「作品が全体として本当の意味でのライトバースではなくて、軽い。これはいつから起きたというのは定かではないけれどある時代を画して似たようなタイプが出てきた。勿論一人ずつを吟味すれば違うのですが、私の中では"石田郷子ライン"と名付けている。李承晩ラインみたいに。彼女が新人賞を取ってから、藺草慶子、高田正子、山西雅子などあの辺の一派にディファレンスを感じない。みんな似たようで、さっぱりとしていて軽い、それでいて嫌な感じではないですよ、癒し系と言ったらいいのかも知らないけど、ああいう軽めのイージーリスニング、BGMみたいな集団として一個の塊がずうっと動いている感じがする。」
「街」の座談会で述べているもので座談会特有の軽さがあるが、輪郭として言えば、私はいわば「戦後生まれ世代」の次の世代の特徴を述べているのではないかと思った。これに対して、上田信治は"石田郷子ライン"の作家の列挙をし、
石田郷子 今橋眞理子 津川絵理子 明隅礼子 辻美奈子 西宮舞 浦川聡子 大高翔 中田美子 上田日差子 今井肖子 高田正子 中田尚子 仙田洋子 土肥あき子 黛まどか 中西夕紀 矢野玲奈 名取里美 藤本美和子 山田佳乃 井越芳子 藺草慶子 甲斐由紀子 甲斐のぞみ 日下野由季 藤本夕衣 杉田菜穂 小川楓子 高勢祥子 藤井あかり 鶴岡加苗
という名前をあげ、さらに、幅を拡げて、と言って
片山由美子 武藤紀子 山西雅子 岩田由実 森賀まり 満田春日 対中いづみ 杉山久子 北川あい沙 茅根知子
と書いている。実はこの辺になってくると私の見当のつかない作家も半数ぐらいいるので何とも言いようがない。
それはそれとし、上田の主張は、「"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります」に基準をおくようだが、これは片山由美子を入れるあたりから相当にぶれ始めているような印象を受ける。
上田の根拠は、「片山由美子さんは「光まみれの蜂」の「まみれ」は表現として汚いから、美しいものに使わない方がいいという主旨のことを発言されたそうですが」と言うところに出てくるようだが、だからといって片山が石田郷子ラインの中にあって、神野が石田郷子ラインの外にあるとなると、これまた議論を呼びそうである。
"石田郷子ライン"を――中原が述べているように、「李承晩ラインみたい」で分かる若い人は少ないであろう。「李承晩ライン」については、私の「文体の変化/テーマ:「揺れる日本」より②」に出てくるのでご覧いただきたいが、このラインを援用して李承晩は「対馬」(今話題の竹島ではない)は韓国固有の領土であると驚くような主張をし、アメリカと交渉している(当時日本は主権を回復していないから、独立国韓国と交渉出来ない)。こうした民族主義的愛国運動と結びつけて石田郷子に「ライン」を付けるのはかわいそうであり、むしろまだしも金子兜太ラインや夏石番矢ラインの方がふさわしいような気がする。
脇道に逸れすぎたが、"石田郷子ライン"が分明でないのは、実はそれが対比される、前の代表的世代である(上田が「文学的自我」や「作家意識」を前提と考えている作家)長谷川櫂や小澤實、岸本尚毅らが、実は何であるのかがまだ論じられていないところにある。戦後派世代と言われた金子兜太や飯田龍太の守備ラインははっきりしている、しかし戦後生まれ世代の長谷川櫂や岸本尚毅らが何であるのか、誰もまた論じてあげていないのではないか。
さらに羽目をはずして言えば、前衛俳句(もしあるとすればだが)も伝統俳句(もしあるとすればだが)もそろって「俳句上達」に邁進しているのが現代俳句ではないかという気もする。詩人・歌人にくらべ俳人の異常なほどの仲の良さは、まさに「俳句上達」仲間だからこそのものであろう。
実は私も"石田郷子ライン"にいるのかなと思ったりする。そして冗談を抜きにして正直に言えば、現在問うべきは"石田郷子ライン"に誰がいるかではなく、こうした設問をすることによって俳句を何であると考えようとしているかが当面突きつけられている問題ではないかと思うのである。
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