2013年2月8日金曜日

句集・俳誌渉猟(2)~『鳥飛ぶ仕組み』「晶」「第3回田中裕明賞」~/筑紫磐井

  • 宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』平成24年12月25日現代俳句協会刊/1500円


時評などを試みているうちに、作家の登場の仕方に関する経験則的な原理に気がついてきた。私はそれを「天才現象」論と名付けてみている。それは、こと俳句に関しては経験年数とその成果が結びつくのではなく、開始して1~2年の間に急速に能力を開化させる人が多いことである。あるいは、鳴かず飛ばずで長いこと続けていた人が、何を転機にしたのか急に目ざめたように素晴らしい作品を作り始める。これを、本当に天才と呼べる作家たち(例えば中村草田男とか攝津幸彦)と比べてみて、両者に共通な要素があるような気がするのである。それは、これらの作家には平均的な作家たちが持つのと違う規則(義務的な規則と違う芸術的な規則だが)があり、それに目ざめて、その法則に従って易々と作品が生まれるようになるということだ。具体的な特徴は2つ、①すべて作品がその人独特のパラダイムによって生まれること、②このパラダイムに従うと湯水が湧くように作品が流れ出てしまうこと(1日100句でも簡単に生まれる)である。

ただこの規則は限定的で、芸術一般と言うよりは、その結社特有の規則である可能性が強い。面白いのは、結社の創設者(初代主宰)が苦労し、紆余曲折の末生みだした結社の独自の個性・作風を、これらパラダイムを理解した作者は主宰をはるかに越えたレベルで容易に量産する。結社の優等生の中にはこうして目ざめた作家も多い。私が所属した「沖」には沖風と呼ばれる作風があり、これらをいちはやく会得し、能村登四郎や林翔よりはるかに巧緻な沖風を展開した作者が何人かいた。句会に出ても、これらの作者の句を能村登四郎はとらざるを得なかった。といってこれらの作者の句が「巧い」というのではない。まさに「沖そのもの」という俳句だったのである。こうして多くの作家が結社賞を取っていった。

一方で、陥穽もある。これらの作者の基準は絶対的ではない。彼らのパラダイムの基準が周囲の作家の基準の先を言っているからこそ天才のように見えるが、いずれ周囲の作家の基準が彼らの基準を追い越した(あるいは方向転換をした)途端に彼らはただの人になってしまう。いや、むしろ古いパラダイムに浸っている旧弊な作家と見えてしまうのである。彼らは何も変わらない、周囲が彼らを追い越して行くのである。よくいう、「神童も20歳過ぎればただの人」に変わるのはこうした原理による。苦労して常に脱皮する天才との違いである。だからこうした、パラダイム型の天才に必要なのは、俳句や結社の基準ではなく、それを越えた芸術や哲学などで視野を広げ、自分自身でパラダイム転換を図り、絶対基準を見出して行くことなのである。そしてじっさいパラダイム型天才ではなく、本当の天才はこうした中から生まれて行く(また、この論理を逆転すると、どうやら天才は結社の中から生まれ易いことも納得出来る)。
 

長々と一般論が続いたが、宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』を読んで私の理論にぴったりの人が現れたという感じがした。実に労することなく、楽しげに、そしておそらくこの種の作品を量産していることだろう。それは決して悪いことではない。このレベルの句を生涯1句も作れない同世代の作家もいるのだから。

若葉風らららバランス飲料水
滝までの道にしるしにやうなもの
あはゆきのほどける音やNHK
春の日の光くづさぬやう時計
しまうまの縞のつづきのぼたん雪

上に述べたように、天才とは独自の能力ではなく、社会的産物なのだ。社会(つまり俳壇や結社)の使い捨てにならないためには、俳句にこだわらない広い視野を獲得していくことがこの作者のためには望まれるであろう。

  • 季刊俳句同人誌「晶」第3号平成25年2月5日発行/1年分誌代4000円


昨年8月に創刊された同人雑誌(代表長嶺千晶)であり、中村草田男系の雑誌と見てよいであろう。創刊号は4人からスタートしたが、この第3号は6人に増えている。ご同慶に堪えない。中村草田男系というのは、創刊号以来続く長嶺千晶の「香西照雄著『中村草田男』の検証」がこの雑誌のバックボーンをなしているからだ。興味深いのは、年齢的にも草田男に1回しか選句を受けたことしかない、従ってその意味ではむしろ香西照雄を師と仰ぐ長嶺が、「師と仰ぐためには師の研究をしなければならない。そして草田男先生ほど偉大な方はいらっしゃらない」という香西の言葉を受けて草田男研究を進めるのだが、その結果、香西照雄著『中村草田男』を読みながら、香西に対する批判を展開する。創刊号では、ホトトギス派が反社会的な風流に変更していたという香西の説に、香西の社会主義が色濃く投影されていたのではないか、香西は草田男を人間探究派のリーダーと呼ぶが加藤楸邨、石田波郷をこのような言い方で括ってしまうのは問題ではないか、また草田男の求道的態度から社会主義者である香西は宗教を否定しているのは間違っているのではないか、と挙げる。このような指摘をして、連載を始めているのである。つまり、香西の影響を受けて草田男研究を始めながら、長嶺が見出した草田男は香西の解説を越えて独自の草田男となってゆく、これは作家研究として見逃せないところだ。

第3号ではこのような大上段に振りかぶった論は控え、1句1句の丁寧な鑑賞を加えている。しかし、昭和11年頃から草田男は「や」「かな」「けり」の切字を使わなくなり、散文化する「は」を使う草田男の特長が目立って来るのだという。

毎号外部寄稿を求めているのは、外にも内にも発信を求める趣旨だろう。

 骨片と化す恐竜や流れ星 長嶺千晶
 聖水に合掌を解く冬野蝶 海野弘子

  • 「第3回田中裕明賞」平成25年1月29日ふらんす堂発行/500円


ふらんす堂が主催する田中裕明賞の発表冊子である。田中裕明賞は亡き田中裕明を記念してふらんす堂が授与する賞であり、2010年から開始された。2010年の第1回は高柳克弘『未踏』、2011年の第2回は該当句集なし、2012年の第3回は関悦史の『六十億本の回転する曲がつた棒』が受賞した。自薦他薦の四十五歳未満の作者による応募句集から石田郷子、小川軽舟、岸本尚毅、四ッ谷龍の4人の選考委員が選ぶものであり、今回は7冊の句集というのは少ない気がするが、最終的に、関悦史の前述の句集と御中虫の『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』が最終的には議論の対象となった。角川俳句賞を取った山口遊夢でもなく、俳人協会新人賞をとった押野裕も残っていないのもこの賞の特色を良く表している。同じ選考委員が角川俳句賞の選考の場に出た時、これと同じ結果になるであろうかと興味が湧いた。

論評は丁寧であるし、司会をしている主催者があまり強引にリードしていない(例えば関悦史と御中虫の同時受賞もあり得た)点に好感を持てた。受賞結果があくまで4人の合意であった点はこうした賞の価値にもかかわってくるであろう。そのため、受賞者のなかった第2回と比べて冊子の頁数も2倍半、定価も同様に2倍半となっているのは納得させられる。

さて興味は、関悦史と御中虫の相対評価だが、小川・四ッ谷が御中虫より関を推し、岸本が関より御中虫を推し、石田は関はどう受けとめてよいか分からない(御中虫に点は入れたが関には無点)というところからスタートする。興味深いのは岸本の論法で、二人をとらないで一人に絞るとすると、「賞を取らなかった時の損失の大きさを考えると、関さんのほうが推さないことのっもったいなさ大きいような気がしますね。絞るんなら関さんだなあ。御中虫も捨てがたいけど。」と述べているところだ。こうした選考のロジックもあるのかと感心した。少なくとも一部委員から出た、御中虫と山口にはもう1回チャンスがあるというような考え方よりは、腑に落ちるものがある。

余談になるが、関は雪梁舎賞の選考で現地に赴いていた(この賞は受賞者が会場に来ていないといけないのだそうだ)関がそちらの方が落選が決まった残念会の席で田中裕明賞の受賞の知らせが入り、一転受賞記念の祝いの席に変わったという。

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