2026年10月23日金曜日

【連載】新現代評論研究:天狼つれづれ(13)「実作者の言葉」…「白子の太夫」 米田恵子

 「実作者の言葉」に「白子の太夫」が出てくるのは、「天狼」の昭和25年4月号である。このとき誓子が住まいしていたのは、鈴鹿市鼓ヶ浦という海岸沿いの別荘であったが、その中心の街白子(しろこ)である。今も近鉄には白子および鼓ヶ浦という駅もある。「白子の太夫」は、4月号の次に5月号・6月号・8月号で4回出てくる。

 誓子は、昭和16年9月に四日市市富田に移ってきてから、昭和21年6月に四日市市天ヶ須賀海岸に移り、そして戦後の昭和23年10月、ここ鈴鹿市白子鼓ヶ浦に住んだ。どうして転居を繰り返したかというと、それは別荘の持ち主の事情であり、誓子は仕方なく転居を余儀なくされたのである。

 誓子は、白子に引っ越すと、しっかり俳諧の文献に「白子」という地名が出てくるかということを調べたとある。さすが、考証好きの誓子である。いろいろ調べるうちに一番興味をもったのが「白子の太夫」だと述べる。誓子は、その土地について調べるとき、江戸時代の『名所図会』を必ず見るが、今回も『伊勢参宮名所図会』を繙き、白子の名産として「策麺(そうめん)」と「伊勢型紙」が挙げられているのを見出だす。

 現在も伊勢型紙は、江戸小紋や京友禅などの型染めに用いられる型紙である。現在は伝統工芸品の扱いのようである。この地で型紙の原紙である渋紙を製造する南部若太夫という人を知り、その人は俳句も作るという人である。白子には太夫を名乗る型紙屋が5軒あり、その一軒だそうである。誓子は、この白子の町に太夫を名乗る家があるということに興味を持ったのである。

 「太夫」というと、私のイメージでは遊女または文楽の浄瑠璃の語り手を太夫と呼ぶ。しかし、伊勢型紙の製造者も太夫ということは、そういう芸能関係ではなく、誓子は『大言海』から、「長者」という意味を引き出し、「白子の太夫」は「白子の豪商」という意味だとする。今はひっそりとしたこの白子の町は港町でもあり、商人たちの流通の拠点になっていたようで、伊勢型紙といい、「長者」がいても不思議はないようである。

 さらに、誓子は本居宣長がたびたび白子に宿をとったということに注目し、本居宣長から賀茂真淵へ、村田春海へと調べはすすみ、江戸時代の国学者の世界へ入っていく。参考にしたのは『鈴屋門人録』であり、国学者たちとそれぞれの「太夫」について調べてゆく。

 誓子は8月号で「そのやうに白子の太夫達が商人として家業を営む傍、宣長の学問に直結してゐたことは興味の深いことである」と締めくくり、「白子の太夫」の探査を終わる。

 文化の発展には、裕福な商人などの後ろ盾は欠かせないものであり、「太夫」と名乗る豪商たちが国学者たちを支えていたのは確かなことであろう。誓子は、きっと自分が住まいする白子という町の文化水準の高さも示したかったのではないだろうか。

 この「太夫」の調べのきっかけとなった、南部若太夫は、昭和34年4月29日に、自宅に「渋臭き町木枯の海へぬけ」という自分の句碑を立てている。誓子の「木枯」の句をもじったような句であるが、揮毫は誓子である。昭和34年というと、誓子はすでに西宮市苦楽園に転居していたときであるが、除幕式に出席し、誓子の挨拶に、南部若太夫の満面の笑顔の写真と涙ぐむ写真が残されている。この人も、きっと、表立っての助けはなかったようであるが、陰になり、誓子を支えたことには間違いない。

(付記)有難いことに筑紫磐井先生のご配慮で掲載いただいていたチラシの山口誓子特別展「誓子と三鬼」は無事終わりました。ホッとしております。設営は何やかやと2日ほどかけるのですが、撤収は1時間ちょっとで終わります。虚しい風も吹き抜けていきます。