2020年6月12日金曜日

連載【抜粋】〈俳句四季6月号〉俳壇観測209 結社のその後はどうなってゆくのか――大牧広の門葉たちを例に 筑紫磐井

「港」同門会
 大牧広が昨年四月二十日に亡くなってから一年経つ。私から見ると「沖」の先輩同人となることになるのだが、当時にあっては常に「異色の俳人」という異名で呼ばれていた。「沖」の主宰能村登四郎・副主宰林翔にしろ、当時の幹部同人、あるいは若手作家にしろ、巧緻さと抒情(彼らはそれを詩性と呼んでいた)を強く出している俳句が多かったように思うが大牧広はひとり、ダイレクトな人間臭さを特徴として持っていた。

名刺よく使ひし日なり夜の蟬
噴水の内側の水怠けをり
台東区汗拭くたびに路地ふえて
もう母を擲たなくなりし父の夏
たそがれの地下一階で鮎食べし
どうしても吾に似てをり蝸牛
鮟鱇鍋悪意のやうに煮えてくる
顔知らぬ人の喪へゆく油蟬


 大牧広というと社会性俳句に傾斜しているように思う人が多いが、第一句集『父寂び』ではそうした傾向は少ない。能村登四郎は序文でそれを「人間表現」と言っており、それは登四郎に共通すると述べている。
 晩年、二〇〇九年現代俳句協会賞、二〇一五年詩歌文学館賞、二〇一九年蛇笏賞と受賞を重ねた。実は恩師の登四郎も順序の違いはあるものの、全く同じ賞を取っている。大牧広が登四郎とこうまで重なるとはだれも予測していなかったと思う。「順序の違いはある」というのは大牧広にとっては意味がある、それは、登四郎が初期に社会性俳句を代表する作品を発表したのに、大牧広の場合はどちらかと言えば晩年にその傾向を強めたからである。
      *
 少し不可解だったのは、体調を崩した大牧広が、「港」の主宰を退き、名誉主宰となったという通知を一月ごろ受けていたのだが、次の二月には「港」を終刊すると宣言したことだった。そして、三月には蛇笏賞受賞決定、四月に逝去と目まぐるしさに驚いたものだった。その後大牧系の雑誌がいくつか創刊されているがあまりその事情をはっきり聴く機会がない。ただ、私が思うところ、「港」の名誉主宰となることは、「港」の行く末を見極めたいと言う強い思いがあったからであろう。その時の名誉主宰就任の挨拶が「私は港を離れるのではなく、さらに一段と高いところから港を見つめていくのである」であったということはこれを裏付ける。しかし、その直後自分の寿命を知った段階で、「港」という名前に拘束されず、弟子たちの事由に任せたいと思ったのではないか、と推測した。いかにも大牧広らしい判断だ。
 興味深いのは、大牧広がなくなり、「港」が終刊した後、「港同門会」というホームページが生まれ、藤が丘句会(衣川次郎)、牧の会(仲寒蟬)、くぬぎの会(波切虹洋)、城北俳句会(木村晋介)が継続的に紹介されていることだ。「港同門会は蛇笏賞作家「大牧広」門下俳人の作品発表と交流の場です」と宣言されている。それぞれからすでに「青岬」「牧」「くぬぎ」という雑誌も創刊されている。普通雑誌が創刊されると、それらの間では必ずしも円滑な関係が維持されないことが多いのだが、「港」に関してはホームページという媒体を活用してうまくつながっているようだ。さらに、このホームページでは、仲寒蟬、早川信之らの結社を超えた大牧広論を蓄積していることである。大牧広の「港」解散の意図は十分果たされていると言ってよいであろう。
 もちろん、大牧門で言えば、「群青」の共同代表櫂未知子や「天為」編集長天野小石もおり一層華やいだものとなるだろう。

「牧」創刊

「港」系の結社で最も新しいのは「牧」である。三月に創刊され、代表は大牧広が若手で最も期待していた仲寒蟬が勤めている。主宰ではないのかという質問に、長野県佐久市の病院の医師を努め、千人近い患者を担当している中では主宰などは出来ないと言う。俳人の立場より医師の立場を重いとするのは立派な心掛けだと思う。佐久市には馬酔木の同人会長を務めた相馬遷子がいる。石田波郷なきあと水原秋櫻子が最も信頼していた作家であるが、開業医として佐久を出ることはなかった。遷子を敬愛する寒蟬らしい言葉である(寒蟬には『相馬遷子―佐久の星』の共著がある)。(以下略)

※詳しくは「俳句四季」6月号をお読み下さい。

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