武蔵野市境南町。昨年春、細見綾子が晩年暮した場所に立った。新しい小体な住宅の並ぶ一角、広い敷地には、樹木が生い茂り、邸宅は廃屋となって長い時間が経っているようで、人の気配は無い。片隅には、ゴミなのか物置なのか、雑多なものが打ち捨てられている。これが、綾子の俳句や随筆で「庭の眺め」として何度も描かれた、美しかった庭なのか。
綾子の故郷・丹波より運んできた牡丹、山茶花、富山の知人より送られ夫婦で丹精したという薔薇、
蕗の薹喰べる空気を汚さずに
と詠み、愛して止まなかった蕗の薹、池のほとりに咲いていたという曼珠沙華、三月三十一日の誕生日に自ら切り取って花束にして祝った、という春蘭など、様々にエピソードと共に綾子の庭は存在するはずであった。愕然とする思いで往年の庭の姿を想像してみるが、上手くいかず、苦い思いを噛みしめた。我が家からバス一本で行ける近距離にありながら、その後この場所を訪れることが出来ずにいる。
細見綾子は、明治四十年(一九○七年)、兵庫県氷上郡芦田村に生まれた。大卒後結婚するが、すぐに夫と母を亡くし、父はすでに他界している中、本人も肋膜炎に罹り、若き日を療養生活で送ることになる。医師の紹介で俳人・松瀬青々と出会い、句作を開始。「野の花にまじるさびしさ吾亦紅」で「倦鳥」に初入選した時は二十三歳であった。
四十歳で、俳人の沢木欣一と再婚。金沢から、武蔵野市境南町と移り住み、「風」の運営に関わった。しかし「風」が「社会性俳句運動」の中心となった時代にも、自らの俳句を貫き通した俳人である。
故郷・丹波、師・青々の愛した大阪、新婚時代を送り一子を得た金沢、句作に通った奈良や、日本の各地。綾子の過ごした時間が、武蔵野のこの庭に集約されているのではないか。綾子は庭を見つめながら、生きてきた時間を見つめていたのであろう。
「今一番何が関心があるかと問わればそれは時間だと答えるであろう」と、句集『伎芸天』のあとがきで書いた綾子の「時間」が、この庭に凝縮されている。次回からは、この「庭の眺め」を中心に、細見綾子の俳句を読んでいきたいと思っている。
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