2015年2月6日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 106.くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ / 北川美美


106. くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ



うなだれて蛇口に口を近づける、あるいは手に水を受けて水を飲む。柄杓で水を飲む場合も首を垂れるだろう。水を飲みながら目に映るものは流れていく水、水盤の水、うつむいた姿勢でふと見える風景に未知の世界が瞬間的に広がる。生きていることと死ぬこと、四次元の世界がつながっているように。夏の夕暮れの淋しさに、生きていることの豊かさと死の世界かもしれない別世界が垣間見える。広がる水の世界は不思議な感覚である。

イソップ物語『犬と水に映った影』は骨を加えた犬が水に映る自分の影を他の犬と勘違いする話である。何かの物質、たとえば水、鏡、ガラスなどに映った対象は、被写体を写しつつ実際の対象と別の世界と創りだす。掲句は「飲む水広し」とおおらかな世界を描き、それが死後の世界ならば、黄泉の国の果てしない広さというように感じられる。夏の夕暮れに飲んだ水を飲んだふとした瞬間に広がる別の世界に引き込まれる感覚がある。「くび垂れて飲む水/」で意味上の切れが「ふとした瞬間」を読者に共感させる。ロマンチシズムはふとした瞬間に広がる。


【接続助詞「~て」から考える動詞多用】

「くび垂れ飲む水」の、「て」は、「垂れる」+「飲む」を接続するための助動詞(接続助詞)である。

敏雄全句集を通読してみると、接続助詞「~て」の表記が多く、この助詞使いがどのように一句にまたは敏雄句を構成する要因になっているのかを句集収録句をみながら検証したい。

***
外国語として日本語を教える際、接続助詞である「て」は、<「動詞+て」形>と表現される。

日本語研究者あるいは日本語を学ぶ外国人のためのサイトに興味深い一文がある。

日本語には「光り輝く,投げ入れる,書き上げる」のように,2つの動詞が連接した複合動詞が豊富に見られます。また,「食べてみる,仕舞っておく」のように前の動詞に「テ」が付いた表現も日常的に使われます。世界的に見ると,このような2動詞の連結表現は東アジアから南アジア,そして中央アジアの一部にかけての地域に広く分布していますが,多くの言語はテ形に当たる接続動詞を使っています。前の動詞が連用形に相当する「動詞+動詞型」の複合動詞は,東アジアに限られるようで,中でも日本語の複合動詞は数の多さと表現力の多様性において群を抜いています。 
(国立国語研究所 複合動詞レキシコン)

上記の日本語の動詞の特徴をみていると、日本語は、「2動詞をより短く表現」することに長けている言語と解釈できる。それはまるで最短の詩型、俳句のためにあるようなものである。

「て形」と「複合動詞」を駆使した句は、『まぼろしの鱶』『真神』『鷓鴣』までの敏雄句の文体上での特徴とみている。


新興俳句により俳句に目覚めた敏雄は、当時の新興俳句の詩的ロマンチシズムをどう俳句として確立させるかということに面白さを感じていたと見受けられるが、更に新興俳句内の戦争という重いテーマでありながらその切迫感、動作表現による躍動感が繰り広げられた「戦火想望俳句」により、俳句という型の中での動きの表現に習作したと見受ける。 動詞の多用である。


***

敏雄俳句愛好者として下記を分析してみた。

実際に動詞多用を俳句の五七五型に入れ込む場合、三パターンが方法として考えられる。

1.重文(2動詞が離れている) 
2.「動詞+て形+動詞」(2動詞が連なっている) 
3.複合動詞



「て」の接続助詞をとるのは、動詞多用のゆえの方法であることが過去の作品からもわかる。
その動詞多用が敏雄独特の複合動詞表現に繋がっていくというように見える。
以下、動詞多用をとる際の 1.重文 2.動詞+て形+動詞 3.複合動詞についてみてみたい。


1.重文(2つ以上の動詞を一句に納めている場合)



「複合動詞」の名づけ親でもある山田孝雄著の重文の項をみてみる。

「重文といふのは、思想上対等である二以上の句が形の上で拘束を以て列なり重なって一礼をなしたものをさす。上句として特に目立つのは副語尾「て」の導きによって重ねたものである。」(『俳諧文法概論』山田孝雄)

 旅に病で、夢は枯野をかけ廻る 芭蕉 
海くれて、鴨のこゑほのかに白し 〃 
三葉ちりて、跡は枯野や桐の畠 凡兆

江戸俳諧の時代より「て」の導きにより重文を構成する先達の句がある。

いっぽう、新興俳句の特徴として、西洋詩の散文的一行詩を意識するという傾向がある。当時のプロレタリア文学の影響もあるが、文体としては、新体詩の七五調がさらに自由に一行詩として表現されている印象だ。しかし、やたらと動詞の多用を見受ける。

具体的には、切字(や・かな・けり)を排除し、動作に重きを置くことを文体としているのだ。

ではどのように動詞多用を一句に納めたのかを白泉をはじめとする敏雄の周辺作家からいくつかみてみたいと思う。


我が思ふ白い青空と落葉ふる 高屋窓秋 昭和7 
白い霾に朝のミルクを売りくる 

バスを待ち大路の春をうたがはず 石田波郷 昭和8
霧吹けり朝のミルクを飲みむせぶ    〃 昭和9 

秋の夜を生まれて闇なきものと寝る 山口誓子  昭和9
堪へがたく灼けし機体の一部に触る 〃     〃

カンテラと駅長と現れ猟犬を賞づ 西東三鬼 昭和9 

はるかまで葡萄玉房垂るる見ゆ  渡邊白泉 昭和9
銀杏ちり空の紺青ききはまりぬ  〃 昭和10
街燈は夜霧にぬれるためにある  〃   〃
われは恋ひ君は晩霞を告げわたる  〃 昭和12年


恋人は土龍のやうに濡れてゐる 富沢赤黄男 昭和 10

足痕の巨きく乾き曇りゐる 阿部青鞋  昭和11

かもめ来よ天金の書をひらくたび   敏雄 昭和 11
少年ありピカソの青のなかに病む    〃   〃

落日をゆく落日をゆく真赤い中隊 富沢赤黄男

包帯を巻かれ巨大な兵となる     渡邊白泉 昭和13年 
天兵が赤き機銃を抱き翔けぬ            
銃後と言ふ不思議な街を岡で見た    〃    〃
遠い馬僕見て嘶いた僕も泣いた   〃    〃
海坊主綿屋の奥に立つてゐた     〃   〃

射ち来る弾道見えずとも低し  敏雄  昭和13
空を撃ち野砲砲身をあとずさる  〃   〃
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ  〃  〃
地を兵を戦車現はれ掻きむしる  〃  〃
支那兵が銃を構へ来り泣く  〃   〃

※このあたりは、接続助詞の「て形」は「~てゐる」を見るくらいにとどまる。

※参考までに新興俳句における形容詞多用もひいておく。

藁に醒めちさきつめたきランプなり  富沢赤黄男(形容詞多用) 
あつくあつく世は戦へり君と会へり 高屋窓秋 (形容詞多用)
赤く蒼く黄色く黒く戦死せり  渡邊白泉(形容詞多用)
高き寒き暗きをかしきありて  (形容詞多用、動詞+て)

2.<動詞+て形+動詞> 



新興俳句は、動作、感情の文体を、漢語(和語に対する)、動詞を多用しテーマを戦争という無季にしぼりかの戦火想望俳句を作りだしてゆく(194043言論弾圧により新興俳句は消滅する)。

「動詞+て」形は、渡邊白泉句に多くみられる

堤塘を遠くもちゆき帰る  渡邊白泉 

戦争が廊下の奥に立つゐた    〃
石橋を踏み鳴らし行き踏み帰る   〃

憲兵の前ですべつころんぢやつた  
 
スクラムのとけくずれゆくところ  〃 
凧の糸垂れき海にとけゐる     〃     
塵の室暮れ再び鷓鴣をおもふ     〃  


上記で敏雄の「動詞+て」形は白泉からの影響を大いに受けているとみて正しいだろう。白泉の句「動詞+て」形、形容詞連続使用はその文体から「俳句らしさ」を遠くにおき、「俳句の新しさ」を求め、俳句にできる可能性を一行の中に示しているようにみえる。しかしながら新しさを求めるために白泉がこの文体を生んだのではなく、当時の社会情勢に真っ向から異を唱え、それを詠むために、俳句の型に捉われる必要はなかったと理解するほうが真っ当だろう。それだけ白泉は純真であったのだ。



白泉の句を文体からみると、動詞あるいは形容詞の多用により躍動感切迫感とともに不思議な一句の構造がとられ、新興俳句の中でも白泉は超異端児のようにみえる。川柳の鶴彬に「手と足をもいだ丸太にしてかへし」があるが、鶴彬は1937年治安維持法により検挙されている。 どのように白泉が白泉句を生み出していったのか、その人となりに興味が湧く。 敏雄と白泉のかかわりについては、『青の中』の後記に白泉を敬う気持ちがつづられている。。


重ねて思へば、昭和十六年の西東三鬼は、全く筆を折つて沈黙してゐた。が、渡辺白泉はちがふ。なほ、俳句に強く執着する姿勢を崩さず、それまでの自己の表現方法を問ひ直しては、発表の当処ない作品を刻刻と書きとめてゐるのであつた。同時期の私が、その白泉や、後れて出会の機縁を浴びた、阿部青鞋氏等による、俳句古典に近附かうとする姿勢の影響下に、言はば出直しを計った経緯も、前記『太古』自序引用部に見られる通り、決して故なしとしない、之を言い換へると、私に於ける新興俳句の志向を一時的にも断念し、それ迄の私にとつては未知の、古典の表現力を、初心に帰つて身に附けたいと考へ初めた訳である。 
俳句表現に在つて、新しい姿情は、新しいといふだけで、多少の価値を認めることも出来る。だが、古典の姿情に追随する限りでは、さうは行かぬ。先蹤の何れかに忽ち似通つてしまひ、徒に、古い表現様式の中に耽溺せざるを得なくなる。二箇年余の応召期間を一水兵として暮らし、敗戦後復員した私が、西東三鬼に再会した時、三鬼は、私の取り出す句稿を一瞥して、「まだオニツラをやつてるのか」と嘆いて下さった。
『青の中』後記




敏雄の「+て形」は、初学から三鬼没年あたりまでの句を収録した第一句集『まぼろしの鱶』(発行年としてみる第一句集)の中に多くみられる。

家鴨浮けり誰かに會ひ帰りたし 『太古』

梅雨時計鳴りつぐ路地を勤む 『まぼろしの鱶』 
組みあひ降つくるなり牡丹雪 
刈つ行く田の寒くなる日暮かな 
竈火を映しうごく冬の家 
梟の顔あげゐる夕べかな 
乾く暗礁の牙全き春 
汗は塩座し帯びゆく放射能 
とまる鳩胸爽やか窓のふち 
新聞紙すつくと立ち飛ぶ場末 
富み老いたる観光団発つ空中へ 
雷雨乾く今日のベンチを老い待つ 
一日のひげ撫で鳴らす生き凍り 
死して師は家を行くもぬけの春 
こがらし聞ゆ土中に生き眠るもの 
銀の泡珊瑚をはなれ昇りくる 
買つ出る百貨店西東忌 
掘つ当る地下水呑めや歌へ 
休火口底芒来て生え枯れ 


くび垂れ飲む水広し夏ゆふべ 『真神』 
撫で在る目のたま久し大旦


初午や行き還らぬ兄ふたり 『鷓鴣』 
秋の木に秋のひとかげ映る 
あてきけば秋の木笑ひけり 

夏陰を蒼褪め過ぐ乳の人 『畳の上』 
春山に向ひ坐る二階かな 
死に消えひろごる君や夏の空 
螢火に横縞あり放つ 
螺旋階の裏のぼる白き秋 
蹼をゐる鴨よ残りけり 


富士の灰降りかむさる未来あり 『長濤』 
冬浪に向ひ下るみよしかな 
船窓を閉め入れざる冬の浪 
つくる丸を打消す銀河の下 
廣島の市電に乗つ悲しむ 
礒岩に隠れ紛ふ夜の父 

秋の蟬羽根を開い落ちにけり 『しだらでん』 
南極老人星(カノープス)低きところに来る 
生き知るソ聯崩壊蟲しぐれ 

烈風のマスト糞ひりき登る


※『真神』収録では<くび垂れ飲む水広し夏ゆふべ><撫で在る目のたま久し大旦>の二句が <動詞+て形+動詞>と判断している。


3.複合動詞



64句目(撫で殺す何をはじめの野分かな)の項で記述。

撫で殺す何をはじめの野分かな 『真神』 
噛みふくむ水は血よりも寂しけれ   『真神』『巡禮』 
裂き捨つる靑蘆笛を平野かな   『鷓鴣』 
飲みほぐす代代の眞水や夏くさし   〃 
せせり食ひ餘すは海の針の骨   〃 
踏み捨ての石も霰も武州の産   〃 
行き伏しの顔もて撫でん春の海   〃 
押し當つる枕の中も銀河かな 『巡禮』


「て」は動詞多用の接続として大いに敏雄句に登場するが、敏雄独自の複合動詞も実は「て」を省いたものという捉え方ができる。

例えば、「撫で殺す」は「撫で殺す」からの発展形だろう。
以下、「て」を入れてみる。


噛みふくむ ← 噛んふくむ 
裂き捨つる ← 裂い捨てる 
飲みほぐす ← 飲んほぐす 
食ひ餘す  ← 食っ餘す 
踏み捨て  ← 踏ん捨てる 
行き伏し  ← 行っ伏せる 
押し當つる ← 押し当てる



***

敏雄の動詞使いには、新興俳句で目覚めた十代からの動詞の歴史がある。『真神』『鷓鴣』以降にその独自の複合動詞が登場していない(現時点で多分ないと思えますが、再確認致します。)と見受けるのだが、<動詞+て形+動詞>の登場は最晩年の句集『しだらでん』にも登場し、調べていると嬉しい限りだ。低俗な表現をすれば、敏雄がどのような動詞使いをするのかを見ているだけで「わくわく」するのである。








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