2014年9月5日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十、三十一~ 網野月を

その三十(朝日俳壇平成26年8月25日から)

◆敗戦日娘のスカートの寝押しなど (東京都)小玉正弘

長谷川櫂の選である。八月の「朝日俳壇」は戦争関係の句が多かったように思う。選もそうなるが、投句がもともとその傾向なのであろう。今年は第九条の解釈改憲を閣議決定した煽りもあったと考える。もともと俳句のテーマには社会性のものが少なかったように感じているが、三・一一以来、俳人の関心が社会性を有するテーマに向けられ、積極的に作句されるようになったようだ。それにしても八月の戦争関係の句の多さは三・一一以前から確認されるであろう。

掲句は上五にある「敗戦日」をテーマにしているが、「スカートの寝押し」を回想するのは、八月十五日の一日だけでなくその頃の典型的な庶民の日常生活を映し出しているように感じる。「敗戦日」だけでなくて時間軸が前後に拡げられているということだ。その分、「敗戦日」にネガティヴな、もしくはポジティヴな価値観を植え付けないで扱うことが出来ている。現在に較べて、その頃の制限された不便な暮しを懐かしんでいる作者の心情も微かに感じ取れる。

◆尺蠖のようにランボー読みにけり (松戸市)大谷昌弘

大串章の選である。選者の評には「第二句。「尺蠖のように」が見事。ランボーの詩をじっくり読んでいるのだ。」と記されている。筆者も選評の通りだと考える。「尺蠖のように」は将に読書の様子を形容しているのだ。「ランボー」はランボーの詩ということで解釈したい。座五の「・・にけり」が多少大仰な感じがするが。

「尺蠖のように」は尺蠖虫が上半身を擡げて何度も何度も躊躇いながら、左右を見定めながら前進して行く様子である。詩の一行一行を読み返し、前後の行も読み返して熟読玩味しながら読み進めて行く。作者がランボーの詩の境地へ手を延べて、どうにか届こうとしている心の様が「尺蠖のように」の措辞に凝縮している。


その三十一(朝日俳壇平成26年9月1日から)

◆遥かなるものに昨日と雲の峰 (千葉市)相馬詩美子

長谷川櫂の選である。「朝日俳壇」は四人の選者が十句ずつ選して掲載されている。毎週月曜日に四十句掲載される計算である。時に共選もあり、複数の選者の選を受ける句もある。

九月一日の「朝日俳壇」は傾向として、八月の戦争俳句が過ぎ去って清秋の前の落ち着いた句柄というか、過渡期のような雰囲気が全体を支配しているように感じる。その中で掲句は奥深い余情を含有しつつ、座五の季題「雲の峰」のイメージを空間から時間に変質させて上五中七へ転換している。作者にとって「昨日」はこの夏を一生忘れないものにしたに違いない。

◆水中に風あるごとき金魚かな (宝塚市)横山嘉子

大串章の選である。選者の評には「第三句。「風あるごとき」が金魚の美しさを示す。」と記されている。金魚はその淡い色合い、涼しげな動きなどから愛玩されている。とくにランチュウなどの開いた尾をもつ種類の尾鰭の動きは優雅そのものだ。当然のことだが金魚自身が尾を振っているのだが、作者は「風あるごとき」と表現したのだ。水中に風を見付け出した感性が鋭い。

◆夏休み喧嘩のルール覚えたり (塩尻市)古厩林生

長谷川櫂の選である。一日の「朝日俳壇」と「朝日歌壇」の間に「うたをよむ」というコラムが挟まれている。今回はマブソン青眼氏の執筆だ。俳句甲子園関係の記事であるが、その中に「喧嘩して夜店の裏を帰りけり」が紹介されていた。どうやら喧嘩は夏の季題に合うらしい。世間では同類・同質の単語や措辞が時を同じくして頻出することがある。テレビコマーシャルのキャッチコピーなどは好例だ。ある時期に同じようなコマーシャルが別スポンサーからリリースされることがある。

掲句と青眼氏紹介の句にも同じような傾向を筆者は勝手に感じた。・・つまり俳人が社会の色合いや臭いを同様に嗅ぎつけている証ではないだろうか?






【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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