2026年10月9日金曜日

【未来俳句・短期連載】呟きは形式に先行する——未来俳句宣言への応答——  下谷陽太

【下谷陽太(しもたに・ようた) 海城高等学校。第二十九回俳句甲子園にて海城Aの一員として優勝、「明日には今日は昨日になる 泳ぐ」で最優秀句に選出。】


 筑紫磐井氏の宣言に多くの応答が寄せられた。

 作句歴2年、未だ俳句のはの字も知らないような私であるが、応答してほしいとの依頼が来た。分不相応な大役を賜った。おそらく、高校生の私は数多の応答者の中でも最年少なのではないか。もっとも”未来”に近い立場として、初心者なりに、これからの俳句について議論できれば幸いである。


1.定型に対する考え

 まず私にとって定型とは、

 たまたま言いたいことが17文字、もしくは575であったから、ありがたくその形式をお借りさせていただく

 それ以上でもそれ以下でもない。言いたいことが短ければそれは短律になるだろうし、言いたいことが長ければそれは短歌になる(私自身短歌にも触れているので)。

 この点においては過去様々な議論がなされていると思うが、「言いたいことを言うための器」として、17音前後という長さはちょうどいい。それを補強するものとして瞬間性であるとか、そういった話に展開されていく。納得である。では、定型にはどんな意味があるか。和歌以来守られてきた5と7という数には、歴史的文脈だけでなく、たとえば奇数音であることに音声学的な意味を見出す、という研究も過去なされてきただろう。しかし、無理にそれに固執する必要はあまりないと思う。文字数合わせに躍起になって、構成に意識が傾けば、その句に私は強い作為を感じてしまうだろう。575は、口誦性を高めるための導火線に過ぎない。詩である以上、視覚として読むだけでなく、声に出して詠むことの重要性は確かに強調したい。一方、声に出して気持ちの良いリズムなど、いくらでもあるはずだ。それを探究していくのが未来を志向する私たちの使命だと信じてやまない。


2.短律に対する考え

 さて、短律はどうだろうか。

 これもまた、たまたま言いたいことが短律だっただけだ、というスタンスを私は取りたい。

 筑紫氏をはじめ、その他自由律俳人が短律の試行を繰り返している。このこと自体には、私自身大きな関心を寄せている。

吾と無  筑紫磐井

 この句は特に、極限まで情報を削ぎ落とした、短律そのものを非常に巧く表していると思う。

 無駄を省いて極限を志向するという精神は日本の風土で培われてきた伝統的なものだ。一方、その短さを目的に据えることには控え目な立場を取りたい。人々の共通イメージを喚起する季語(その認識自体全体主義的で嫌いだが、今回はさておき)を排し、自句自解を要請しない短律は、個々の読者に委ねられているという点において開かれたものであると同時に、閉ざされたものでもあると思う。発信するもの、受け取るものが放射状に交錯し、それを紐解くことができるのは短律の実験者らに限られてしまうかもしれない、というのが理由だ。私自身が、平易な言葉で(表現上)ストレートに編むことを信条としているのもあるが、それ以上に、短律が実験の域を超えることはあるだろうか、そう考えてしまう。もちろん私は願ってやまないのだが。ただこれらは、それ以前に俳壇という土壌の問題かもしれない。

 そして、やはり私は、何事も手段として吸収したい。言いたいこと・呟きがまず先行して、その漏れ出た言葉を受け止める皿として、短律を置きたい。目的にはしたくない。それは私が、俳句を大きな独り言、もしくは呟きだと思っているからだ。難しい技巧やレトリックは作為に過ぎない。いや、これまでであれば作為でも良かったと思う。しかし私たちの眼差しは常に未来へ向いている。作為は生成AIでもできる。彼らはたくさんの言葉を知っている。では生身の我々に残されたことは何か?それは、血の通った独り言を呟くことだ。身体論にも関わってくることかもしれないが、人間としての感覚・叫びを、できるだけ屈折させずに、その体温のまま表現することだ。

 体温を持った我々の言葉が、冷たくなってしまわないために、やはり形式はあくまでも手段であり、目的にしたくはない。各個人が、極限まで削ぎ落とされた想いを持てば、自ずと短律は口からこぼれ落ちるはずだ。

 新たな形式への志向は、新たな道を開拓するという点においては非常に革新的であるが、形式にこだわるという点においては、定型を保守する思考回路と根本は同じ、だと私は思う。確かに形式は大事だが、こだわりすぎると作為になる。

 少し別の話だが、これは短律であろうとなかろうと、無理に共感性を求める必要はないと、個人的には思う。別に独りよがりでもいい。独りよがりな大きな呟きが、誰か一人にでも伝われば、それは独り言ではなくなるのだから。私たちは、その一人を探して、そしてその人が一人目になることを願って、言葉を吐き続けるのだ。


3.実作者として

 以上述べたことが、季語や定型の縛りを持つ俳句甲子園という土壌に育てられた一人の高校生の意見である。

 私は、俳句を作ろうと思って作ることは滅多にしない。いや確かに、締め切りまでに何句作らなければ、という意識はあるのだが、よし今から句作だと言って机に向かって歳時記を開くことはない。即吟を除いて。基本的に、頭に降りてきた言葉しか使わない。兼題として季語が与えられても、季語を目の前にせずに頭の中で連想ゲームをしながら言葉を編むことはない。ふと思ったことを、書き出して、それをふと季語と取り合わせてみるのである。季語が目の前にあれば、ふと降りてきたフレーズに季語が含まれているのだ。

 何をそんな理想的な。そんな超人的なことができるわけなかろう、と思われるかもしれないが、事実、大してできない。私は多作が苦手である。それは、作為を嫌うことの裏返しかもしれない。俳句甲子園に向けて、各兼題で私が作ったのはせいぜい5句程度である。しかもそれらはほとんど兼題発表当日か、数日後の句ばかりである。ある種の新鮮さは必要なのかもしれない。また、575の定型に収まっているのは、提出した7句中2句にとどまっていた。形式に縛られたくないという想いは、私にもあるのだ。

 その点において、俳句甲子園という場が、いかに血肉を伴った呟きを輩出できるかは、議論の余地があるかもしれない、などともう出場することのない高校三年生が無責任に言うのを許してほしい。

 何はともあれ、山根もなか氏の言うように、器はいくらでも増やすべきである。それが短律であろうと日本語でなかろうと、俳句の目指すものはユニバーサルであるはずだから、それ相応に様々なアプローチがあって然るべきだ。

 筑紫氏の宣言に戻るが、私たちは作者として、連帯はしないのだ。制約に縛られず、各自がやりたいことをやれる環境が整っていくことは短詩の未来に他ならないと思う。和歌・連歌・俳諧、と、いずれの時代も新たな表現を志向してきた、その産物が俳句であるはずだ。その産物を、伝統だ伝統だと後生大事に、有季定型だとか花鳥諷詠だとかそうやって守り抜こうとする気持ちはわからないわけでもない。なぜなら、彼らの愛する俳句は新しかったからだ。ただ、いっときの革新という、過去の栄光に縋り付くのも結構だが、それは、常に未来に顔を向けてきたという、それこそ“俳句の伝統“への冒涜ではないか。その点で、私は未来俳句宣言に共感をしたい。過去に見たことのない風景を見たい、大いに共感する。

 新たな選択肢をたくさん持つことは大事にしたいが、それだけに縛られて、手段を目的化することには控えめでありたい。一方、新たな選択肢を受け入れる土壌は醸成されるべきだ。それが私の結論だ。