よく見知っている方と思っても、著作や句集を拝読して改めてその人となりを知る事も多い。篠崎央子さんには句会で知遇を得て、夫君の冬眞さんも含めご一緒させて頂く機会も多かった筈だが、句集『火の貌』には私にとって未知の央子さんがあまた潜んでいた。
ストローを噛んで三十路や梅雨晴間
作者の未婚の頃の句であろうか、独身を謳歌され楽しかろう年代の、ちょっぴり切なさも含んだ感情をストローを噛む行為に託された。
伝票のうつすらと濡れ鱧料理
京都の妙喜庵待庵は安土桃山時代の茶室建築で、二畳台目とよばれる極小の空間ではすべてのエレメントがそれは慎重に配置され、利休の朝顔の逸話のように花一輪でとてつもない無限が演出されたりもする。十七文字の詩である俳句もそれに似ていて、その短さゆえに言葉は極めて慎重に選択そして配置され、さまざまな世界観が読み手に提供される。掲句、伝票と鱧料理しか登場しない。何処で誰と、どんな流れで鱧を食し、どのような経緯で伝票が濡れるに至ったか―の物語はその余白にあり、読み手に委ねられている。万葉集を学び、恋の句を作らんと俳句の世界の門戸を叩かれたという作者を思うと、しっとりと濡れた伝票に情感ゆたかな物語を想像してしまうが、真実は定かでない。非凡な表現力の一句。
冬銀河少女は家出繰り返す
ブルーハーツの曲では、このままじゃいけないって事に少年は気づいてしまう。多感な頃の感性を喪うかどうかは年齢の問題ではなく、その人の人となりによるのではないか。冬銀河が作者の中の少女を目覚めさせる。季語が美しく、また普遍性を感じる句。
肩触るる距離落椿踏まぬやう
なんと愛らしい景。鼓動の急に速くなる、ときめきとも呼ばれるあの感覚が「落椿」の季語の力で美しい詩に昇華された。
猫じやらし振りて男をはぐらかす
この猫じゃらし、いつも作者のバッグに入っていて、さぞたくさんの人がはぐらかされた事だろう。今も持っていないか、夫君の点検が必要ではないか。ユーモアであればと願う一句。
浅蜊汁星の触れ合ふ音立てて
浅蜊汁の貝殻のぶつかる音は星の触れ合いによるものであったか。浅蜊汁を食すたび思い出しそうな一句。
あかときの夢の断片蝌蚪の紐
上五・中七までの美しい言葉の流れが、下五で一気に艶めかしさを帯びる。展開力の一句。
新しき巣箱よ母を引き取る日
これまでとはまったく違った毎日が待っているという予感が、新しい巣箱に満ちている。
巣箱よ、の「よ」がずしりと響く。
ほうたるや米磨がぬ日は子に戻り
蛍が作者を日常から子供の世界へ呼び戻す。中七「米磨がぬ日は」がとても効果的。
二世帯暮らし雑炊に噛む魚の骨
あとがきに一時期夫君の両親と暮らされた、とあるが、そんな生活に慣れつつも微妙に生ずる心の起伏を魚の骨に滲ませ繊細。
透明になれる街なり聖樹の灯
周囲の人から持たれる関心も自分の周囲への関心も薄いまま暮らせる街―東京。「透明になれる街」とはなんと適格な表現だろう、聖樹の灯が賑わいの街を映して美しい。
水吸うて布が布巾となる朧
布巾は水を吸ってこそ布巾で、乾いていればただの布―というのは主観かもしれぬが、そこにこそ詩がある。生活の匂いに「朧」という湿り気のある季語がよく呼応する。
蟻地獄もがいても空あるばかり
蟻地獄をみるといつも安部公房の「砂の女」の事を思う。穴底の生活者は空をみて、自由に動き回る日々を思うが易々とは抜け出せない。蟻地獄も元は人間だったのかもしれない。
おはじきも白粉花も姉のもの
美しいもの、好きなものをみな独り占めにしてしまう姉。少女の憧憬と嫉妬の混ざった感情が微笑ましく、また怖くもある一句。
縄文のビーナスに臍山眠る
縄文のビーナスとは、丸みを帯びた体型の女性を象った土偶のことと思われる。臍は人が母から生まれた証であり、土偶の力強い曲線美とともに、女性の生命力を象徴する。句集『火の貌』は作者が少女から大人の女性、そして妻となりつつも童心を喪わずなおかつ逞しさを備えてゆく物語。ビーナスはご本人であり、臍は俳句であろう。この臍がなくならない限り、また新しい、美しい物語を作者は紡いでゆかれるに違いないのである。
小滝 肇 昭和三十年広島市生まれ
平成十六年俳誌「春耕」入会
春耕同人、銀漢創刊同人を経て
現在無所属
第一句集『凡そ君と』
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