2019年10月25日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉒  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(1)
【シベリア抑留体験(2018・5・2取材)】その2


 1945(昭和20)年、終戦の時は20歳だった。抑留生活でも作業班長の役目は継続された。ロシア語を覚えてロシアの現場監督と仲良くなるのも大切な仕事であった。スプラスカという成績表の点数の評価を上げてもらうために、酒や女のことで話を合わせた。自分の班は常に75点の評価を貰い、他の班長から羨ましがられた。ほかの班は皆50点位で有ったから。
 ノルマの作業が終わると虱とりをした。服の縫い目にびっしり詰まっているので、木の棒でこそいでつぶしたが、それでもすぐについてくるから、取っても無駄だった。
皆、栄養失調になった。食物は横流しされたので、常にみんな飢えていた。黒パンの分配では、白樺の秤を作って切るのだが、パンを切るときには棚になったベッドの上からの皆の眼差しが痛く感じた。
 春には、仕事中に木の根を掘って、茸を集めて食べた。
 その時の軍医さんは長野県の大町の出身で、毒の食べ物の情報を知らせてくれた。しかしその軍医さんも医務室に駆り出されて、凍傷になった人の切断の仕事に就いた。
 作業は、38度以上の熱があると休めたが皆、体温計をペチカで温めるから壊して、すぐにばれてしまった。
 トイレは、深さ2メートル以上掘り細い丸太を4~5本渡した物である。冬には用を足すところから凍り、それがだんだん積もって鍾乳石のようになるので、便所当番が壊してモッコを使って運ぶのだが、しぶきが服に着きペチカで蒸されてとても臭くなった。
 赤化教育の中で成績が良いと早く帰還できるという思い込みもあり、それによる妬みから密告が日常化していった。日本人同士の噂話は、最も警戒するところとなった。
 1947(昭和22)年頃から病人が日本へ帰還した。1948(昭和23)年からは健康な人も帰還できるようになった。1948(昭和23)年ごろ帰還の時が来た。日本に帰ったらダモイ指導者になると言われもしたが、乗船前に医務室の仕事を手伝うことになった。医務室には栄養失調でやせ衰えた人や浮腫んで顔がぱんぱんになった人の介護を手伝うことになったため他の人と一緒に帰ることが出来ず、一船遅れることになってしまった。
 帰還船の中で靴を片方盗まれてしまって困っていると、船長が船倉に保管されている靴の山に連れて行ってくれた。それは、船には乗れたが船の中で死んだ人たちの靴であった。船長の話では、船の上での仲間割れで日本海に投げ込まれた人の物も混じっていたという。
 1948(昭和23)年、8月興安丸で舞鶴港に着く。興安丸へ港から艀が迎えに来た。桟橋はゆらゆら揺れていた。舞鶴の援護局において、米軍の日系二世の兵士から、赤化教育を受けていることや戦争中の職名について調べられた。人によっては、東京で再調査を受ける人もいた。
 日本に帰ったらシベリアの事は、話してはならないと思っていた。
 帰国後、国鉄に就職し電車のバッテリーを保全する仕事をした。
しかし、当時労働調整と言った赤狩り(レッドパージ)により、シベリア帰りは首にされることが多く、石涛子さんも25歳で首になった。この出来事は、本当に悔しかったという。
 その時養母は、友人が運送会社を経営していると言い、そこへの再就職を勧めてくれた。
石涛子さんは養母について、とても人柄がよく尊敬していると話された。
トラックの運転免許を取るのは、戦地で車の運転をしてきたので問題は無かった。
 常に自分のことは、しゃべらないようにしてきたのだが、そこでも人の噂になったのか、労働組合を作らなければならないので、組合長をやって欲しいと頼まれてしまった。
 松本電鉄社長が、タクシーもするということでここでも昔のことを調べられていて、組合長をした。
 1960(昭和35)年、安保の時代。社会党系の組合だったので、デモ参加者の送迎をした。仕事が終わり、人数割り当ての指示があるとデモ参加者を乗せて東京に向かった。
 1960(昭和35)年6月15日、樺美智子さんが亡くなった時も、同年6月19日、岸伸介総理大臣が国会からヘリコプターで脱出した日も送迎のためにデモの会場に居た。子育てをしたこの時代は、シベリア抑留時代と同じように苦しかった。
 帰還後も石頭子の名前で俳句を続けてきたが、友人である中島畦雨さんの俳句会が浅間温泉で句会をした時に、相撲俳句で1等になった。この時に周囲から俳号を変えてはどうかと言われ、石涛子としてはどうかとなった。石涛子は、広辞苑を引くと中国の画人であると話される。
 初めは、「一時間だけだからね。」とおっしゃられていたが、二時間半に渡り、お話を伺い別れ際に、筆者が父のために詠んだ拙い句を読んでいただいた。すると石涛子さんから「この句に力を貰って、またこれからも抑留の俳句を詠もうと思うよ。」というお言葉を頂いた。
 そして、石涛子さんの句集「俘虜語り」にサインをお願いすると、少し照れながら「尚生きむ」の添え書きとサインをして頂いた。
 迎えに来た、娘さんに挨拶をすると同年代ということで、「もう1人、娘ができた。」と言っていただくことができた。
五月の塩尻駅の空は、雨を含み暮れかかっていた。
 (つづく)

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