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受賞以後の津田清子は、この一年間「天狼」の遠星集上位入選をしめて、快調である。
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「天狼」遠星集(第四巻第一號 昭和二十六年一月號))
巻頭の津田清子三句。
ミサのヴェールの中に眼開く四方つゆけし 奈良 津田清子
聖歌隊解かれて処女柿齧る
どのポケットにも木の実教師は聖職か
以下のごとく山口誓子の選評がある。
聖歌隊解かれて處女柿齧る
津田清子さん――(略)。解放された処女は柿にいきなり歯をあてて食べ始めた。それは聖歌を歌つた人の振舞とも思へぬし、第一、柿といふもの、キリスト教的雰囲気に於いて見るべき果実とも思へぬ。
しかし、さういふ唐突さの中に俳句があるのである。いかにも日本だと思ふ。
(山口誓子《選後獨斷》同號)遠星集の句の欄には、「処女」と書かれ、誓子の選後獨斷の選評には「處女」である。この時代、新旧の漢字使いが皆混乱している。いずれも読み方は「オトメ」、と読むべきだろう。讃美歌を終えた若い娘たちは列をほどくと、ホッと緊張がほぐれて「柿」をそのままかじりだした。という句である。
慎ましく敬虔であるはずの聖歌隊のおとめ達の緊張が解かれたあと、制服のままに野放図とも見える「柿」を「齧る」さま、をうまく捉えている。また、柿とキリスト教の取り合わせに、西洋文化に接した「日本」を感じ取っている。
筆者にも、この句がたいへん面白かった。
津田清子も「處女」の部類にはいるはずである。もともとが田舎育ちであるから、りんごやバナナよりは「柿」という果物を身近に感じているはずである。野育ちの自然体を好む津田清子の好奇心の有り様がわかる。清子にとっては、柿を齧る行為自体の新奇さよりも、やはり、キリスト教のミサという厳格な規律や形式の実行の中に生じている「自然」の姿勢をキャッチしている。日本的といえば、なるほどそうであるが、その場合の「日本」を誓子はどのように受け止めたのであろうか?
津田清子には、第一句集が『礼拜』であったことにもや窺われる感があるが、彌撒の現場を読んだ句がいくつかある。
「貴女はクリスチャンなのですか」、と筆者がかつて津田さんに質問したことがあるが、そういう宗教的なことではなく、ご本人の答えとしては、俳句の材を探していてどんなかたちでミサが行われるのか興味があり、友人のツテでそこに「潜り込んだ」、のだそうである。
後年、写真家の芥川仁に連れられて、公害の邑土呂久へ旅吟をくわだてたり、銀鏡神楽を見に行ったり.ナミブ砂漠へいったりすることと同じ探究心が、早くも現れている。具体的な教義からというより、感覚的に神のいるところに、彼女は吸い寄せられるのかもしれない。しかし、この作家の創作意欲を掻き立てるものは、やはり、俳句のための新しい素材、俳句の場の開拓であろう。「神も恋愛したまへり」も、当時「恋愛」という言葉を使いたかった、ということだし、この「神」も、イザナギ、イザナミ、も彷彿するものの、また、誓子があげた中国の正虹、副虹の故事を持ち出してもいいが、清子は。どちらかとえいえば西洋のモダンな当世風の受け止め方をしている。
このようなところ、創刊同人達が期待した戦後の新人の条件をそなえていたと思われる。
また、天狼創刊同人たちも、遠星集に登場するこれら新人の新しい感性にきたいするところ大である。
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誓子の評文のスタイルは、まず字句通りの解釈を施し、字句にしたがって、景を明らかにする。そして、そこにあらわれる作者の意図を追いながら、この句の本意を掴みとる。それに基づいて自分の感想を述べ、作品として自分が選をするにふさわしい完成度があることをしめす。
上記の津田清子句や山口誓子の《選後獨斷》と関連して、誰しも、思い出すのが、
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規(明治28年作『寒山落木』巻四)
であろう。出典は高浜虚子選『子規句集』より。(岩波文庫・昭和16年初版、本書は一九九三年坪内稔典解説)。明治期に掲出の正岡子規の「柿」とお寺の取り合わせが新鮮である。子規の場合は、法隆寺であろうと興福寺であろうと、仏教と柿の取合せであり、誓子が指摘した清子の句では基督教との取合せ、柿と宗教との取合せは目を引く。
しかも、清子の場合、讃美歌をうたう清純な處女が丸かじりする庶民性に視点が及んでいる。
なんとなく「ピカピカの一年生」という感じがするのであるが、こう言う選句のり方を読んでゆくと、山口誓子が、戦前とは違う、戦後的素材をこなす新人を待望していたかが、見えるような気がする。
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この號には、次席薄鵜城の三句、三席八田木枯の三句、第四席西村青渦三句、というふうに続き七人が三句、それ以後二句が六十三人、以後一句入選が四百七十一名。筆者の方の数え間違いもあるかもしれぬが五百十四人。大半二十歳代、三十歳代の人たち五句づつ、投句している。津田清子は、この時三十歳になったかならぬかである。
良夜明けをり野より犬帰りをり 岐阜 薄 鵜城
河澄みて鉄橋冷ゆることはじまる
風にさからふ雪片みれば都会よし
夕虹は一度見しもの母戀し 東京 八田木枯
野の川の浮き上る見ゆ秋の暮
蟋蟀のこゑが濡れたるものに附く
秋風や競輪地獄わきかへり 兵庫 西村青渦
月明にしべのみひかる曼珠沙華
殺されし蛇のみ生(なま)の重さ持つ
(「天狼」遠星集 同号)2) 「天狼」遠星集。(第四巻第二號)昭和二十六年二月号
この号では、巻頭を八田木枯が四句という好成績、次席橋本美代子三句についで、
秋の海航くのみなるに旗汚る 奈良 津田 清子
海をゆく心細さよジヤケツ着込む
秋刀魚の香父母兄弟の香の中のである。これを山口誓子が次のように評している。
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秋の海航くのみなるに旗汚る
津田清子さん――秋の航行である。/船の旗は白地なのに薄汚れてしてゐる。/前から汚れてゐる/作者もそれを知らぬわけはあるまい。
それだのに、作者はその汚れた旗を見て、秋の日の海を航行するだけなのに、この旗はこんなに汚れてしまつた―と詠つてゐる。
旗こそいい迷惑だが、そんな風に旗に難癖をつけた事によつて、その旗の汚れが生き、秋の日の航行が生きて來た。秋でなくてはならぬのである。(山口誓子《選後獨斷》同 二月號)
筆者は、最初、誓子評の解釈の部分を省略して(書写しが面倒になったのである)、後半の方だけを引用していたのだが、文末に「秋でなくてはならぬのである。」、と結ばれていたので、また、文頭の「秋の航行である」、と入れ直した。かように誓子の文章には隙がない。引用も、いい加減に省いてしまうならば、原文の意図を忠実に伝えきれないことがある。
ともあれ、この俳句の眼目は、「秋の航行」、ひいては「秋」の季節的な環境、すべてが、くきやかな輪郭を持つこの季節特有の空気感、を表現している、と誓子は読み収めたのである。
しかし、津田清子本人の作句の感動や眼目もひとつはそこにあったことは否定できないだろうが、彼女の視線は、むしろ、白地の旗が航海中に薄汚れてしまっていることを改めて気がついた、ということではなかったか、と私は受け取った。
この句は、「秋の海」で切ることができる。「航くのみなるに旗汚る」と文脈上分断されているが、「を」を省略していると読めば、「航く」というところで意味がつながり、容易に海上の航海風景であることが知れる。この句の主格は「秋の海」ではなく、そこを進む船の「旗の汚れ」、にある。そこに人の生きる時間すらをにおわせる人間的な視線を当てている。
山口誓子の方は、上五の方に重点を置いて「秋の景」にこだわっているフシがある。草田男の一元的な、いわば象徴詩に対して、山口誓子は、二物衝撃の作法の囲いの中でオブジェ的に構成された秋の景といて、読み解かれていたのかもしれない。
この津田清子の視点について、文字通り、生活という存在の根源に迫るものとして私は着目する。(この稿了)。
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