「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわ(ママ)に良寛忌』の方がかへつて法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだつたらこれは問題であらう。」
(「仰臥日記」――「馬酔木」24年3月)
これだけでは経緯が分からないであろう。批判される登四郎の文章があるのである。長文であるが引用しよう。
「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参籠と言ふアトマスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあつたが今の苛烈な世相の中でそれがうすれつつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。
関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の潮は又一つうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもつと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。
俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。
私はこの句の持つ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思つてゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遥かに佳いものを期待してやまない。」
(「馬酔木」24年1月)
しらたまの飯に酢をうつ春祭
この文章も、これだけでは意味が充分分からない。実は馬酔木23年12月号の新樹集で秋桜子の巻頭となった次の作品を批判した文章であったのである。
法隆寺
松籟にこころかたむけ月を待つ
十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ
坊更けてはばかり歩む月の縁
勤行に参ずる暁の霧ふかきつまり、水谷の巻頭句である法隆寺4句に対し、登四郎は
しらたまの飯に酢をうつ春祭(23年6月3席)をよしとし、この句の持つ豊饒さに敬服した(逆に言えば、法隆寺の作品は根強いものに欠けた綺麗事の句であり全く過去のものとなるであろう作品、これに対し、白玉の句はもつとの苛烈な世相に堪え得る現代色の濃い作品)と述べたのである(「しらたま」の句は23年6月の3席句で秋桜子の推薦句。秋桜子は「酢をうつ」という言葉は俗であり、「しらたまの飯に」という言葉と本来は調子が合わないはずであるが、そこが言葉の生きものであるところで、巧みに配合すれば雅語と俗語がこのようによく調和する、この調和の魔術を心得ているのが詩人なのである)と激賞した)。
ところがこれを波郷は
しらたまの飯に酢をうつ春祭
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌ともども法隆寺の句よりも非現代的と思える、と述べている。
確かに法隆寺の句が現代的であるとはとても思えないのであるが、二つの傾向の比較はこの論戦の中で消滅している。ただ「しらたま」「ぬばたま」ともに典雅な趣味の句であることに間違いはない。それを波郷は批判したのである。
ところで、波郷は能村登四郎の傷跡に再度、塩を塗るようなことをするのである。それは、『咀嚼音』の跋文で再び批判をしているのである。
「私が清瀬村で療養の日を送つてゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかつた私は能村氏の、の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。
「黒飴さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書きする生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊細な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかつた。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかつた。
その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通つてきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐると思ふ。」
(石田波郷『咀嚼音』跋文)
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
実は波郷は、馬酔木に記事を執筆する(24年3月)以前に、登四郎が馬酔木の巻頭としてこの句が掲載された時点(23年3月)で批判をしていたという事実があるのである。冒頭の波郷の文章はその根拠を明確にしただけであって、「ぬばたま」の句が生まれた段階ですでに波郷はこれを否定していたのである。
「私は有頂天であった。俳句でこのような幸運が得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である。ことに枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたと言うことを「鶴」作家のKからきいた。
相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものではないことをしみじみと知らされた。」
(「野分の碑」――「馬酔木」41年9月)
「鶴」作家のKとは当時の親交状況からいって草間時彦であろう。これは馬酔木に掲載した文章であるから、波郷が読むことを覚悟して微温な表現になっていると思われる。しかし、少し離れたところではもう少し違った本心を登四郎は覗かせている。
「当時未だ「馬酔木」へ復帰しなかった頃の波郷がひどくその句を非難したということを人づてに聞いた。当時波郷という人についてよく知らなかった私は、何とひどい先輩かと恨んだり、一見おだやかな風の吹く俳句の世界にも、こんな足をひっぱるような残酷があるのかと驚かされたほどである。
しかし当時の私にはこの先輩のことばを無視する力はなかった。だから私は極めてすなおにしかも謙虚に反省した。私の作風はこの時から美よりも人間興味に傾いていった。」
(「悪評について」――「南風」43年3月)
一瞬ではあるが登四郎は波郷を人格的に非難しているのである。ただその後の登四郎は、波郷の助言に従って行くようになる。その経緯はまた回を改めて考えてみたいので、ここでは結果だけを示しておく。
「同人の末席についたその時から私は第二の危機にのり上げていくのを感じた。自分の作品についてもっと厳しい批判と反省がなくてはならないと感じた。そんな時に波郷氏のことばが静かによみがえって来た。趣味とした俳句を考えている人は知らないが、少なくとも私は血の滲むような貧しい生活の底から俳句を作っているのだ。当時私は学校の他に夜学を教え、さらにいく人かの家庭教師に自分の持時間のすべてをつかっていた。俳句を作る時間は人の眠る時をつかわなくてはできなかった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。」(「野分の碑」――同前)
こうして、26年には馬酔木30周年記念特別作品に「長靴に腰埋め野分の老教師」の句を含めた「その後知らず」(25句)で応募し、その時批評に当たった石田波郷がこの句を激賞したことにより、教師俳句へのはっきりした道が開けてゆく。それが処女句集『咀嚼音』に結実する。やがてさらに、社会性俳句、現代的な心象風景句と登四郎は変貌してゆくのだが、そのなかで、「ぬばたま」の句は、ますます遠く置き去られた作品となっていたのである。
これが大きく変わるのが、『咀嚼音』が定本として復刊されるときである。
「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」のような私の思いでふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」
(『定本咀嚼音』後記――昭和49年5月)
これは理由がやや不分明だ(また加えた句38句は、後述の湘子の論によれば57句だそうだ)。加えた理由をもう少し具体的に述べている言葉がある。
「あの作品が作られた二十年から二十九年はいわゆる戦後の暗黒時代で、国民全体が戦争という罪の贖罪のような苦業に充ちた生活をしていたので、私は俳句を通して美や自然を詠うことをつとめて避けた。自然、職場とか仮定とかに素材が限られた・・・。
それから二十年経って世の中も私の俳句観も変わった。今は人間や生活と言うものにそれほど固執しなくなった。むしろ、大きな自然の中に人間も生活も存在しているのだと思っている。生活のにおいがないという理由で落とした何句かが、こんど採録されている。」
(「定本咀嚼音について」――沖49年4月)
しかし、これだけでもまだ状況が判明しない。理由が痛切には伝わらない綺麗ごとなのである。そしてこれをはっきり明言した資料がある。
「波郷が、5年前に書いた“ぬばたま”批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当たり障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賎な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に“ぬばたま”があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけど、私はあえて自分の推理を楽しむ。“ぬばたま”の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。
もっとも、私がそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの“ぬばたま”に対する愛着が、とりわけ深いと言うことを感じ取れるからだ。」・・・自註シリーズの『能村登四郎集』に、<秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである>とあるのをまつまでもなく、こうした要(かなめ)の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」)
(藤田湘子「『咀嚼音』私記」――沖55年10月)
長靴に腰埋め野分の老教師
これは推測だと言うが、登四郎がまだ元気な頃書かれた文章である。登四郎はそれを否定していない。特に、『咀嚼音』直後『途上』と言う句集を出し、その出版社が同じ近藤書店であり、その句集の構成も『咀嚼音』と全く同じ秋桜子の序文・波郷の跋文のついていたことを思えば、この状況が最もよく分かるのは湘子自身であったし、ここにあるようにいかにもありそうな状況だったのではなかろうか【注】(その後、平成2年の富士見書房『能村登四郎読本』の「自句自解(五十句)」で「初版『咀嚼音』は波郷選によるものでこの句は落とされている」とさりげなく書いているから湘子の指摘はまさしく正しかったのだ)。
そしてこのことからも、波郷が跋文いうように「その句は埋没しても」はたった今埋没させたのだとすれば、それは6年前(23年)の過去の事実ではなくて、句集編纂の現在(29年)の問題であった。そしてそれを再び復活させない波郷の固い意志は「後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐる」に明らかなのである。“ぬばたま”の句は「反作用」としてしか価値を持っていない。
波郷との闘争がそこから始まるのである。
【注】「ぼくが「咀嚼音」を出版した後で、洩れきいた話では先生が湘子に「能村君が句集を出すまでは待っていなさい。先に出してはいけないよ。」といわれたそうである。つまり湘子の句集上梓は、すでに先生のそんな言葉があった程熟していたのである。「咀嚼音」出版後一年にして彼の青春句集「途上」が出版された。(能村登四郎「偽青春」――「南風」32年3月)
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