ことにはるかに傘差しひらくアジアかな 「鳥子」佳句も変な句も悉く並べてみた。私は、攝津の最初の傘の句が、ひどく好きだ。
月曜の日傘よ鶏が鳴いてます 「與野情話」
傘新たに金曜をさす二階かな 〃
日常のかうもり傘のみ発展す 〃
絵日傘のうしろ奪はれやすきかな 〃
片時雨日傘の内なる貴人かな 〃
生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘 〃
雨の日は傘の内なり愛国者 〃
しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり
傘売りにたまたま頭蓋応じけり 「鳥屋」
傘さして相模の恋をつらぬけり 〃
してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ 〃
疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな 〃
繰返し戦後の傘屋残りけり 〃
人多き戦後の奈良に傘を干す 「鸚母集」
傘さして馬酔木見し人隠さるゝ 「陸々集」
春雨を男傘にてをみな受く 〃
「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し 「鹿々集」
鹿皮を隠しとほしぬ春日傘 〃
蛇の目傘会社の影を纏ひけり 「四五一句」
春日傘大和にいくつ女坂 〃
番傘の精神のとこ破れけり 〃
ことにはるかに傘差しひらくアジアかな
個人的には、この句にパフィーのデビュー曲を思う。「アジアの純真」である。あの暢気な、意味不明なノリの良い曲のように、夢を感じさせる。それは個人的な夢というよりは、国の夢、戦前の日本の夢と言っても良い。まだ五族協和という標語が輝かしい協調の夢、平和と繁栄の夢であった頃、まだ満州事変が起こっていなかった時代の夢だ。李香蘭の映画なども思い出される。必ず惨たらしく破れるから、夢なのである。
夢の雰囲気は、「ことにはるかに」の高らかな措辞に表われている。日傘とは書いてないので、雨は降っているのだろうが、日照雨のような気がする。「差しひらく」という動作には、或る方向性が見られ、遙かな仄かな光を蔵する空に向かって傘の先を向けながら開く動きが良く見える。
「アジアかな」という納めから、傘を開く方向は大陸の方向かも知れず、或いは大陸の上海や奉天などで日本に向かって開くのかもしれぬと思わせる。軍歌を良く聞いていた攝津であったからこそ、その当時の夢の雰囲気を肉化することが出来たのだろう。(敗戦に繋がる満州事変以前から、数多くの軍歌はあった。)
月曜の日傘よ鶏が鳴いてます
傘新たに金曜をさす二階かな
なぜ月曜なのか、或いは金曜なのか、中々難しいが、それぞれの曜日は良く合っている。合っている訳を考えるに、一句目では、月曜+日傘=月+日=月日=時間となり、時を告げる鶏が配合されるのだろう。二句目では傘と金曜の類似は、どちらも山かんむりがあり、その形状は上方を「さす」ものであり、且つ家の屋根の形に似ていて、そこから二階という、屋根のすぐ下にあるものが出てくるのだろうと思う。
日常のかうもり傘のみ発展すシュルレアリスムの技法に「デペイズマン」(異郷の地に送る事、という意)がある。意外な組み合わせによって受け手を驚かせ、途方に暮れさせるやり方だ。(同じく、デペイズマンの技法を四人で行うものに、有名な「優美な屍骸」がある。四人がそれぞれ何を書いているかを知らせずに、一つの文章の一つずつのパートを書く。最初にこのゲームを始めた時、出来上がった文章が「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲むだろう。」であったため、前述の名称で呼ばれるようになった技法。)
デペイズマンの技法といえば、その最初と見なされる、十九世紀フランスの詩人、ロートレアモンの「マルドロールの歌」、その第六歌のⅠに出てくる「解剖台の上の、ミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」を思う。(日本語訳では「蝙蝠傘」と「雨傘」の二通りの訳がある。)
攝津の難解な句は、その殆どがデペイズマンの技法であろう。攝津が「マルドロールの歌」の蝙蝠傘を知らぬ筈はない。となれば、掲句は「日常に則したデペイズマンの技法のみが発展する可能性を秘めている」という、自らの技法の宣言か。
生み継ぎぬ畳のへりにや西洋傘この句もわざわざ「西洋傘」と断っているのは意味があるのだろうと思う。これもやはり攝津らしい「シュルレアリスム宣言」であって、古き良き日常の日本を象徴する「畳」のへり、端っこに、(西洋傘を媒介して)生み継ぐものは、デペイズマンの技法、と言いたかったか。
しかし、そんな難解な宣言よりも、私は次のような句が好きだ。
絵日傘のうしろ奪はわれやすきかな冒頭の「アジア」の句でも、傘を差しひらくのは妙齢の女性であって欲しいと思うが、掲句はますますそう思わせる。「うしろ奪はれやすき」とは、触れなば落ちむ、の風情ではないか。絵日傘なら尚のこと、後ろから抱きすくめられそうな姿である。攝津が好きだったアラーキーの写真に出てくるような女を思わせる。「かな」の慨嘆が、実に利いている。
「夜目遠目傘の内」と言う。傘は攝津にとって、女性の遙かなエロティシズムを演出し包むものであったかもしれぬ。
しじみ狩る少女の日傘や赤毛かげり潮干狩の少女であろう。赤毛の少女といえば、「赤毛のアン」を思う。活発でお転婆な、寄る辺ない孤児である。小さな貝である蜆を狩る行為からは、暗喩といえども少女のエロティシズムが、かなり露わに描かれている。
下五の「かげり」が妙で、赤毛が翳るのは日傘ゆえであろうが、この日傘が少女を守護しながらも枷となっている。赤毛は奔放の証、と西洋では言われるそうだ。赤毛の少女ならでは、日傘あるいは日傘に象徴されるものが、猶更自由を制限するように思われるのか。その枷に対する鬱屈が「赤毛かげり」なる字余りで表わされている。
傘さして相模の恋をつらぬけり相模というと、今の神奈川の川崎、横浜を除く全域で、かなり範囲が広い。神奈川の一寸お洒落な感じが合うといえば合うだろうが、それよりも「相模」なる地名は「傘」との韻の関係で選ばれたのだろう。それでも、何となく鎌倉あたりの海近い雰囲気は伝わる。「つらぬけり」であるから、恋に一途な女か。ここでは、傘と恋(エロティシズム)の関係がはっきりと出されている。
夜目遠目傘の内と、傘が女に良く似合うなら、その傘を売る傘屋は、やはり男であろう。
してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ恐らくは性行為を「している」傘屋、その傘屋は多分男だろう。「も」とあるからだ。女は嬌声を上げ、男「も」声を上げる。男の声は女の声とは違って「淋しい」。男は生殖が終われば、もはや用済みだからだ。種を繁栄させ、子に愛されるのは、ほとんど女の特権である。「冬」が利いている。男は行為の最中も、心が寒い。行為が終わった瞬間から、もっと寒い。掲句、男なる性に対して容赦ない句である。
疲れ勃つ傘屋の奥の波止場かな海際にある傘屋で、店兼住居の奥が、直ぐ波打ち返す波止場とは如何にも淋しい。波止場は「疲れ勃つ」ときの傘屋の心の「奥」にある心象風景かもしれぬ。疲れても生物の義務に忠実に勃起する傘屋の、心が佇つのは波止場で、こんな淋しい空しい波止場なら、当然、加藤郁乎の「冬の波冬の波止場に来て返す」を踏まえている筈だ。読者が、郁乎の高名な句を思う事を前提に、掲句の上五中七は全力で、男にとって「冬」とは何かを表現している。冬とは、「疲れ勃つ傘屋の奥」である。
「疲れ勃つ」は、波止場に掛かるとも読め、波止場自体が男の性の暗喩である可能性もある。
(攝津が加藤郁乎の「波止場」の句をかなり意識していた事は遺句集『四五一句』中に「春ショール春の波止場に来て帰る」が入っている事からも窺えよう。「春ショール」の主役はあくまでも女であって、男の惨さは変わらない。「帰る」とは、女の捨台詞のようにも思われて苦笑する。同じく郁乎の「栗の花のててなしに来たのだ帰る」の「帰る」、あのぶっきらぼうな意地っ張りな台詞も思う。「春ショール」の句を出すことによって、郁乎の波止場の句は男が主人公である事を示したかったか。女にとっては波止場は空しくない。空しさを感じるには、女はあまりに現実に富んでいる。)
繰返し戦後の傘屋残りけりしかし、傘屋は常に生き残る。同じ傘屋とは限らないが。「繰り返し」とは、「戦後」という語と組み合わさると、戦争やら何やらで繰り返し死んでは生まれ変わるという事か、或いは傘屋という職業が、戦争の終結の度、主または店舗を変えながら生き残るという事か。「傘屋」に男性なるものの暗喩を読めば、味わい深い。
人多き戦後の奈良に傘を干す奈良は文化財保護の関係か、軍需工場がなかったせいか、或いは人口が少なかったためか、大阪や名古屋、東京に比べれば、空襲はかなり少なかった。だから、人が多いのである、と「戦後」なる語の意味を解釈したが、単に観光客が多いという見方も有りである。これも妙な句で、傘を干しているのは作者か、奈良の住人か、それとも奈良の傘屋か判然としないが、傘屋と取ると一番おもしろい。傘を干すのは、傘の元気回復の為だ。
この後、攝津の句の傘はあまり面白い展開を見せない。
「蹲(うづくまる)」パラソル白き女欲し「蹲」をつくばい、茶庭にある手水鉢と取るなら、そこにアラーキーの撮るような女が白いパラソルを肩に掛けて、或いは白い着物などを着て、うずくまっていて欲しいのである。そうすれば、一層絵になるなあ、と攝津は考えたのだろう。
攝津が晩年骨董に凝ったことを思えば、この「蹲」は古信楽か古伊賀の「蹲るような形の」壺とも読める。古信楽や古伊賀の、何でこんな小汚い壺が、と素人は首を傾げるような恐るべき高値と、その贋作の多さを考えるなら、掲句の女は地味だが高嶺の花且つ疑わしさも残る女であろうか。
春日傘大和にいくつ女坂
上五と下五で尾韻らしきものを踏んでいる。大和は日本というよりは、むしろ大和路、奈良であると読んだ方が情景を結びやすい。女坂とは、社寺に通ずる坂が二つある時、勾配の緩い方の坂を指す言葉だから、奈良の社寺の数だけとは言わないが、相当数の女坂があるだろう。だから、この春日傘の主、或いは主たちは、寺か神社に詣でているのである。
ここで春日傘の主(女であって欲しい)に、死または異界の匂いがするのは、大和には幾つもの古墳があり、古墳の玄室に通ずる細い道が黄泉比良坂であるとする説があるからだ。
句集ではこの句の十句後に、「夏椿黄泉比良坂十方に」なる怖ろしい句があり、夏椿の赤さと相俟って、十方全て死に通じる情景は、攝津の晩年の病を考えると胸に迫る。
蛇の目傘会社の影を纏ひけりどう解釈すればよいのか、途方に暮れる。そして、受け手を途方に暮れさせるのが、先に挙げたデペイズマンの技法の目的であるなら。
俳句形式は、いわば「解剖台」だ。「傘」とくれば「ミシン」はどこだ。大正十年創業の「蛇の目ミシン工業株式会社」である。そしてミシンは戦前の女性の必需品だ。傘、ミシン、ロートレアモン、デペイズマン、古き良きそして戦後も栄える会社、日本の佳き女性、それら全部をあたかもピカソのキュビズムの絵の如く、原型無きまでに組み合わせ、ぎゅっと絞ると「蛇の目傘会社」だ。では、その凝縮したデペイズマンの影を纏うのは、他ならぬ攝津であろう。これが、攝津の傘の「上がり」だったのだろうか。
最後に現われる傘の句は、
番傘の精神のとこ破れけり「とこ」とは、処だろうか。それとも「床」だろうか。処なら、デペイズマンの精神の破綻という意味になるし、床なら女と同衾の果、傘屋ついに疲れ破れたりということだろうか。攝津のデペイズマン且つ傘の内なる女の到達した処は、蝙蝠傘でも、西洋傘でもない、日本の軽き良き番傘だった、と、掲句の如く、苦しく結んでおく。
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