2019年8月16日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑰ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
 Ⅴ 高木一郎(たかぎ いちろう)さんの場合(1)


 高木一郎さんは、大正7年1月31日、名古屋市に生まれる。昭和15年、日本歯科医学専門学校卒業。昭和16年、陸軍歯科医、満州陸軍病院。昭和20年、日本敗戦によりソ連に抑留、欧露のラーダ・エラブカ収容所。昭和22年11月17日函館を経て名古屋に帰還。著書に『ボルガ虜愁』がある。
 『ボルガ虜愁』は、満州で生別した妻子と名古屋で再会するまでの、2年間のシベリア収容所生活で書き留めた約250句の俳句が中心となっている。
 筆者は、2019年1月13日に名古屋にある高木歯科医院を訪ね、ご遺族である高木哲郎様より、作品の使用について許可を頂くことができた。

【】の表題は、『ボルガ虜愁』で高木さん自身のつけた表題である。
以下*は、『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』の随筆を基にした筆者文

『続・シベリヤ俘虜記』『ボルガ虜愁』から

【ソ連対日宣戦布告(満州国境侵攻)】

秋雨にとどろく砲声官舎街(ボルガ虜愁)
   添え書き:8月11日牡丹江三句
    市中大混乱。騒然として不安、「5分以内に家族を牡丹江停車駅へ」の指示あり。


*牡丹江は満州の資源開発の拠点で工業都市として、日本人開拓団が多く入植し、またソ連赤軍の防衛拠点として関東軍が基地をおいた場所である。
 日本で有れば、立秋過ぎの雨の日、牡丹江の中心地である官庁街に砲弾の音が轟き市内は大混乱となった。「5分以内に家族を牡丹江停車駅へ」の指示があった。
 高木さんは、この時のことを「日ソ開戦の日」として『ボルガ虜愁』P.19にこう記している。
「日ソ戦の日」 20.8.9、ソ連軍が満州東部国境を侵攻の情報を聞いた時、(対日宣戦布告の事は知らなかった)これは「ノモンハン」や「張鼓峰」のような局地戦であって、牡丹江は何の心配もないと思った。 数日後には、牡丹江が危ないと判断すべきであったかもしれぬが、その時はそう思わなかった。無理もない、数え28歳、若かったのだ。

 ここで牡丹江市侵攻について、『関東軍壊滅す』P210~211を要約して紹介する。

 牡丹江市内およびその東方と北東方で、第一赤旗軍と第五軍の各部隊は大激戦を展開した。(略)8月14日から15日にかけて、第一赤軍第26狙撃兵団の先遣支隊は、牡丹江市の北東入口で激戦に入った。(略)8月15日日本軍は反撃によって同兵団先遣部隊を牡丹江から撃退し、わが軍は牡丹江東岸、愛河駅の北方5キロの地区に退却した。(略)第1赤軍の兵力の一部が牡丹江西岸に進出したため、第5軍と共同行動をとって、3方面から同時に打撃を加え、同市を占領することが可能となった。

ちちろ闇子の顔をみるマッチの灯(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
   添え書き:混乱状態の牡丹江停車場のブリッジにて


 *砲弾の音や銃声の合間に、こうろぎ(ちちろ虫)が盛んに鳴く闇の中、牡丹江停車場は避難民でごった返していた。電灯の点かない駅のブリッジで子どもたちの顔をマッチの灯で照らして見た。再会の約束のない別れである。
  
秋雨の貨車に妻子を逃すべく(ボルガ虜愁)
   添え書き:これが牡丹江最後という避難列車。
        駅前のヤマトホテルから持てるだけの食料をもらって家族に渡す。ホテルの支配人の名前もどうして知り合いになったのかも忘れた。


無蓋車に群るる同胞秋の雨(ボルガ虜愁) 
   添え書き:満州の8月は秋雨である。
        小雨の中をハルピンへ向けて発車。


秋雨に婦女子ひしめく無蓋貨車(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁) 
   添え書き:出発時、行く手を暗示する如くすでに難民の様相である。雨具は無く、幼児は泣き、ぎっしりとつめこんだ貨車。


 *秋雨の降る、牡丹江停車場から、避難民をのせた最後の列車(無蓋車:貨車)は、ウラジオ・ストックへの東清鉄道の出るハルピンを目指したのである。
 句に添え書きがあるので鑑賞はいらないが、『関東軍壊滅す』P.213から牡丹江市のことについて補足する。

 牡丹江市は、重要な日本軍の防衛中心地であった。同市はハルピン方面を東方から守る形にあった。それは鉄道、自動車道路の大分岐点であり、満州の政治・行政の中心地でそこから四方面へ(林口―密林へ、綏芬河へ、寧安およびハルピンへ)鉄道が伸びている。

花野行きトラックに火を放ち去る(ボルガ虜愁)
 添え書き:8・12 夕刻、作戦命令により鏡泊湖そばの爾站陣地へトラックで向かう。
      8・13 朝、寧安、昼、東京城、夜、砂蘭鎮
      8・14 より徒歩露営

行けど行けど野の続くなり女郎花(ボルガ虜愁)
    添え書き:8・15 昼爾站到着 
         8・17 日ソ停戦協定成立の噂を聞く

    ※爾站(アルチャン)
    
敦化(とんか)遠し桔梗に野宿重ねけり(ボルガ虜愁)
    添え書き:停戦協定により、敦化まで100キロ徒歩後退する。
         山の中で背中に一人両手に二人の子を連れ空腹で
         ハダシの日本女性(開拓団であろう)に合う。乾
         パン一袋渡し、敦化の方向を教える。


芒野の屍のゲートルわれがまく(続・シベリヤ俘虜記)(ボルガ虜愁)
    添え書き:10.18掖河到着
         門馬某(在仙台)掖河より脱出して奉天にたどりつき
         私の家族に連絡をつける。この事実を日本へ帰国後妻から聞く。


 この時の状況について『関東軍壊滅す』P.214には、すこしでも日本軍の決死隊が地雷を抱いて戦車に飛び込み抗戦を続けるが、16日17時には牡丹江市は陥落。日本軍は、西方及び南西方へ退却したとある。

 *退却の行軍で、トラックをすて徒歩で爾站に着くものの、停戦協定により敦化まで100キロを徒歩で後退した。女郎花・桔梗の花の季節に野宿を重ねた。あたりの芒野に打ち捨てられた兵士の屍からゲートル(西洋式脚絆)を貰い、自分の足に巻き、再び歩くのである。
 このことについて、『続・シベリヤ俘虜記』P.111からも以下に補足する。


 8月15日の敗戦を知らず満州東部鏡泊湖近くの山中で、日ソ停戦 協定のうわさを聞いたのが8月17日の暑い日であった。畳2畳分の白旗を立てたソ連軍のジープがきた。(略)まさか日本の降伏と、その折衝のソ連軍使であるとは、いささかも考えなかった。敦化飛行場で武装解除され、ソ連軍の捕虜となった。沙河沿から掖河まで300キロ、野宿6泊7日で1500人が歩かされた。夜の気温は零下に下がる。

(つづく)

『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』高木一郎著 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日発行
『関東軍壊滅す~ソ連極東軍の戦略秘録~』ソ連邦元帥マリノフスキー著 石黒寛訳 徳間書店 昭和43年4月20日


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