち」という概念がない。英語はいわばすべてが「ためぐち」の言語だからだ。ある翻訳家は、登場人物が「ためぐち」を使われたことへの怒りから話が展開する、という日本の小説を英訳するのにたいへん苦労した、と語っていた。英語圏の大学では、教師も学生同士も、立場や年齢に関係なくみなファーストネームで呼び合い、「先生」「先輩」などとは呼ばない。
英語の特徴であるフラットさは、社会のフラットさとして現れる。英国の現地小学校の卒業式に出た時に、司会もなく校長先生が自ら「Hi, everyone!」と気軽に会を始めたのに驚いた。日本だと、司会がいて「それでは校長先生のお言葉をいただきます」と恭しく始めるだろう。その現地小学校には「校長室」もなく、校長先生は他の教員と机を並べていた。
政治の場でも似た風景を見た。英国のジョンソン首相は昨年の一時期、コロナ対策でほぼ毎日夕方にテレビ中継の会見を開き、司会抜きで記者たちと質疑を交わした。一方の日本は、首相会見も司会が恭しい感じで記者会見を進行した。その対比を見ながら、人が使う言語とは、我々が思う以上に、社会の風景や肉体の風景を隅々まで規定するのだと感じた。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2022年1-2月号より転載)
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