あとがきから著者の言葉を拾いたい。
句集は、作品の集大成であり、心の軌跡でもあります。あるいは自分史のようなところもあります。それだけにまとめるには、相当な体力が必要でした。
このたびは自然風景だけにとどまらず、心の風景にも挑戦しました。事実とも非事実とも知れぬものを描きたかったのです。
女性の心の機微を包み隠さずに俳句にした三橋鷹女俳句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」「白露や死んでゆく日も帯締めて」などを彷彿とさせる俳句もありましたが、私は、あまり共鳴句としていただけませんでした。そこに事実とも非事実ともしれぬものがあることを俳句というより現実が受け入れてくれるのか危惧する。その作者の心の模様が火炎樹のような女性の髪を燃え立たせるような表紙画や本の装丁ともマッチしている。それでもその激情の俳句を包み込む俳句形式や季語があることでよりその心情が浮き立つように思える俳句を今回は見出してみたい。そこに佐藤文子さんの師で故人の穴井太のモノに託す俳句の生き様があるかもしれない。
少年はや男の匂ひなんぢやもんぢや
本句集の特色は、男性や女性の「性」や人間の機微をあらわにしたところにある。
少年の成長は、蔓のように辺り一面へと躍り出るダンサーのようにこの世界へと巻き付いてくる。その男性の性(さが)に早くも男の匂いを嗅ぎ分けつつも「なんじゃもんじゃ」という春に雪が降り積もったような花を咲かせるヒトツバタゴという木に心を託す。それも踏まえてもこのユーモラスな踊り出したくなる語感も少年から男性への成長を女性目線で喜ばしく見ている感じがとても微笑ましい。
極上の肉を叩けり女正月
勝独楽の回り続ける孤独かな
春一番麻酔の身体揺り起こす
見舞客拒み日永を耐へてをり
病窓に映ゆ春闘の赤き旗
火あぶりの鮎を見てをる男たち
淋しさも混じる葡萄の房の密
濁り鮒上手に泥を吐かせけり
燃ゆるまで時間のかかる花カンナ
相続の話に入らぬ鬼やんま
絡むだけ絡んでをりぬ葛の花
つつかれて口を割りたる青あけび
今の時代は、女正月の方が豪勢なのよね。極上の肉を叩きながら沖縄の御馳走の豚の顔”ちらがー”が、にやりと微笑んでおります。
いつの時代も勝者の歴史が時代に刻まれがちですが、その勝者を擬人化した独楽(こま)には、栄枯盛衰の翳りが地球の自転のように射している。勝ち続けて回り続ける独楽のその間(ま)、その人生に孤独があることを作者自身の投影のように噛み締めているのかもしれない。そこには、事実と非事実を抱擁しているであろう俳句文学の息吹がある。
麻酔から覚めて身体を揺り動かす様は、実体験であろうか。この俳句たちを読みながら鑑賞者たちも春一番のように揺さ振られる。
見舞客には、見せたくない。そんな日永を耐える病者の心理をよく俳句化されている。
病院の窓から映画のいちシーンのような春闘の燃え盛る赤い旗が翻る。この病者とより良い世界への萌芽の色彩のコントラストのある対比も絶妙だ。
男たちは暖炉を囲んで鮎の火炙りを見つめている。その土地の記憶をその異性たちを覗く女性の距離感も見逃したくない。
葡萄のたわわな密をセクシーな抒情性を混ぜて詠う。
濁った水中での鮒の生息する泥の時間を感じつつ女性たちの俎板裁きの準備は、粛々とたんたんと進む。
花カンナに女性の燃え立つまでの男性との会話のやりとりから序章のごとく時間のかかることよ。なんて女性は、私のような男性のロマンスを小突いているようにも思えてお恥ずかしい。
ぎすぎすしがちな相続の話しに入らない。そう決め込んだ鬼やんまの擬人化も秀逸。
秋の七草の一つとして古くから親しまれ、近年は二日酔い対策や脂肪減少のサポート成分としても注目を集めているマメ科の葛の花に託された絡むだけ絡む人間模様に脱帽。
核心をつつかれて口を割る青あけび。だが女性のあれにも似て男女のエロスもこう冷徹にみられる現世のなんじゃもんじゃな世界観があっぱれ。あっぱれ。あっぱれ。
洋梨や摩耗劣化の平和論
人間模様にちらりと社会や平和論をぴりりと辛目に批評眼の社会詠のスパイスをほどこしているのも脱帽です。
いつかの穴井太の言葉で「独断の醍醐味」のような真骨頂は、此処にも健在だ。さらなるいただきへと蔓を伸ばして伸び伸びと俳句を昇華させて欲しい。進むべき道を師や俳句仲間と蔓の成長のように謳歌し続けて欲しい。
今回は、共鳴句として句集にたくさんの付箋紙を貼りタイピングをしましたが、無しで御願いいたします。素晴らしい句集を読み込むのに時間はかかりますが本当に人生の先輩たちの生き様に学ぶ点は多々あります。
ありがとうございます。