加藤郁乎(1929〈昭4〉1.3~2012 〈平24〉5.16)の自信作5句は以下通り。
終るまで男は河東舞燈籠 「俳句」平成元年11月号
半道に五里八幡や秋まつり 「朝日新聞」〃10月13日夕刊
梅川か柳か羽織落しけり 「俳句」平成2年3月号
伊勢るまで待ちて業平蜆かな 〃 4月号
在庵に定家煮つけるついりかな 〃 6月号
一句鑑賞者は仁平勝。その一文の冒頭には「たとえば固有名詞をそのまま動詞化してしまう芸は郁乎の専売特許だ。
かつては『虹りゆく朝半宵丁にセザンヌるかな』『牡丹ていつくに蕪村ずること二三片』『句じるまみだらのマリアと写楽り』といった名句がわたしたちを狂喜させたが、このたびは『伊勢る』ときた。イセルといえば、逢引などで相手を待たせてイライラさせたり、じらしたりすることだが、『伊勢る』となれば当然そこにいわく俳諧的な転義が成立する。業平を呼び出すための面影をつくることだ。/業平蜆は、江戸本所の業平橋近くでとれる蜆で古くよりの名物である。こちらは転義という以前に、俳句という文芸で『業平蜆』とくればそのモチーフはどうしたって『業平』の名前だ。古川柳に『業平は煮られ喜撰は煎じられ』の句があって、つまり『業平』は蜆で、『喜撰』は茶だが、ようは六歌仙が煮られたり煎じられたりするところにおかし味がある」。次の段では「伊勢の留守という言葉がある。夫を伊勢参りに送り出して、女房が一人家にいるのだが、この瑠中に間男すると神罰が当たるそうだ。『いせの留守一と思案していやといふ』という柳句もある。となると『伊勢る』とは亭主が伊勢参りに出かけることだとする解が、がぜん生き生きと浮かび出てくる。男を引き入れたいが罰にあたるのもいやだから、色男の名をもじって蜆でがまんしようというのかもしれない。(中略)/ひとついい残したが、伊勢魔羅といって伊勢の男のモノは極上であるらしい」と結んでいる。
まるまる全部、仁平勝の鑑賞文を引用した方が、リアリティーがもう一段増したと思うが、なかなか見事な読解である。そしてまた「俳句の言葉は、今ふうにいえばファジイであるのを本質とする。『伊勢る』はつまり『業平蜆』をファジイにするための仕掛けだ。そもそもたかが蜆に『業平』と命名することが粋ではないか。郁乎の一句は、その粋にこだわることが俳句という言葉遊びなのだと主張する。それは処女句集『球体感覚』から一貫して変わっていない。そして一方、そういう主張がついに理解できない俳壇というムラの政治も変わっていない」と書き残している。さてさて、現在はどのような状況なのだろうか?
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