2013年1月4日金曜日

戦後俳句とは いかなる時空だったのか?/堀本 吟

(1) 《俳句史的視点の入り口》 磐井への手紙

筑紫磐井さま。予定ではつぎのようなベクトルを持って進めようと思っています。

①和田悟朗の現在的位置。(後述)

② 戦後俳句の、敗戦直後の新人であった、津田清子の主宰誌の終刊に触れて、蛇笏賞の句集『無方』以後から終刊までの、句と比較検討すること。(このためには、「天狼」初期の再読が必要になりますけれど。)

津田清子は、みるところ、「天狼」の系譜の中ではかなり特異な存在です。津田清子の「圭」が8月号で終刊したこと。理由は、「体力の限界」、ということで、あっさりした終刊の辞です。清子現在93歳。山口誓子、25歳から橋本多佳子の指導下に育ち「天狼」直系の女流。多佳子の死後、「沙羅」「圭」を主宰し、92歳まで続けました。文字通り戦後の俳句の営為がひとつの終わりをきたしたのです。彼女の天性のカリスマ性によって、俳壇のアイドル化されてきましたが、橋本多佳子、桂信子、三橋鷹女の後を襲いながら、彼女個人の個性は、いわゆる母性や女性性を表に出さないで女流俳句の強さをみせた人です。そのことは、どこかの場で言っておきたいのです。奈良の地で初期「天狼」の建設精神の根源俳句を全うしてきたこの地味な女性の単独者の風貌は、戦後俳句の一隅に生き続ける、いや、私がそのように位置づけたい、と思っています。

③「京大俳句」(戦前の)にあらわれた戦後的モチーフ、および同誌に投稿された「戦争俳句」の研究は、注目すべきです。 

「京大俳句」読む会は、大阪俳句史研究会の分会ですが、これのみを独立したテーマに掲げ、読書会がおこなわれています。昭和15年の京大俳句事件(俳句弾圧事件)まで、この大学同人誌が包んでいるテーマやモチーフは、戦後にひきつがれる要素が散見します。また、新興俳句の理論付がそうとう公式的唯物論なのですが、しかし、その自らの理論の粗い網をくぐり抜ける、彼らの直感は正しいのです。戦争や国家の弾圧自体も無効にして戦後に直結するモダニティがあります。代表の西田元次氏の悲願である戦争俳句の研究についても、この世代の後世へのメッセージとして、受け止めておきたいものです。

④ 昨年9月8日 「攝津幸彦再読」のシンポジウムを神戸文学館で催しました。

攝津幸彦の母校にあったチャペルが神戸文学館となり、そこで攝津を語ったことは、大きな意味を持ちました。神戸市民の自主的な文化活動のにひとつであるから、企画は大橋愛由等(生粋の神戸っ子)が中心。内容からして、関西の豈の俳句側の同人が協力しコンセプトの大枠を作り、チャンスを捉えての動きが必要だったので、おおかた大橋氏と堀本が即断で進めてしまいました。しかし、参加者は、近在の「北の句会」メンバーや「京大俳句読む会」の友人。詩や自由律俳句、短歌、川柳真摯な多様な関心のもとで実現したものです。

このシンポジウムで中村安伸(実家が奈良、住居は東京)が、私が使った「1970-80年代俳句ニューウエーブ」という言い方について、中村、堀本との認識のズレがあることをいいました。彼に言わせると、自分は、小林恭二の『俳句という遊びー句会の醍醐味』1991岩波新書)によってカルチャーショックを受けたというのです。

(参照。中村安伸《俳句のニューウエーブとはなにか》。詩客ー「俳句時評」六十九回。2012年10月4日投稿)

この反論は貴重であり、こういうことを、話し合わねば、戦後俳句の初期と平成にまたがる戦後世代の戦後間のズレは埋まらないように思われます。埋まらなくともいいが、お互いこうだったんだという自己認識が深まりません。もちろん、いろんな不備やツッコミの限界があった。その反省も含めて、いま攝津津幸彦を読むことの必要を改めてかんじました。このことは、紙媒体の方の豈と連動して、私の立場から詳しく総括するつもりです。

 

(2) 《戦後の危機感と開放感》 和田悟朗の「地球」の句

2012年、私にとっては、転換や節目をおしえられる動きが生じた。  磐井氏にメールを出した項目の①に挙げた俳人がいる。

和田悟朗は1923年生まれ。現在九十歳になんなんとしてをり、昨年3月、東北の災害の直後、第十句集『風車』を刊行した。(2012年3月刊行・角川書店)。生駒市発信の新しい同人誌「風来」は三年目にはいる。ちなみに、私はその「風来」に創刊以来参加している。

和田は、日常的小景よりは包括的な深遠な大景の書ける俳人である。兜太や橋閒石や赤尾兜子、はたまた高柳重信等に先導され刺激され拮抗しながら、あの知的に見えてとりとめないところもある作家像を短い十七字の世界に立たせている。そういう俳句を和田悟朗は作ってきたのである。

「地球」「宇宙」「時間」「光束」など、観念操作のいる用語は悟朗の独壇場ともいえる目新しい使い方だった。その「宇宙」や「時間」や「地球」や「津波」という言葉のほうがいまや日常的に目に見えるほど、自然災害がめだっている。
台風や地球の水を繰り返し  和田悟朗 『風車』
大地球小地球など柘榴裂け   同
あらためて、丸い球の表面に海や川があり風の動き方次第で波がたったり河があふれたりするその水の循環が「台風」というのだ、と自然の法則を教えられるうちに、循環論法のようなとりとめない思索の回路にはまってしまう。

「地球」と「裂けた柘榴」の配合・・、これは、日常のちょっとした思いつきなのかもしれないが、一転して銀河系のどっかから見下ろされている視線も思わせる。なんの社会的な言辞も書かれていなのに社会性をおび、一層のリアリティをもっている。和田悟朗にしてみればこれは今に始まった手法ではない。

俳人は老いて九十歳になったいま、戦後のテーマを包括的にあらわす場所に追い込まれてきたのだといえる。
春鹿に光束蒼し開眼日   和田悟朗『風車』
「春鹿」は春になって、全身の毛が抜けて惨めっぽくなっている鹿。「光束」は単位時間に伝般される放射エネルギーを光の量を、視感度で測ったもの。「開眼日」は、この季節に使われるならば、天平勝宝4年4月9日(新暦752年5月26日)の東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)の開眼供養が有名。新仏に目を入れる供養は一般的な宗教行事である。

「春鹿」「光束」「開眼」。この、活きる世界のちがう三つの語彙の組み合わせは。読む方をいささか当惑させる。これは何を真意とするのであろうか?

私は、あえて「光束」は燦々と春の日が降ってくる、ととり、「開眼日」は、奈良の大仏さんの聖武天皇が主催したあの「開眼日」というありがたいおめでたい日に決めた。みすぼらしい春の鹿が春の光を浴びている。おりから、大仏さんの開眼日、鹿は、慈悲の光を浴びて、「春」という言葉の言霊の使いのように、みすぼらしさではなく生命の勢いを取り戻す。今日はとりわけこの光が蒼く見える、というのがまた心憎い。「蒼し」はかなりモダンな色目であるが、蒼い光の束を人も鹿も浴びて美しい。しかし、大仏が目を開けるとともにこの世にみちる光のことを「光束」と言うそのことで、宇宙のはてにある光源に置き直される。身近な電球の明かるさのことや、奈良の観光名物の大仏さんの由来を知ることは、今の現象ををもう一度そのルーツに帰らせ、あわせて、現代科学というものが宗教の発生とむすびつくのもむべなるかな、とこういう感慨をもたらす。

和田悟朗は、科学者でもあるゆえにか、大きな概念世界を掲げながら、しかし、身の回りのちいさなことどもにかかわる自分を忘れない。その姿勢を一貫するとは、傍目に見るほど簡単なことではないはずだが、つねにメビウスの環の還流の道筋をたどっている。

ここに例示したように。「戦後俳句」といっても幅が広く方法も多元的なひりがりをもっているのである。

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