2013年2月1日金曜日

再録・黒い十人の女(一) 柴田千晶

白き蛾のゐる一隅へときどきゆく   飯島晴子


真夜中の国道でハンカチを畳んだような大きさの白い蛾を見たことがある。蛾は対向車線をバサッバサッと重たげに飛んでいた。あっ、と息を呑むほど異様な、あの白い蛾の独特な美しさは、飯島晴子の句が放つ異様さとどこか通じるものがある。

 
部屋の一隅に白い蛾がいる。「ときどきゆく」というのだから普段は使っていない部屋なのだろう。蛾はじっと動かずに居る。すでに骸となっているのかもしれない。その姿をときどき見にゆく。なぜ見にゆくのか、なぜ気になるのか、その理由はわからない。おそらく晴子自身にも。ただその存在を確認し、「ああ、まだそこに居る」と安堵したかったのだ、きっと。晴子は人から忌み嫌われる白い蛾の存在を身近なものに感じていたのかもしれない。

晴子の句を読んでいるとだんだん人間の世界が遠ざかってゆく。異形のものたちが隠れ棲む山里にいつのまにか紛れ込んでいる。

菫咬む山姥の歯の日ぐれにて
死ぬひとの袂を蒐め夏山姥
ほろほろと茸こはるる眠姥
走る老人冬の田螺をどこかで喰ひ
雪姥のからだにあはせ雪の木や
闇を出る婆はたくさん蕪持ち   以上『蕨手』所収

死ぬひとの袂ばかりを蒐める山姥も、田螺を喰ってひた走る老人の姿も異様だ。闇から出てきた婆が持っていたのはほんとうに蕪なのだろうか。

秋山に箸光らして人を追ふ
桔梗一本ここでひきまはされしかと  以上『春の蔵』所収

箸を手に光らせて追いかけるのは人を喰うためか、桔梗が一本咲いている場所で引回されたのは山姥か。これら異形のものたちは晴子の中に棲んでいる。

初夢のなかをどんなに走つたやら   『儚々』所収

どんなに走っても抜けられない夢の中を走り続けているうちに晴子は山姥になってしまったのかもしれない。だが非凡な存在は平凡なものたちに疎まれ排除される運命にある。非凡な姿を晒し続ければ生き難くなる。平凡なふりをし続ければ自らを殺すことになる。晴子は山姥になりきれなかったのだ。

白い蛾の居る一隅は日常からはもっとも遠い場所。晴子が異形な姿に戻れる聖域。そこで晴子は異様な光を放つ句を産卵し続けてきたのだろう。

阿部完市はこの句を「飯島晴子の俳句」の文中で次のように鑑賞している。

白い蛾がいる、その建物あるいは部屋の片隅へゆくのだ、という。何が原因で、何の理由で、どうやって行くのかなどというこの動作のいわゆる意味は全くさだかでない。人間の動き、行為というものが、そのほとんどが無意味なもの、非意味的色合いそのものであること——をすらりと書いている。すなわち人間の生命の根元のところにある、ただただ生きているということを、まず生きているだけということを一句にしている。(『飯島晴子読本』所収)

人間はときに無意味な行為をすることがある、ということはわかるが、私がこの句から読み取ったのは、阿部完市のいう「無意味さという人間実存」とは違う。もっと能動的で意志をもった行為、ときどきそこへ行かずにはすまない、どうにもならない思い、適切な言葉が見つからないが、しいて言えば人間の持つ業のようなものだ。

一九八四年、札幌市豊平区で九歳の男児が行方不明になった。自宅にかかってきた一本の電話に呼び出されて家を出た男児は、近所のアパートの階段を住人のA子と上がってゆくところを最後に目撃され、そのまま忽然と姿を消した。同日の夜、そのA子が段ボール箱を車に積み込んでいるところを近所の人が目撃している。警察の事情聴取にA子は、確かに○○君は来たが、部屋を間違えていたのでそれは隣だと教えてあげただけのことと言い張った。警察の追及を逃れ、ほどなくA子は引っ越して行った。男児の行方はその後も杳として知れないまま。

一九八八年、新十津川町の農家が火事で全焼し、二階で寝ていた夫は焼死、階下で寝てた妻と娘は無事助かった。この妻が前述のA子だった。夫には多額の保険金が掛けられており、焼け残った納屋からは子供の骨が見つかった。行方不明の男児のものと思われたが、断定はできず、A子は今回も「知りません」と言い通した。

一九九八年、新しく開発されたDNA鑑定によって人骨が行方不明の男児のものと特定された。殺人罪の時効寸前にA子は逮捕、起訴されたのだが、最後まで黙秘を貫き通し、A子の行為によって男児が死亡した疑いは強いが、殺意が在ったかは認定できず無罪となっている。これ以上の事件の詳細は省くが、当時、ワイドショーでも取り上げられ、不可解な事件として鮮明に記憶に残っている。

嫁ぎ先の納屋に偶然、かつて近所に住んでいて行方不明になった男児の人骨があったとは考えにくい。A子は納屋の一隅に人骨があることを知っていたのだろう。A子はときどきそれを見に行っていたのではないか。

納屋の一隅で箱に隠した子供の骨を覗き込むA子の姿と、部屋の一隅で白い蛾を瞶つめる晴子の姿が重なって見えた。

白い蛾の居る一隅はだれの中にもある。その一隅を見ないまま過ごせてしまう人間と、見ずにはすませられない人間がいる。晴子はもちろん後者だ。

冒頭の句に戻る。晴子がこの句で描いたのは、人間の深淵に眠る得体の知れない怪物の存在だったのかもしれない。


「黒い十人の女」は和田夏十脚本、市川崑監督の映画のタイトルを拝借した。心惹かれる十人の女性俳人について書いてゆきたい。
高山れおな氏から、独断と偏見と愛に満ちた原稿を、という依頼状をいただいた。愛はわかるが、独断と偏見にもほどがあるだろう、というものを書いてゆきたいと思う。



  • 参考資料
『飯島晴子読本』(富士見書房)、『殺人者はそこにいる』(新潮文庫)、『ドキュメント・消えた殺人者たち』(ワニマガジン社)

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