寂しいと叫ぶには/僕はあまりにくだらない(星野源「くせのうた」)
『歯車』七月号(第三五八号)で宮崎大地句集『木の子』の全句が公開された。「宮崎大地句集」という文字に僕は一瞬目を疑い、すぐさま夢中に読み進めたが、しかしながらある種の虚しさと羞恥とがこみあげてくるのを禁じ得なかった。
宮崎は一九五一年生まれ。高校二年生のときに『歯車』の初心者向け投稿欄「若竹集」に現れた宮崎は、一冊の句集の上梓もないままわずか数年間の活動のみで筆を折ることになってしまうが、宮崎こそ当時最もその将来を嘱望された若者の一人であった。『木の子』はその宮崎による自筆句集であるという。同句集を贈られた前田弘は次のように記している。
ところで、ぼくの机の抽斗から、世界に一冊しかない、という貴重な句集が出てきた。宮崎大地句集『木の子』である。便箋二十枚に万年筆で書かれた句集は、前田弘に贈呈されている。昭和43年、高校二年の時に「歯車」に登場、48年(正しくは49年―外山注)に退会するまでの5年間、十代後半から二十代初めの若き日の作品から自選したものである。ひとときの光芒とはいえ、当時の会員に大きな刺激と活力を与えたことは間違いない。佐藤弘明、永井陽子、萩澤克子、橋口等、林桂、宮川妙子などは、自らを大地惑星と称していた。(「編集雑記」)
『俳句研究』が新人発掘のための企画として「五十句競作」を始めたのは一九七三年のことであった。五十句競作に関心のある者にとっては、企画者である高柳重信に次の一文のあることは周知の事実であろう。
いまだから言うが、この「五十句競作」を企画したとき、せめて第一回だけは多少の成功を収めたいと思い、まず入選第一席に推すべき一人の青年を、あらかじめ用意していたのであった。たまたま僕は、本誌主催の全国俳句大会の応募者の中に、かなり出色と思われる若い才能を見出し、あとで個人的に作品の提出を求めた結果、すでに百句以上を手元に持っていたのである。そこから既成作家の影響が表面に残っているものを避けながら五十句を選び出しさえすれば、それだけで充分に入選作として推す価値はあった。しかし、その二十歳ほどの青年は、それを選句の暴力と言い、彼の自選五十句でなければ嫌だと頑張り、遂に応募を断念してしまった。(「俳壇時評」『俳句研究』一九七七・五)
この「二十歳ほどの青年」こそ宮崎大地であった。宮崎はこの直後に俳句と訣別してしまう。宮崎がこれほどこだわった自選五十句がいかなるものであったのか、もはや知るすべはないが、宮崎の自選句集『木の子』の公開によって、筆を折る直前の宮崎がいかなる句を是としていたのか、自句に対するまなざしの一端を知ることができるようになった。
七月へ爪はひづめとして育つ
なはとびの少女おびただしき少女
てふてふよおまへが好きと飼ひ殺す
奈良に來て悲鳴に似たる柿一つ
死にたれば桃の地獄や二日月
葉櫻の沖をかすれて母の文字
『木の子』の発行年月日は一九七三年三月一八日。したがって二二歳での作品集であり、最後の一年間の作品は収められていない。生と死に対する憧憬と畏れとがないまぜになったこうした世界が、あるいはあの幻の五十句においても展開されていたのだろうか。
だが正直に言えば、もしも宮崎との出会いが『木の子』から始まっていたとすれば、僕は宮崎にこだわっていなかったかもしれない―そんな思いが強くなったことも白状しておきたいと思う。僕はこの期に及んで、まだ見ぬあの五十句ばかりが気にかかるのである。
長岡を語る時には、二つのエピソードが邪魔をする。
一、重信撰「俳句研究」第一回五十句競作佳作第一席。
二、1994年郁乎撰年間秀句ベスト5に入る。
(略)
この原稿を書くにあたって僕が少しだけ有利なのは、長岡裕一郎自身の伝説を無視しやすい事。よく知らないということも、作品を読むだけに専念しやすい、という意味では悪いことではない。
(西村麒麟「色々過ぎ去ったあとで」『豈』二〇一四・七)
西村麒麟は宮崎と同世代の俳人である長岡裕一郎の句について書くときにまずこんなふうに書くことから始めている。長岡のみならず、宮崎の場合もまた第一回五十句競作の幻の入選者としての「伝説」が宮崎の句を読む僕たちの邪魔をするということはありうるだろう。しかしその一方で、読み手としてのこうした至極まっとうな姿勢を前にすると、僕は何となく気が引けてしまう。僕にとってはむしろ、ついに僕たちの前に現れることのない五十句にこだわることが、何よりも切実なことであったような気もするからである。
*
俳句を書くという営みは、あるいは何の接続詞も必要としない営みであって、それゆえにこそ美しいのかもしれない。だが、書き続けるという営みがときに逆接を冠せずにはすまされないような、多分に屈折に満ちた決断を伴うものであると知ったのは、宮崎大地の名を知ったときだった。
タンポポのポポンと今日は人に会う
Aの木にBの鳥ゐるうるはしや
わが夏の快楽(けらく)や蝶を見て死なむ
けんけんの花野健忘症の鳥
ジパングも黄泉も黄金や蝶の春
戴冠の我が名をきざむ大地かな
俳句を始めて間もないころ、僕はこれらの句とともに「宮崎大地」という名を記憶した。そして同時に、どうやらこれらの句の作者が二十代の前半に早くも筆を折ったらしいということと、その文学的夭折が、彼よりも遅れてやってきた一人の青年に「『銅の時代』を去るための私記」という一文を書かしめたということもまた、何かただならぬこととして記憶されたのであった。
僕がこの一文にふれたのは二〇〇二年のことであった。大学に入ったばかりの頃の僕は同時代の、ましてや同世代の俳句などほとんど知らなかったが、その無知はやがて、僕が自らの怠惰を反省するよりもずっとすばやく、俳句形式にこだわり続けていることの寂しさを僕に引き寄せた。どうにもならない寂しさのなかで、僕は高校生の時に投稿していた地方紙の学生向け俳句欄で選者をしていた林桂に手紙を送ったのであった。折り返し葉書とともに送られてきたのは林の評論集『船長の行方』と句集『黄昏の薔薇』『銅の時代』『銀の蟬』であった。そして僕は『船長の行方』のなかに先の一文を見つけた。林は宮崎が林宛に送った最後の手紙のなかにある「林氏のやうに「今」俳句に熱つぽい視線を投げかけてゐる人がゐるのを見ると、何かまぶしいのです」という言葉にふれ、次のようにいう。
「五十句競作」にうかうかと応じたことだけでも僕は十分に眩しかったのだ。僕は十分に大地氏の後方を歩いていた。それ故に眩しかったのだ。しかし、応じてしまった以上、大地氏を追いつめるためにも、大地氏のやさしさに答えるためにも、僕に残された道は、逆に何らかの形で「五十句競作」に拘り続けることによってしかないのであった。(略)しかし、いまやそれもほとんど困難な状況になってきてしまった。一つに、僕はかつての大地氏の年齢を越えてしまい、そのことが今までの方法で大地氏に拘ることを、難しくしてしまったこともあろう。
一九七八年に書かれたこの「『銅の時代』を去るための私記」において、当時二五歳の林は「もう大地氏に僕の眩しさを許してもらえるかもしれない」という思いが「銅の時代」なる時代意識をもたらしたとして、最後に次のように書いていた。
僕は書き続けよう。僕を先行する月彦氏も達治氏も(藤原月彦、大屋達治―外山注)、かつての大地氏の年齢を行き過ぎて、行き悩んでいる。「銅の時代」の次に来るものは「鉄の時代」ではなく、「鉛の時代」である。その時必要なのは、寡黙になることではなく、自分の存在を確かめるためにも、たとえば叫ぶことである。俳句形式をみつめ続け、自分をみつめ続け、状況をみつめ続け、これを一つのこととしてみつめ続け、その過重と晦渋の中で、しっかり己れを持ち続けなければ、すべて消えてしまう時代である。今僕に必要なのはそのための明確な認識であろう。そしてそのためにも、さようなら、大地氏。
今にして思えば、このように書かざるをえなかった林の痛みなど理解できなかった僕には、「宮崎大地」を持つことのできた林がただただうらやましかったのである。そして同世代の俳句に早々と見切りをつけていた当時の僕は、狡猾にも、過去の俳句雑誌を漁ることでそのなかに僕なりの「宮崎大地」を見つけようとしたのだった。もはや自分が書き続けることの意味を見いだせなくなっていた僕にとって、書き続けることを決意した若き日の林のこの一文のまばゆさを信じきることこそがほとんど唯一の救いだったのである。だから僕は、林の決意を模倣することによって書き続けた。僕は、自分が他ならぬ自分自身の意志によって俳句を書き続けたなどとはとても思えない。僕は、林が林自身を指していうところの「僕」を模倣することで、かろうじて俳句とつながっていたような気がする。
先頃『現代俳句』に寄せた文章のなかで神野紗希は自らの高校時代を振り返っていたが(「自分なんて忘れて」『現代俳句』二〇一四・九)、「自分さがし」の気分が蔓延していたあの時代において、俳句で表現されたもののなかにそうした気分とは異なるものを見出したのが神野であったとすれば、同世代の僕はむしろ積極的に「自分さがし」を模倣することによって俳句を書き続けていたのであった。これらはまったく異なる営みのようにも見えるけれども、僕には、結局のところ自己表現などというおとぎ話めいたものへの冷めたまなざしがたまたま異なる意匠をもって結果したにすぎないようにも思える。
いずれにせよ、僕にとって「宮崎大地」とは僕の出自とついに切り離すことのできない名前である。そして僕の場合「宮崎大地」を語るということは、ついに見ることのないあの五十句を語ることであり、さらにいえば、「自分の存在を確かめるためにも、たとえば叫ぶことである」といって「宮崎大地」と訣別した林桂を語ることである。あるいはまた、叫ぶ真似をすることでしか僕でありえなかった僕自身のありようを甘受することなのである。
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