2013年1月25日金曜日

戦後俳句とは いかなる時空だったのか?【テーマ:書き留める、ということ】/堀本 吟

  〔一〕ものごとの歴史的な探求は面白い。

そのようにして見えてきたところや考えたことを書き留める、それ自体が私は面白い。だから、戦後俳句への史的遡及がシリーズ化されることについても、ずいぶん好奇心が湧いているのである。このような模索は、その時代を経験しなかった人たちの世界をもきっと豊かにする。それだけでは非現実的な半端なことになるおそれもあるが、先導してゆく(はずの)実作と、あとづけてゆく理論(逆になる場合もある)がバランスよく進むようにと、過去の先輩たちが良き意図をもって模索したその前向きの営為と、私のあと振り返る歩行はかならず触れ合ってくる。今それをさぐることで、自分自身も立ち位置をさらに強化してゆく。というメリットを感じるので、私はこのネット勉強会にそれをつよく希望する。

と、しおらしく書き始めたものの、「戦後俳句」なる時空がまたそれを説明してきた言葉が、リアリティを無くしてきていること。(は今や明白であるのだろう。社会や政治も私の青春期の昭和中盤の時期とくらべ、いまではすこし手触りが違う。若い人と話していても糠に釘の感がある。しかし、その「リアリティ」という感覚も怪しげなもので、「戦後」という実感を得られない戦後生まれ、平成の若者にそれを求めても無駄なことである。ここに、私の、または同年代以上の年齢の老化や死去という事態が生じて、生き字引の人たちがすくなくなっていることも、その戦後という規範のリアリティが弱まる理由のひとつである。

だが、私たちを縛ってきたこの規範にかわり、より強烈な時代やその文化を象徴するカテゴリーがまだ生まれていない以上「戦後」体制の持続や展開は、消え去ってはいない。

「戦後」という時代的な関心

日本の近代化は、西洋文化の強力な移入によって進められてきているが、第二次世界大戦での無条件降伏といういわば国家壊滅のもとで、占領軍の政治的な軍事的な強制によって、国民全体へのいわば義務教育が課せられ、そこから日本の再生が行われてきた。

頗る付き大まかな歴史経過を書き留めるならば、

 昭和二十年から昭和二十一年十一月三日に日本国憲法発布。
 昭和二十五年吉田茂内閣の下で、日本国の独立の調印。(サンフランシスコ条約)。
 昭和二十六年四月二十八日にそれが発効。「大日本帝国」は「日本国」となった。
 昭和三十一年度年の経済白書に「もはや戦後ではない」、と書かれ流行語となった。

しかしこれ以後の日本社会も日本の文化意識も、ずっと「戦後」という言葉を捨てなかった。この前の二〇一〇年でさえ戦後六十年といわれかなり大きな記事となった。

ひとえに政治だけではない、私たちは「戦後詩」「戦後俳句」「戦後短歌」なる用語をさほど疑うことなく使ってきている。そう言う言い方に対する疑問も現れていて、また、実際目先の現実にあっては、「もはや戦後ではない」と言いたい感じもないわけではない。しかし、最近の話題に出てくる領土問題、拉致問題、基地問題を並べてみると、戦後処理がまだまだであることをしめすものである。そして、大津波にあって無残に破綻している原子力エネルギー発電所の建設も戦後、この、「もはや戦後ではない」、という政策によってすすめられている。戦争や原子爆弾でどれほどの命の犠牲があったかという過去を切って、アメリカの文化水準にいたろうと領導していったのが高度経済成長の歴史的現実である。

「戦後」という年代上の言葉が文学の言葉としても強烈に機能し、かくも長く効力を持ってきた理由は、その敗戦直後(戦後)以後の時代が、国家理念の解体した日本という国家の、存亡をかけた危機の時代だったからである。今はむしろ、予想される大津波前、大地震前という意味での「戦前」だ、という気がする。

だから、今回のテーマをすすめる過程で、「戦後」という意識が消えてもいいから、まず消えかかっているがまだ見えているそう言う意味での「戦後」の時空のなかにわれわれの精神を励起するなにかを見つけたい、と思っている。「何を捨てて身軽になろうか」という気持ちもあるにはあるが、「何が大事か、もう一度確かめてみようか」という気持ちのほうが強い。よって、身近にまだみかけられるそのような動きを戦後俳句の最後のメッセージとして読みなおし、それを現在以後の俳句史の「発端」として考えてゆく。私自身の内から湧き上がる知の要求と絡めながら、少しく俳句表現の状況づくりのフレームらしきものを作ってみたい、と思っている。大病から復帰した筑紫磐井の衰えぬ知的活動、エディトリアルな仕掛けの成功を念じて全面的に協力するつもりだ。

連載評文の進め方としては、当分は以下のような進行になるはずである。

〔1〕私の視点を切り開くための上記のような「戦後俳句史」そのものへの思考を少しでも積み上げたい。メモとか断章になるだろう。

〔2〕各論風に、前回にあげた作家や周辺事情に関する、資料の提出や、俳句史の具体的内容に関わる資料提出その他。

毎週、長文の評論を書き上げることは、私の生活事情から来る時間的余裕や、文章を書き上げる速度(遅筆である)。なかんずく、調べの不完全さ、力量の総体からして、不可能であるから、研究書やふるい冊子にみつけた、関係ある発言などをお知らせする。どこまで試行錯誤なりに進んでゆくのかを過程的にあきらかにしてゆくつもりである。


〔二〕「天狼」初期―「遠星集」の津田清子


(1)(引用の人名はできるだけ原本に忠実にするが。文中の漢字は現行の当用漢字で書く。)
「天狼」は昭和二十三年一月一日に創刊された。

山口誓子主催。俳誌「天狼」と二行に横書きされ、下方に「靑天」改題 一月号と縦書きで書かれている。 

天狼俳句會 創刊号メンバー
  • 主宰 : 山口誓子
  • 同人 : 秋元不死男、榎本冬一郎、波止影夫、橋本多佳子、平畑靜塔、三谷昭、西東三鬼、杉本幽鳥、谷野予志、高屋窓秋、山口波津女。(ABC順)

巻頭に、有名な《出發の言葉 山口誓子》。
「天狼」は友情的俳句雑誌。/(中略)
私は現下の俳句雑誌に「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆じるが故に、それ等缺くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先づ、同人の作品を以て実現せられねばならない。/(中略)
誌友は最も好むところに個性を発揮し、「天狼」をして俳壇に重きを為さしむるであろう。
「天狼」は、新しき時代の新しき形態、である。
他に、《酷烈なる精神 西東三鬼》、《もっと拙劣に 平畑靜塔》等、それ以後の天狼誌の後列な俳句道をささえる意見が展開されている。俳句は山口誓子の《靑女集》五十句。二号三号では十句ずつになって、巻頭ではあるが他の同人の出句数と同じ数である。

たまたま、天狼初期の原本やそのコピーを読む機会を得た私は、この茶変している紙面から伝わる山口誓子らの「酷烈なる俳句精神」をモロに浴びて、じつはわたしは中毒しそうになっている。
同誌の目次に山口誓子選の雑詠欄「遠星集」が現れたのは、第四号からである。

巻頭四人目に鈴木六林男の名が見える。私に見慣れた作家では、佐藤鬼房、井澤唯夫、丘本風彦 など。

前川佐美雄主宰の歌人集団「おれんじ」で短歌の勉強をしていた津田清子は、隣家の堀内薫に誘われて橋本多佳子を出会い、「七曜」にはいった。ほどなく、「天狼」の遠星集に投句して、鈴木六林男や佐藤鬼房そして八田木枯などと研鑽することとなった。

津田清子は一句、後半に名を出している。
毛糸編む吾が眼差は優しからむ  津田清子
(昭和二十三年天狼四月号《遠星集》の欄)
その後、昭和二十四年、二十五年、二十六年、《遠星集》の誓子選を経て、津田清子は頭角を現してゆくのだが、そのおりの山口誓子の選評はなかなか面白い、次回にでも報告するとして、昭和二十六年度の天狼賞を獲得した十句を紹介しておく。


第二回天狼賞作品  奈良  津田清子

礼拝に落葉踏む音遅れて着く
鶏にも夜が長かりしよ餌つかみてやる
北風に唄奪られねば土工よし
雪激しなんの夾雑物もなし
聖歌中勇気もて爐の灰落す
讃美歌の余韻咳なほ堪へてをり
火星に異変あるとも餅を食べて寝る
雪積る中滑らかな水車の軸
夏潮や柵正しくて画にならず
うろこ雲うろこ粗しや眠り足る
(昭和二十六年「天狼」一月号 表紙の裏)


巻末編集後記(山口誓子)に、前年度の「遠星集」(誓子選)に二句以上入選されたもののうちから厳選した、とある。また、この雑詠欄の投句者の年齢二十代が四十四%、三十代が三一・八%、平均年齢は三十一歳強だった、とあるところも興味を引いた。津田清子は、このとき、三十一歳である。


この一月号の《遠星集》の入選句の津田清子、八田木枯の句が、的確に評されているのは次回に書く。
「天狼」は、新しき時代の新しき形態、である。
と。山口誓子が書いたように、いろんな意味で、「天狼」誌が、戦後の俳句の新しいメディアであったことが、この俳誌の定着のさせ方のうちに見えてくる。(つづく)


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