2018年1月26日金曜日

【俳句四季2月号】俳壇観測181:二つの大雑誌の終刊――高齢俳人の人生設計こそ俳壇の課題  筑紫磐井

「海程」の終刊
 金子兜太(98)が「海程」を終刊させるという話が出たのは平成二九年の五月のことであった。創刊は昭和三七年四月、当初は同人誌であったが兜太の主宰誌となり、造型俳句・前衛俳句の中核として戦後俳句を代表する雑誌として、創刊以来五五年を経過する。今回の終刊の前後の経緯は「海程」の読者以外よく分からないところがあるので、同誌の編集後記からクロニクル風に眺めてみよう。
 平成二八年一月の東京例会で金子兜太が「白寿で海程主宰を辞する」と発言、このため〈近いうちに海程はなくなる〉いう噂が立ち、驚いた兜太は二月の例会で「白寿で主宰の座からは降りるが、海程は存続する」と修正した(四月号)。この後いろいろな意見が寄せられたようだが(二九年五月号)、遂に二九年五月の海程全国大会で金子兜太から「三〇年八・九月号で「海程」主宰を引退する。「海程」誌も終刊する」と発表された(六月号)。この劇的なニュースは、たちまち全国版の新聞各紙にも掲載された。直後その時の大会での配布文が「急告/二〇一八年九月(八・九月合併号)をもって、「海程」を「終刊」することとします。」として掲載されている(七月号)。その後海程の後継誌の発行に向けて検討が行われ、代表安西篤、発行人武田伸一、編集長堀之内長一が決まり(一〇月号)、一月号には誌名を始めとする新誌の組織や方針も公表される予定だという(一二月号)。
 金子兜太の急告文は次のように書かれている。ポイントは四点であり、終刊の理由として①私(金子兜太)の年齢から来るもの、②俳人――金子兜太――個人に、今まで以上に執着して行きたいという思い、をあげる。その上で、③終刊を二〇一八年九月とする理由(皆さんに余裕を持って新たな活動の場を模索していただきたい)、④「海程」という俳誌名(造型俳句の実践の場である海程は、私が主宰者でなくなった時点で終息させたい)である。
 兜太や会員の揺れる思いが伝わってくるようだが、ここでは兜太自身の今後への思い(②)について触れてみたい。「俳人――金子兜太――個人に、今まで以上に執着して行きたい」とは、俳人の生涯を終了すると言うことではなく、今まで以上に、現代俳句協会名誉会長や海程主宰の立場を離れて、兜太個人の仕事をしてみたいという意図だと受け取った。では兜太は何を始めようとしているのか。

「狩」の終刊
 こんな話題の折から鷹羽狩行(87)の「狩」の終刊が報じられ、衝撃を与えた(「狩」平成二九年一二月号)。平成三〇年一二月号をもって「狩」を終刊するというのである。昭和五三年創刊、平成三〇年で創刊四〇周年を迎える。兜太よりは大部若いが、平成三一年四月をもって平成の幕は閉じられるから、これはほぼ平成に殉じると言ってよいだろう。
 終刊の理由を狩行は「私の年齢と健康状態」と言っているから、兜太の終刊理由の①に相当する。しかしここでは、その後のことも触れ、「終刊後は後継誌として、片山由美子副主宰が「香雨」を創刊します。私は名誉主宰として、作品の発表・句会の指導を体力の許す限り続ける所存です」と述べており、これは兜太の②の所信表明、③④の後継誌への配慮に当たるだろう。
 もともと鷹羽狩行は「氷海」の秋元不死男の後継として「氷海」の主宰となったが、一年をもって「氷海」を終刊させ、新たに「狩」を創刊した。その終刊の手際よさは、今回とよく似ている。後継者を自ら決め、終刊と同時に新誌名(もっともこれは片山の最新句集名であるが)まで、決めるのはいかにも狩行らしい。
 「海程」のように終刊にいたるまでの経緯がはっきりとわかり、後継体制の決まって行くプロセスが見えるのも透明性が高く民主的でありいかにも戦後の雄の「海程」らしくて良いが、「狩」のように会員を迷わせず、決然と決まって行くのも一つの方法である。主宰者の個性といえようか。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

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