2句、3句欄にあがっていた登四郎はしきりに当時神田にあった水原産婆学校の講堂で開かれていた馬酔木例会に出席していたようである。しかし、せっかく二句、三句欄にあがっていたものの、戦中の環境の中で華やかな登場は登四郎にはかなわなかった。当時のことを同時期に馬酔木に参加した盟友林翔はこう語っている。
「神田の産婆学校講堂で馬酔木例会が開かれていた頃、登四郎も私も一句組であったから、句会が終ると、すぐとなりの水原邸を横目で見ながら、「せめて二句級になれば先生のお宅へも伺えるのにね。」と語り合いつつ帰ったものである。」
「二句級になれば」は少し誤解を招く。登四郎は二句欄になったものの、結局、初めて水原秋桜子を訪問したのは終戦の翌年、21年となってしまった。これは後に述べる。
さて、馬酔木は、戦前の最後の雑誌は昭和20年にあたる。この年は1月号、2月号、3月号、4・5月号、12月号が出たが次の作品以外は登四郎の句は発見できない(3月号は間違いなく3月刊行であるが、大空襲で印刷所が焼けてしまい大半が消失、貴重な焼け残りが俳句文学館には保存されている。4・5月号は3月号の原稿から戦争関係の俳句を削除し適宜追加を加えて終戦日以後の秋口に発行されたものである)。
ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(昭和20年1月)
なぜなら20年には応召していたからである。
年譜には、「六月赤紙が来て応召。横須賀海兵団に入隊。それより、戸塚の訓練所、愛知県拳母の航空基地、三重県伊賀上野航空基地に勤務、惨鼻(ママ)を極めた兵隊生活を送る。原爆投下も終戦詔勅も知らず終戦を迎えた。横須賀に戻り、残務整理して九月遅く除隊。現職に復帰したが、ひどい栄養失調。」と書かれている。
* *
戦前から戦後の過渡は、馬酔木自身が混乱している。以下、その歴史を記述するに当たって、当時何らかの活躍をしたと思われる新人たちの経歴をたどってみることにする。生年と句作の開始年を示した。登四郎のように1句10年の苦労を戦前の若手たちも味わったのである。
殿村とし子(明治42年生まれ) 13年より句作
澤聡(大正4年生まれ) 14年より句作
高野由樹雄(大正14年生まれ) 17年より句作
大島民郎(大正10年生まれ) 18年より句作
藤田湘子(大正15年生まれ) 18年より句作
堀口星眠(大正12年生まれ) 18年より句作
有働亨(大正9年生まれ) 19年馬酔木賞受賞
野川秋汀(大正12年生まれ) 20年より句作
五十嵐三更(大正6年生まれ) 21年より句作(三菱地所勤務)
秋野弘(不明) 21年より句作
大網弩弓(大正7年生まれ) 22年より句作
岡谷虹児(昭和4年生まれ) 22年より句作
草間時彦(大正9年生まれ) 24年より句作
岡野由次(不明) 不明
(参考)
能村登四郎(明治44年生まれ) 13年より作句
林翔(大正3年生まれ) 14年より作句
戦後の馬酔木の若い世代の活躍は、秋野弘、藤田湘子に始まる。登四郎はそれに遅れて参加するのである。当時の注目を浴びていた作品を掲げてみよう。
雪白き奥嶺があげし二日月 藤田湘子(昭和22年4月)
ぬば玉の黒飴さはに良寛忌 能村登四郎(昭和23年3月)
さふらんに沖かけて降る雪しばし 水谷晴光(同年4月)
風荒れて春めくといふなにもなし 秋野弘(同)
花烏賊やまばゆき魚は店になし 林翔(同年5月)
春愁やむしろちまたの人むれに 岡野由次(同)
虹の輪を噴煙荒れてつらぬける 沢田緑生(同年8月)
うぐひすや坂また坂に息みだれ 馬場移公子(昭和24年3月)
待つありて継ぐ息勁し麦は穂に 野川秋汀(同年7月)
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