61. 山ちかく山の雹降る石の音
リフレイン句である。参照:リフレイン(重疊法)について22句目「草刈に杉苗刈られ薫るなり」で記述。
鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中
蝉の穴蟻の穴よりしづかなる
雪国に雪よみがへり急ぎ降る
針を灼く裸火久し久しの夏
草刈に杉苗刈られ薫るなり
帆をあげて優しく使ふ帆縫針
行雁や港港に天地ありき
油屋にむかしの油買ひにゆく
山ちかく山の雹降る石の音
海ながれ流れて海のあめんぼう
水の江に催す水子逆映り
思ひ負けの秋や秋やと石の川『眞神』の中に上記で12句、こんなにもリフレインの句がある。
「赤」の多使用に匹敵する多さである。
言葉を繰り返し使用することにより、当たり前といえば当たり前の構造になる。当たり前であることこそ、俳句の命とも思えるのである。
山の近くで山の雹が降ることも当たり前であるし、それが、石にぶつかり、石が音をたてているように聞こえてくるのも特に無理のない自然の風景だ。自然の美しさ、日々の美しさに気づかせてくれる風景に思える。
敏雄の俳句には、何度も感じることであるが、映像と音が浮かんでくる。山の風景と空の色、そして、雹が地面を叩きつける音とともに石が生きているように音を立てる自然の美しさ、常に生きているということである。
読者なりの映像が浮かぶその中で、句と自然を共有し、読者が今、生きていることが実感できれば、俳句はそれだけでよいという気がする。
62. 裏山に秋の黄の繭かかりそむ
古俳句の趣きである。「秋の黄の繭(あき(・)のき(・)のまゆ)」と読むのだろう。Kiが韻を踏んでいること、「裏山に秋の黄の繭」の後で切れることによりリズムが生まれている。
「かかりそむ」が平仮名表記であり、いくつかの意味が想像可能になる。裏山に繭が「掛かり始めた」という意味、生繭を乾燥させる乾繭の風景だろうか。あるいは、「心にとまりはじめた」あるいは、「心にとまり、そして、染まった」という解釈の可能性もあるかと思う。
繭は白と思いがちだが、カイコの繭色は系統によって白色,黄色,紅色,肉色,笹色,緑色と様々な色の繭を生み出すことができる。遺伝子の問題らしい。黄色の繭からは金色の糸が生まれることになる。
「黄繭がこころにとまり、山が黄金に染まった(紅葉しはじめた)」と解釈してみる。
確かに秋は五行の考えからも金色である。染まった、あるいは、はじまったという意味としても、上五の裏山に戻ってくる。まさに句が回転しているのである。
ちなみに敏雄の技法として「秋の~」という表現が多い。
高岡に今日乏しく鳶を秋のかぜ
色白の秋の石炭巌に乗る
いくたびも日落つる秋の帝かな
家を捨てへこめる秋の野天かな
風干しの肝吊る秋の峠かな
秋の木に秋のひとかげ来て映る
秋の蟬落ちたる原のひろさかな
耳あててきけば秋の木笑ひけり
秋の鈴とつぜん砂を吐き出しぬ
砂肝をしやぶり生かさん秋の風
下記の句は全て『眞神』と同時期の作句である『鷓鴣』に収められている。本来、「秋の」と付けることは、俳句としては禁じ手だろう。敢てその禁じ手を多作したと想像する。俳句形式への挑戦である。
俳句といえば秋、そして「秋の暮」の王道がある。その通念に対抗するかのように「秋の〇〇」を使用しているように思えるのだが。(「秋の暮」の概念については70句目の「石塀を三たび曲がれば秋の暮」にて後述予定。)
63. もの音や人のいまはの皿小鉢
「いまは(今は)」とは、命が「今となっては」の意になり「臨終」を意味する古語である。
“いのち”には時間的制限があることを教えてくれる。
作者は臨終の席にいる。今まさに、臨終を迎えた御遺体本人という見方もできる。確かに御遺体は安らかで何かを聴いているよう静かである。御遺体が何かを聴いている、というのは、いつも見送る側の憶測であるのだけれど。
『眞神』作成前に下記の句がある。
僕の忌の畳を立ちて皆帰る 『まぼろしの鱶』
敏雄の死者としての視点は、はすでに掲句が三鬼没後に上梓された『まぼろしの鱶』に収められていた。死者の僕が皆を見ている。四句前58句目「たましひのまはりの山の蒼さかな」も同様、彼の世の敏雄の視点と読める。
生きている人々の「もの音」、皿小鉢のもの音が聴こえる臨終という場がリアルに伝わってくる。
下五の「皿小鉢」が上五の「もの音」に戻って意味が循環していることも俳句形式の構造の不思議さを痛感する。敏雄の句を知るほど俳句の迷宮にのめり込んでいく。上掲句は好きな句である。
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