あけましておめでとうございます。
「俳句新空間」(冊子)も第8号を送り出すことができた。4年目の刊行となる。
また、BLOGは創刊以来5年を経過している。
「豈weekly」から数えればBLOGとしては8年目となる。
これも参加者の協力の賜物である。深く感謝申し上げる。
昨年は「萬緑」が終刊し、今年も「海程」、「狩」の終刊が予告されている。さらに歴史ある雑誌の休刊・終刊もうわさされている。
もちろん新しい雑誌も創刊されるのだが、やはり時代を担った雑誌の終刊は大きく、欠落感は否めない。新刊雑誌が、こうした終刊する雑誌を補って余りあるとは思えないからである。問題はエネルギーである。後続雑誌の生まれるのも悪いことではないが、それは雑誌の師系が続くという意味において価値がある。「海程」や「狩」が創刊したときのエネルギーの総和(人数×情熱)は俳句史においてその後二度と登場しないように思われるがどうであろうか。新雑誌の主宰者にはとてつもないエネルギーを爆発させてもらわねばなるまいと思う。
現在俳句結社を支えているのは高齢層・老齢層である。この老齢層がいかに長く活動可能かが結社の運命を決めてゆくように思われる。
もちろん若手たちを無視しているのではない。しかし昔から若手たちは新しい同人雑誌の中心となり、雑誌を刊行してはつぶしていった。こうした例は今も盛んに行われている。これは普遍的な方式といってよいだろう。
従来からマイナーな在り方としてのこうした若手たちの媒体は引き続き継続するであろうが、かといって現在圧倒的多数の結社がこれに代わることは考えにくい。
現在の結社――比較的多数の老齢層と、やや少数の若手がバランスを持って構成する結社方式――に代わる新方式は、こうした若手の同人雑誌とは少し違うものではないかと思われる。
考えてみると、現在の結社は、名誉主宰――主宰――幹部同人(編集長、同人会長、有力地方支部長など)―同人―会員で構成されるのが大半であり、上昇志向の日本株式会社方式であったといえるだろう。しかし、これを維持するのが次第に難しくなってきているのだ。それにふさわしい新しい雑誌刊行の方式が必要になる。
偶然か、意図したかは別にして、「俳句新空間」で取り上げた方式は、これからの結社の在り方の参考にはなると思う。もちろん、「俳句新空間」は「俳句新空間」なりの考え方で採用したのだが、いろいろ困難が生じたときの回避の仕方は、案外、伝統だろうと、前衛だろうと同じなのかも知れない。
それは極めて卑近な原理であり、経験的に得られた手法である。それは、――
①できるだけ永続する(参加者に次号がつづくことに期待してもらわないといけない。しかし師系の維持と違って、絶対永続させるまでの必要はないだろう)。
②できるだけ経費負担を抑える(当然であろう)。
③句会や吟行のような移動、特に編集会議のための移動を抑制することが望ましい(高齢者には耐えられないから)。
④校正、編集、連絡などの業務をできるだけ簡素化することが望ましい(電子媒体を使えばほとんど校正が不要になる)。
⑤いずれにしろ、一人の人が負う負担を極力軽減する。逆に、従来の主宰や編集長のような権力を持たない。
⑥電子媒体と紙媒体が相互にバックアップする。いざという場合のためにも、便宜があるだろう(実際、人生何があるかわからない)。
さらに、これに加えて、次のようなメリットもある。
①従来の結社雑誌の同人のような継続的な身分関係がなく、登録さえすめば、自分の都合に合わせて(体調とか精神状態とか家庭の事情とか)随時発表ができる。出入り自由なのである。
②特にBLOGは頁数に限界がないので、今までの雑誌ではできなかった無制限の記事執筆や、とんでもない企画も可能である(「俳句新空間」の例では、西村麒麟や曽根毅の壮大な句集特集、御中虫や西村麒麟の連載企画などがある)。
必要なら抜粋して雑誌に載せることも可能であるし、これをもとに一気に単行本化をすることもできる(単行本の例としては「豈weekly」の例だが『佐久の星 相馬遷子』がある)。
こんな風に刊行されて行く雑誌(BLOGも)は、もはや結社とは言えないかも知れない。「連衆」と言うべきなのかも知れない。
まさに、歳旦帖をまくのにふさわしい仲間である。
筑紫磐井様、容赦なく季節は過ぎておりますが、今年も佳き指標をいただきたく、おねがいします。
返信削除このユニークなトポスも、もう五年とか四年になりましたか?
私がものを書いている間は、アニからつづくリゾーム的表現媒体はなくならないだろうという気がします。磐井さま、できるだけ生き延びてください。
とんでもない、企画をぜひよろしく。ブログを持っていないのでですが、ここの記入者は堀本吟です。