【テクスト本文】
メモランダム福永耕二
平野山斗士 「田」所属
福永耕二による俳句論の話をしようとしている。先ず個人的挿話を持ち出したい。手元にある一冊『俳句創作の世界』。若者向けの俳句入門書を謳ったもので、これに福永耕二の稿が収められている。「はしがき」に耕二急逝のことが報じられており即ちこれが彼の絶筆となった。古本で購入したものなので書込あり。そうしていざ冊を開くと、興味ある書込を見たのである。耕二による文章は次の通り。
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最近における俳句人口の増加とその高齢化は著しいものがあります。しかも最近俳句をはじめる人は、青壮年期は生活に追われて俳句どころではなく、老年になってようやく時間的にも経済的にも余裕ができて、俳句の世界に入ってきた人が大部分です。しかもその人達は、俳句を碁や将棋のような気晴らし、と考えている人が多いようです。そういう人達が俳句雑誌の読者として、その経営を支えていることは否定できませんが、私はそういう人をほんとうに不幸だと思います。俳句を趣味、あるいは余技だと思っている人にとっては、いつまでも俳句は趣味でしかなく、余技でしかないからです。その反対に、人生の表現として俳句を選び、恋愛、結婚、子供の出生などの一生の大事をことごとく俳句に表現し得た人はすばらしいし、立派だと思います。[※註1]
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「私はそういう人をほんとうに不幸だと思います」の箇所に鉛筆で傍線、そして欄外へ引っ張って…。(それはそれで仕合せではないか。この人の俳句観はあまりに偏狭であり、賛同できない。)と書込んである。
耕二も、この一冊の前の持主たる失名氏も、二人とも何やら憤っている。或る種の心の波が、言葉を、強く湧き立たせ、更にこの場合は反発的かつ共振的にドライヴしてしまった。こんな邂逅の痕跡が埋もれているとは、買い求めて良かった。この失名氏の一撃が、福永耕二という俳人の急所を突いているかと云えば、然り、肯える点がある。怒っても仕様がない。蒸し返すように感情の波紋を拡げても今更の話である。
ほんとうに不幸、とはなるほど如何にも、筆の滑りに滑ったり。だが耕二の難点をあげつらうためここに論じるのではない。けだし美点と難点とはコインの裏表だから往往にしてすぐ反転する。好悪の問題以前に、視座の問題である。福永耕二の、体質に、散文の方面から近付こうとしている。耕二は「僕は評論というものを書くのが大の苦手である」と自ら述べているので、そいつは却って好都合、句よりも論のほうに一人間の生地が露出している見込がある。そこには実存も課題も時代感覚も含まれている筈で、俳句の今を生きるわれわれのための滋養分を味得することが出来たら理想的である。
耕二が文学原論的に俳句を扱ってよく知られたものが二つある。昭和三十六年の「沈黙の詩型」。昭和五十二年の「俳句は姿勢」。読み比べてみると、より面白いのは前者。一口に云えば、前者のほうが、冷静で、論点が豊富である。冷静と云うのはつまり後者のほうでは、ほんとうに不幸だと思います的なる口吻が、比較的に露骨なのだと思って頂いて良い。以下、前者「沈黙の詩型」を眺める。
標題の語を定義付けている箇所は、こうである。
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最後に残った十七音の言葉に対するぎりぎりの愛情が、人に訴えるのである。俳句における抒情の方法はこれ以外にはない。その意味で僕は、俳句を沈黙の詩型と呼ぶのである。[※註2]
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まずこれだけでは引用としても不親切で判り難いが、同時に、まずこれだけでも結社で学んでいるような俳句実作者が読むときには、趣旨の大方は察しが付こう。伝統俳句をまるごと信じ切る王道派の見解が吐露されている。この定義に絡まっている文脈をもう少し抽く。
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僕はどうにかしてこの短詩型のもつ秘密を解き明かしたいと思いつめていたのだが、つい最近、俳句におけるその寡黙さと、われわれが美しいものに出合った時に感じるあの充実した沈黙というものが、どこかで共通するのではなかろうかと思いはじめたのである。
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人に感動を語りたい欲求を抑えて、よき詩人はよき祈りをするのである。祈りの中で、詩人は言葉を得るのである。詩人はまず、沈黙することが唯一の表現であるという思想を所有しなければならぬ。
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文学がいよいよ饒舌になろうとしている今日、このような短い詩型が生き残る為には、いま一度俳人が、この沈黙の意味を考えねばならぬと思う。抑えることによって表現する、と言葉に言うことは易しい。しかし抑えてしまったら何も表現するものが無かったという場合だってあるのである。
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どうだろう。祈りという語が反復されるからという理由だけに留まらず、解き明かしたいと思いつめ…。唯一の表現…。生き残る為には…。これ以外にはない…。あたかもこれは修道僧の、わざと大仰に云うなら迫害されつつある信徒の、熱っぽい語り口である。ふと内村鑑三を彷彿してみてもいい。福永耕二の青春性と云われるものの一端が、こうした文飾の節ぶしにも窺えるわけである。いま文飾と云ったが当人おそらく無意識か。ときに念のため、キリスト教に関わる耕二句を幾らか拾う。
降誕祭終りし綺羅を掃きあつめ 『鳥語』
(聖母騎士園ルルド)
跪坐石は蟻あそぶ石人去りて 〃
初弥撒や息ゆたかなる人集ひ 『踏歌』
(島原キリシタン資料展)
竹筒の隠しマリアは暑からめ 〃
大天使像古りし翼を虫干す 『散木』
このうち〈初弥撒や〉は有名句と云えよう。だが彼がクリスチャンかどうか、いま確証を見ない。たとえばと思い「聖書」の語を持つ句を探したが管見の限り一句もない。
殺生戒蓑虫のためにけふ活かす 『散木』
単に修辞と見ても良いが、文字通りこれを受取ればむしろ、仏の徒である。いずれにしてもそのことは今の話柄に、無関係ではないにせよ重大関係ありとも云えないようである。
饒舌になろうとしている今日…のくだりは、社会性俳句のことがおそらく念頭にあろう。昭和三十六年に発表の文章である。社会性俳句論議の最高潮が昭和二十九、三十年あたりとすると三十六年の時点とは、ブームは既に沈静、脇へ逸れた支流が再び本流へ流れ込むように全俳壇的に影響が染み渡った頃合と、見られる。
読者のほのかな笑いを誘うのは、抑えてしまったら何も表現するものが無かったという場合だって…の一文。じつに、あるだろう。大した考えもなく何となく俳句に携わっている人は、世に、多い。という、その幾らか軽蔑的な眼差を、読者は真っ先に自分自身へ向けてみなければならなくなるし、筆者の耕二もまたそうしていることが判るので笑いが生ずる。
しかもこれは社会性俳句の影響を難じるニュアンスで述べられている。そうとも限らないが今はそう見ておく。労働者デモを詠んだり反対闘争を詠んだりした、かの社会性俳句こそは、表現したくて表現したくて堪らない俳句で、しばしば政治スローガンに化けた。左翼的アジ文体は昨今とんと流行らないけれども、往時にあっては御洒落で華やかだったに違いない。そのファッションを、抜き取ったら何も無くなりゃしないかと耕二は横目で睨んでいる。この観点からすれば、俳句で革命を叫びたがる昭和人と、特に何もないが俳句をやる令和人と、対極にあるようでそうでない、五十歩百歩だろう。
まこと真面目な態度と云える。が、そこまで真面目を貫くならば、俳句表現をやる意味どころかいっそ、お前なんか生きていて何の意味があるんだと自問する所まで僅か一歩の距離なので、考え過ぎると命に関わる。と、そんな声を掛けてみたら耕二は、そうだ、だからこそ命懸けで俳句の道を進むのだ、と応じるだろうか。応じそうである。勝手に妄想しておいてなんだがこの類のダカラコソには、些か警戒を要する。福永耕二の俳句の才が衆に秀でたものであったことに疑いはない、ただ、有能なる熱血漢は時として無能なる愚者よりも人の世に軋轢を生ずる。軋轢が有益か無益かは別問題である。耕二に接していると、その辺りの機微に就て考え込まねばならない。福永耕二が「馬酔木」編集長を解任されたというがそれは何故か。ソクラテスが死刑を宣告されたというがそれは何故か。そんなことを気にするのは藝術と縁なき衆生の、庶民根性というものかしらん。
西洋人名が飛び出した処で耕二の論に戻ると、登場するカタカナ名はボードレール、ランボー、サルトルの三人である。言及箇所を抽く。
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サルトルは、その文学論において、散文における言葉と詩における言葉をはっきり区別して用いている。彼の言うところによると、散文においては言葉は既成のもので使用されるものであり、詩においては言葉は発見されるもの創り出されるものであるという[…略]彼の意見は、われわれが言葉の便利さに酔って見落しがちな言葉の厄介さというような事について、改めて考えさせる機会を与えてくれているようだ。
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その抒情回復の烽火は、自然主義文学を生んだ同じフランスにおいて、アーベール・ランボオ、ボオドレエルを中心とする象徴派詩人達の中に燃えあがったのであった。彼らは無意識のうちに、散文と詩においては、言葉の次元が違うということを悟っていたに違いない[…略]わが国においても幾多のランボオが出現しその度に抒情の回復が叫ばれたが、その中でも僕の印象に最も強く残っているのは、短歌における斉藤茂吉と、俳句における水原秋櫻子の二人である。
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アーベールというのが不思議なのだが、重箱の隅を突くつもりは無い、単に誤植と思っておく。耕二は、師の秋櫻子、その秋櫻子が敬愛した茂吉、ランボー、の三者を抒情という糸で繋いで捉えている。これやこの師弟愛も麗しき文学観念と云うべきか。耕二は国文科卒でもあり、西洋文学に深く親しんだ形跡としては「カミュの死」と題する文を発表したくらいのもので他には、あまり見当らない。だが、戦前からの小林秀雄を経由してのランボー、また戦後のサルトルと云えば往年の文学青年には基本中の基本という処だろう。時代である。このような補強材料も揃えてみせつつ耕二が持出すのは、さて、言霊である。次のような具合である。
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古代におけるわれわれの祖先の言葉に対する考え方を知ろうと思う時、言霊(ことだま)というものを考えずに理解する事はできぬ。われわれの祖先は、言葉というものにある霊妙な力があり、言葉は一つの行為、一つの実現であるという思想を抱いていた。
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言葉に絶大なる信頼を置いた古代人は、相手が人間であろうと神であろうと、また花や木やその他の自然であろうと構わずに叫びかけ、訴えかけたのである。だから古代人が言葉を使う場合は、すべて祈りという形式をとっている。一つ一つの言葉は、生きた意味をもって自然に、人に訴えかけたのである。この時代の言葉は、もはや祈りか抒情詩かの区別もつかない。万葉集の初期の歌をわれわれが読むとき、言葉が実感としてわれわれの胸に響くのは、やはりそうした古代人の全身的な祈りの姿勢を感ずるからではあるまいか。ここにわれわれは、文学の源泉というものを探り当てるのである。
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国文科の面目躍如たる風だが、それにしても、広く物事の見通しにおいて上昇史観と下降史観との両極があるとすれば耕二は、どうやら下降派に属する。若年のうちから俳句に手を染めるという時点で大方そんなものだろうと思ってもいいがしかし、福永耕二と云えば、青春。と来る紋切型の連想が巷間に流布していることを感ずるので、カウンター情報も汲み取って置きたいのである。伝統を尊重し、懐かしく起源を振り返り、現代への抵抗感を示し、時に嘆き怒りの調子を帯びる。老いているとも云えるわけだ。いやそれなら、反抗的人間こそ青春の体現者だという逆の云い方もカミュなど思い併せて成立つようだが、それでは安直に過ぎよう。何がと云って反抗期イコール青春といった図式が安直であって、いま話題にしているのは十七歳の人間のことではない。
尤も、城ガールという社会現象もあるくらいである。尚古の気風と、人格の老成とは、必ずしも等号で結べはしまい。それを云うなら、明治維新が王政復古を掲げたように未来は過去の回帰によって力強く拓かれる、ゆえに古きこそは新しき也という矛盾。このほうが話としては面白いがそれもまた一般論に過ぎて、焦点が耕二から外れる。かくて、少なくとも本人の言を素直に聴く限り、福永耕二の俳句観ひいては言語観は古代の息吹を蔵していることは判るのだが、ここで再び「沈黙の詩型」という標題を頭に入れ直す。沈黙を弁護するためには雄弁に語らねばならない、その逆説はよくあることとして、むしろ着眼したいのは「詩型」という語法である。その語を耕二は必ずしも、俳句形式と云うときの形式の意と同じには、用いていないようだから。
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俳句は世界中で最も短い詩型である。最も寡黙な詩型である。文学がいよいよ饒舌になろうとしている今日、このような短い詩型が生き残るためには、いま一度俳人が、この沈黙の意味を考えねばならぬと思う。
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秀れた俳句においては、そのような形式的なきまりや約束事が、全て抒情という一つの目的の為に完全にその働きを行使している。それは形式が内容に仕えているのでも、その逆でもない。沈黙の詩型が沈黙の形式を選んだといった方がいい。形式というものは、それは最初から守るべきものとして定められているものではなく、われわれが用いるために選ぶものである。だから、そのような形式的なきまりや約束事を否定する人がいるとすれば、それはその用途に対して確かな信念がない為か、あるいは俳句というものによって何か別なものを表現しようとしている人達に違いない。俳句を沈黙の詩型とするならば、俳句における形式的なきまりや約束事は、いかに言葉を沈黙させようかと苦しんでいるかのようである。
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引用の、前半と後半とで、語の位相がずれている。一方では、このような短い詩型…と述べており、他方では、詩型が形式を選んだ…と述べているのだから。喋っていても書いていても言葉を編むうち言葉がついつい横滑りするのは誰にとっても珍しいことでないし、そもそも実相と人間言語とが一対一対応するわけもないのだが、こういう場面でこそ、発言の真意が顕れようというもの。己の信ずる俳句の正統性を主張する意図が、耕二にはある。結論は既に定まっている。あとは、如何に説得力を持たせられるか。学堂における議論と法廷における弁論とは別のもので、耕二は、ランボーや言霊を証拠調べに供し、弁論をしている。
後半のほうの詩型という云い方は、俳句以前のこと、詩以前のことから考え直そうとした痕跡である。考えてみれば当り前だが俳句自身の中から俳句の根拠を、与えることは出来ない。外国旅行中の日本人がパスポートを紛失するとその日本人は、一時的にせよ、自身まるごとを紛失する。じつは国内でも似たようなものである。自己の確証は必ず自己の外部に頼って行われるほかない。その意味では、今こうしているように日本語を論じるのに日本語を使ってどうするという気分になっても来るのだがともあれ、「沈黙の詩型」の耕二は、用語の混乱をも辞さないほど誠実に、所信を述べた。これは論文であるよりも弁明にずっと近い。再び妙にソクラテスの気配がするが、思い切って断じよう、ここでの耕二は信念の一点張りなのである。検討をするよりも、力説をしている。接してみればみるほど福永耕二とは、信仰者である。ゆえに強い。そうした感を深くする。
強靭な文章は、よく抑え込んだ憤懣から生ずる。そう粗っぽく云ってみて良いとして、つねづね気になるのは、俳句と俳句論との位置関係である。「句と評論」と称して雑誌の名になるくらいであって、一般に作品と批評とは切り離し難い関係にあるとは通例の見方だが、それにしてはどうも、俳句は、論と相性の悪い色調を帯びている。時代風潮のことを抜きにしてもそのような傾きがある。何故か。
松のことは松に習い竹のことは竹に習うから。短すぎるため変に深読みしても詰らない気になるから。立派な人は理屈を捏ねないという通念が日本に根付いているから。佳い俳句は解釈を超えた地平に成立するものだから。天然自然が人間的な意味を持たない以上それを詠む句もまた無意味で当り前だから。
さまざまに言挙げすることは出来るけれども、殊に四番目のなど理由になっていないが、結局、ジャンルはどうあれ世の中には面白い言語使用と面白くない言語使用とがあるばかりだ、という甚だ面白くない結論に引き摺り込まれそうである。ジャンルと云うか。それならば俳句の、俳句にのみ具わる価値とやらを納得出来るよう示してみろ。そう詰め寄られたとき、窮した挙句、そっと、句そのものを差出すに勝る手段は、無いのだろうか。はしなくも今、挙句という語が零れ出た。
評論、批評、随想、小感そのほか呼び方は何でも構わないが俳句にまつわる散文活動というものの意義を捉えたい。意義の有無ではなく、意義の相を納得したい。ビジネスとして見れば、権威と、啓蒙書と、自費出版の句集とだけで以て俳句世界は成立つだろう。藝術運動として見れば、ごく僅かの花形俳人と、論評と、ゴシップとだけで以てやはり成立つだろう。遊戯として見れば…。政治として見れば…。教養として見れば…。 文化装置として見れば…。
見る角度に拠るわけだが何にせよ、そこから逆照射して、この謎めいた俳句というもの自体の意義をも納得し易くなることが、見込める。そもそも俳句に謎など無い、謎めかすから余計に判らなくなるのだという立場を取るならそれも爽快で良い。蛇足として、刻下のわたくしの臆見を記すなら、俳句は一句だけでは藝術たり得ずしかし俳人一個の活動総体は藝術たり得る。
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引用一覧
註1 友岡子郷・平井照敏・矢島渚男・森田峠・岡本眸・福永耕二/『俳句創作の世界』/有斐閣選書/226頁
註2 福永耕二/「沈黙の詩型」/『福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)』(監修)水原春郎・能村登四郎(編)福永美智子/安楽城出版/118頁 以下の本文中引用すべて同じ
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本文中に直接用いなかったが下記は一つの福永耕二証言として興味深い。
「福永耕二のブログ」
根岸善雄氏講演録
http://blog.livedoor.jp/fukunaga_kouji/archives/1048500010.html
【筑紫磐井の鑑賞と批評】
①冒頭の購入した古本の挿話から始まっているが、私はこれはフィクションであろうと思っている。しかし評論を読みやすくするためには一つの技術であり、これはこれで面白いと思う。ただ、冒頭に掲げられている感想は、古本の持ち主の感想ではなく、平野氏の感想と視点を定めて読んでみることにした。
②福永耕二の代表的な評論に、昭和三十六年の「沈黙の詩型」と昭和五十二年の「俳句は姿勢」がある。どちらかといえば、後者がよく知られている。耕二が俳壇的に知られるようになって書かれたものであるし、その3年後に急逝しているから、耕二を知る人たちには哀惜の念が強いのだろう。確かに、耕二伝説と、「俳句は姿勢」はマッチする者がある。しかしそこは、筆者の見識で選んだのが前者の評論であるからこれをとがめるわけにはいかない。
ただそれでも、共通する部分がないわけではないし、「沈黙の詩型」だけで耕二を語りきってしてしまうのはちょっと残念である。ここでは、筆者の見識に敬意を表しておくが、福永耕二論としてまとめるにあたっては課題を留保しておくことにしよう。
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あえて筆者が書いていないことについて補足させていただく。今後の福永耕二論として役に立つかもしれないからである。昭和五十二年の「俳句は姿勢」は「沖」7周年記念号に、記念論文特集として掲載されたものである。当時「沖」は、「沖の評論」を誇示していたところから、評論に達者な中堅・若手に執筆を依頼したものである。この時掲載されたのは5編あり、このほかは、今瀬剛一「打てばひびく抒情詩」、渡辺昭「有季定型の孤独」、大畑善昭「無の有の詩」、筑紫磐井「前衛への回帰」であり、当時の沖の論壇の雰囲気が伝わるかもしれない。私にしても福永耕二と場を並べた懐かしい記憶である。
「俳句は姿勢」はまさにこの題名通りの内容なのであるが、その内容は、若い友人と相馬遷子の対比である。俳句雑誌で頭角を現していた友人Hがある日急逝する。後から重い病気であったことを知るのだが、死ぬ直前まで死ぬことを思わせない吟行作品を詠んでいた。相馬遷子は知られるように医師であり、自分の死を見つめる俳句を最後まで読み続けた人である。こうした対比の中で、Hにとって俳句とは何であったのかと問うことにより「俳句は姿勢」という言葉が出てくるのである(私はこの友人Hも、平野氏の話同様フィクションではないかと思っている)。
その意味では、筆者が「沈黙の詩型」に社会性俳句に対する批判を感じ取っていたにもかかわらず、「俳句は姿勢」は社会や人生から切り離された俳句に対する懐疑に満ちている。相馬遷子自身が社会性俳句や人生派的色彩を持っていたからである。耕二はそんな遷子に共感を寄せていた。
馬酔木の若手座談会で、若い作家は右顧左眄しないで正しいと思った俳句を詠み、選者をこちらに向かせることが必要だと述べているのに対し、そんなことが出来るのは耕二ぐらいであると皆から袋叩きにあって「そうかなあ」と自信投げにこたえている。社会性俳句とは言わないが、従前の馬酔木俳句のきれいごとにとどまらない俳句は一貫して持っていたのではないか。
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冒頭にのべたように執筆の3年後に耕二が急逝しているということが評論「俳句は姿勢」に重要な価値を持つのは、相馬遷子がなくなりその回想を記しているという点にある。
伝えられるところによれば、水原秋桜子の病気、それに伴う堀口星眠の選者代行(その後主宰継承)、耕二の編集長更迭、耕二の病死と続くシークエンスを何の不思議もなく悲劇と受け入れられているのだが、最近ちょっと違うのではないかと考えるようになった。星眠が主宰となった時点で秋桜子に忠実な耕二は害にこそなれ益にはならないと考えたことは合理的と考えるからである。秋桜子の文学理念が星眠の文学理念に変わるためには、つまり馬酔木が新生するためには、編集長が交代しなければならない。それがわからない耕二ではなかったと思われる。これを踏まえれば、新しい耕二の立ち位置も十分考えられたはずである。編集長を交代したことぐらいでなぜ耕二は死なねばならないのか、不思議でならない。筆者の同結社の先輩の仲元司『墓碑はるかなり――福永耕二論』もこうした点でやはり疑問が残される。二つの相異なる立場の伝承は、必ずしも一方の立場に偏らず、冷静に見た方がいいかもしれない。
むしろ結社の経営として悲劇であったことは肯える。対立を調停できる相馬遷子が星眠、耕二に先立つだけではなく、秋桜子に先立ってなくなってしまったからである。遷子はそれくらい人格者であり、馬酔木における存在意義は大きかったのだ。その後の馬酔木の混乱、耕二の悲劇伝説はここに始まるのではないか。こうして耕二は、今に至るまで悲劇に封じ込められた伝説の中で生きているのである。
③余計なことを述べたようだが、耕二の悲劇伝説をいったん断ち切るためには、従来の伝説も断ち切らなければならない。その意味では、「俳句は姿勢」を切り捨て、「沈黙の詩型」に注目するのは一つの見識であると思う。そしてここに浮かび上がるのは、「俳句は姿勢」時代の悲劇的な雰囲気とは違う、青春(23歳)の中に生きている明るい葛藤なのである。いや、暗くてもよい、未来の匂い立つ試行錯誤なのである。
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