今回のテーマ「二」の概念に関しては次の様に分類されるのではないか。
A:二・物の数
B:両:同じようなものが二つ向き合って一対となる
C:双:二つそろって一対となる
D:再:二度すること
掲句はこの場合Bの範疇に入るのではないか。つまり「コップ二つ」が示唆するものは向き合った二人の存在であろうと。そしてその場面設定が男と女、男と男等によってその展開は異なって行くであろうが、今その沈黙からドラマがまさに始まろうとしているかの如くに。更に「等しい液体」の傾き加減によっては二人の立場に軽重が生じ、その関係性のベクトルの多様化にも連なってゆくと。単なる物体の客観写生だが語られざるドラマが秘められているようである。この範疇に入ると思われるのが下記の句にもある。
半端な時間の椅子二つあつての話 昭和42年作 (注)「椅子二つ」が前句の「コップ二つ」に照応しており、この句もその場面に二人の存在を暗示している。ただこの句の場合「半端な時間」という措辞により、話の結論は出ないままに終わりそうであるが。
Aの範疇の句では下記のようなものがある。
二羽の黒い鳥が的確に空間 昭和28年作 (注)
貝 だから黙って 二ついる 昭和42年作 (注)前句は「的確に」とあるように空に鮮明な二つの黒鳥を印し、後句は時間の中での二つの貝の沈黙を強く印象付けている。それが一つでは無く二つである事によって客観的に納得させる強さをもたらしているのであるが、それ等は相対峙するものでは無く、並列的に置かれているだけである。
Cの範疇に入ると思われる句は下記のようなものである。
菰から足が二本 死という 昭和28年作 (注)
死 二枚のはね残して去る 昭和53年作 (注)たまたま「死」という共通の主題であるが、「足が二本」も「二枚のはね」も共にそろった一対であることによってその主体の存在感を強く打ち出す効果があり、その事によって一つの「死」の意味が更に深められるものと考える。
Dの範疇の句としては下記のものがある。
楽書の顔の前一日二度とおる 昭和24年作 (注)たまたま行きがけに見た楽書の顔だが、印象に残っていたのであろう。帰りがけには何かを探る様にしみじみと眺めつつ通る様子がみてとれる。楽書の顔の人物とそれを描いた人物との関係を色々と想像しつつ。
「二」とは「一」に「一」を積み重ねた以上のものを含んでいるようでもある。
(注)「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
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