豊かな水を湛えた奇跡の惑星、地球。その地球上にある水は一体どこから来たのであろうか。現在の学説では、原初の地球は、隕石が衝突・合体を繰り返して出来た集合体に、更に隕石の雨が降り注いだことで誕生したとされ、地球の水は元々、その隕石に含まれていた水(H2OではなくOH)に由来するという。つまり地球を巡りやまぬ水も、我々人間を含む生き物達の身体に含まれる水も、みな宇宙からやって来たものだったのである――。
と、そんな話を最近読んだのだが、そこでふっと思い出したのが掲句である。耕衣のあの句の「いづかた」は地球上のみならず、OHを含有する無数の隕石が浮遊する宇宙空間までも含んでいる、と読むことも可能なのではあるまいか。そう、空想を逞しくし、待てよ、流石に、と思いとどまる。「春の暮」がおかしいだろう、いかに何でも宇宙空間に四季や朝夕のあろう筈がない。
……いや、おかしくなどないのかも知れない、と閃く。
耕衣は随筆「茅舎のばあい 季語の霊的受用について」の中で、道元『正法眼蔵山水経』中の「水は強弱にあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷暖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。……」の件を引き、続けてこう書いている。
「『水』は季語ではないが、あらゆる季語を包摂し、あらゆる季語に包摂されている。『水温む』『春の水』『氷』『霰』」など、直接に具体的な千変万化の様相を初め、『水』は我らの命と共にあり、命そのものとしてある。」(昭和49年刊『山林的人間』より)
無論、地球上の水の様態を想定して書かれた文章であろう。だが同時に水を「有無」「迷悟」さえも超えた物と観じている文章である。「水」の存在は、宇宙をも、我々の命の、その遥けき故郷として見つめ直すことを可能にする。地球は生命の星、宇宙は死の世界といった一般通念的な区別は、最早意味をなさない。
「水」をあらゆる季語を包摂するものと見做すならば、地球的な意味での四季も朝夕も存在しない宇宙空間にもその影響力は及ぶだろう。では、宇宙のありようと響き合うのは、どういった季語なのか。――見渡せば彼方で暗黒星雲から誕生する星あり、此方で寿命を終え、爆発し散っていく星あり。宇宙は常に生成の活力溢れる「春」であり、消滅の寂しさ漂う「暮」でもある。そう思えば何となし一種独特の「春の暮」の趣が感じられて来るのであった。更に、考えようによれば我々の身体も絶えず細胞の生成と消滅を繰り返している、ひとつの極小宇宙。今、ここの「我」も、大宇宙の過去未来も「水行く途中」であり、「春の暮」の明るさと寂しさのうちに在る……、そのように読んだとしても、掲句の世界は、全く揺るぐことはなかった。
作家・三浦しをんの随筆に「自分の母が、三好達治の『雪』の太郎、次郎を犬の名前だと勘違いしていた。驚いたが、よく考えてみればこの太郎、次郎を人間でないものとして読んだところで、この詩の魅力は損なわれないと思い至った」と言った趣旨のものがある。
私はその話を、笑話として読んだのだった。浅墓であった。優れた詩は、作者の意図や、制作された当時の科学知識の限界を軽々と超えていく力を、時に蔵する。
(昭和27年刊『驢鳴集』より)
《参考文献》
藤岡換太郎『海はどうしてできたのか 壮大なスケールの地球進化史』(講談社ブルーバックス)
三浦しをん『お友達からお願いします』(大和書房)
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