花束もまれる湾の白さに病む鷗
海辺の句、というより海の句である。作者(主人公)の位置は湾の中であろうが岸なのか、船の上なのか。主人公は「花束もまれる」のを見ているようだ。この花束はよく海難事故で亡くなった人などに対して遺族や知人が船から海へ投げ入れるあれであろうか。だとすると他人の投げ入れた花束を横から見ている可能性もあるが、主人公自身がこの花束を投げ入れたのかもしれない。そうであれば亡くなった人は主人公の親族か知人ということになる。
当時の海難事故で有名なものとしては洞爺丸事故がある。昭和29年9月26日、折から来襲していた台風15号(洞爺丸台風)の暴風によって青函連絡船「洞爺丸」が函館沖で転覆、沈没したという事故。乗員乗客1155名が死亡したというから日本の海難事故史上最大規模であった。ただこれはこの句とは関係あるまい。もちろん船の事故ではなく海で溺れたいわゆる水難事故であったり身投げだった可能性もある。
湾の白さは砂浜の白さなのか波の白さなのか。「花束もまれる」からは波の白さのようにも思われるがそれでは「湾」の語が生きてこないかもしれない。しかし白波に例えば赤い花が浮き沈みしている様子などはイメージとしてとても美しい。『平家物語』の那須与一の章に与一が鏑矢で射とめた扇が海へ散った後の様を「みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ」と描写してあるのを思い出した。兜子のいた神戸からは海を隔てた四国は屋島での戦いの一齣である。同じ瀬戸内海の風景として通うものがあろう。
最後に「病む鴎」である。またしても鳥、しかも病んでいる。「ささくれだつ消しゴム」の所でも触れたように、兜子の句に病む鳥や死ぬ鳥のイメージは繰り返し登場する。この場合は「湾の白さに」病んでいるという。鴎自身も白い鳥なので白と白が反発し合って疲れているのかもしれない。意識的であろうと無かろうと詩人は自分の詩の中に自分の分身を封じ込める、というより自ずからそういう造りになってしまうもの。してみれば病んでいる鴎は兜子自身の分身でもあったろう。では白は何の象徴だろうか。俳句に対するピュアな思い、情熱といったものか。実際兜子のような作句法を続けるのはかなりしんどいと思われる。
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