ならば、有季/無季という安易な対立構造を超えたところで詠うことが俳句表現史の現在に立つということではなかったか。さらにいえば、俳句表現の現在にまつわる一切を甘受しながら、それでも―あるいは、だからこそ―書いていくことを選ぶということが、僕たちにとっての俳句を書くということではなかったか。先ごろ「週刊俳句」に発表された佐藤文香の「淋しくなく描く」はそんなことを考えさせる作品だった(第三八二号、二〇一四・八・一七。)。角川俳句賞に出すはずだったこの五〇句からは佐藤の現在地が垣間見える。
なんらかの鳥や椿の木のなかにこの句は「なんらかの鳥」という認識のありように注目してしまいそうだが、この認識の危うさを句として成立させているのは椿のくきやかな佇まいであろう。もう少し言えば、「椿」という言葉が立ち上がらせる「椿」のイメージの明確さであろう。佐藤は、いわば季語と手を組むことでできるだけ遠い場所へと身を投じようとしているかのように見える。
「淋しくなく描く」には季語に抱かれつつ一方で自らの認識をそのまま投げ出したかのような句がほかにもある。
商店街だんだんただの道の夏
はやい虫おそい虫ゐて豆の花
しめつぽい月の出てゐる花火かな
あきあかね太めの川が映す山
風花や観覧車のまるい室内
たとえばこれらの句から「夏」「豆の花」「花火」「あきあかね」「風花」を除いたら、他愛もない言葉だけが残るだろう。だがその残った言葉たちは佐藤の認識の剥き出しであって、写生だとか造型だとかいう一切の方法をゆるやかに拒否しつつ、ほかならぬ佐藤の言葉として立とうとしている。いや、もう少し正確に言えば、この言葉だけで立つことが不安ででもあるかのように季語を呼び寄せているように見える。言い換えるなら、これらの句において季語は佐藤の言葉を必要としていないのに、佐藤が季語を必要としているように見えるのである。だがこの歪さこそ、佐藤の切実な表現行為の結果ではなかったか。「淋しくなく描く」を読んでいるうちに、僕には伊藤比呂美が次のように書いていたことがふと思い出された。
はじめたとき(伊藤が英会話の勉強を始めたとき―外山注)、姉娘のカノコはまだ四、五か月のアカンボでした。わたしが勉強を再開して一年たったころ、彼女はカノコ語(日本語ではない。しいて言えばピジン・日本語です)がかなり達者に話せるようになりました。といってもカノコ語をしゃべるのはわが家でカノコひとりですから「会話」はまだなりたちません。そして、その後、カノコ語はどんどん、日本語に変化、移行していきます。
(略)とにかくわたしたちは、なんとかこの言語を習得したくなって、熱心に観察して勉強しました。ところが、わたしたちがやっとカノコ語を使えるようになったときには、もうカノコのコトバははるかかなたにいってしまって、そして、わたしたちが覚えたコトバだけが残る。古い死んだコトバ。(略)
思い出そうとしても思い出せません。ついこのあいだまで、カノコはそれを使っていて、ついこのあいだ、それを使ったわたしたちが、もうこのコトバは使われていないと、使いながら気がついたばかりだというのに、死んだコトバは、カノコにもわたしたちにも、みるみる忘れられていきます。(「英語 日本語 カノコ語」『現代詩文庫94・伊藤比呂美詩集』思潮社、一九八八)僕たちはひどく鈍感だから、「日本語」で語るようになったとき・語られるようになったときに起こっていたはずのこうした事態など気づきもしない。けれど、本当は、僕やあなたは「日本語」の「僕」や「あなた」ではなかったはずではないのか。でも僕たちは、いつのまにかずいぶん「日本語」が達者になってしまっていて、もっと悪いことに、「日本語」で詠うことさえ覚えてしまった。
かつて富澤赤黄男は「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」といった。けれど、もしも〈蝶〉を蝶と呼ぶことに堪えられなくなってしまったとしたら―。佐藤は「日本語」で俳句を書くということをどうしようもなく愛しながら、「日本語」で俳句を書くということにどこか苛立っているように見える。佐藤の句は「日本語」でありながら、実際、佐藤はこれまで季語や定型を達者に使いこなしてきていながら、一方でいまは「日本語」のうたであることにどこか抵抗しているように見える。だからその句は不用意で不恰好だ―というよりも、不恰好であることを志向しているように見えるのである。
宙を抱けばこんなにわかる滝のまへ
一月や雉さへゐない白い部屋
雪に日差し電車がいつも越える細い川
「こんなにわかる」というが、いったい「こんなにわかる」とはどういうことなのか。あるいは「さへゐない」とは。「いつも越える」とは。だがこの種の質問はこれらの句の本質とは関係のないものだろう。
たとえば「こんなにわかる」という言葉の「日本語」としての内実を突き詰めたいと思うなら、きっと僕たちは実に見事に解釈してしまうにちがいない。でもそれでよかったのだろうか。そういうことのために僕たちは俳句を書いていたのだろうか。
白鳥の池を淋しくなく描く
また美術館行かうまた蝶と蝶
「淋しくなく描く」とはどういうことなのだろう。僕たちには佐藤のいう「淋し」さの実態すらおぼつかないのに、佐藤は僕たちを置いて「淋しくなく」というふうに、「描く」という営みをねじくれさせながら詠おうとする。だから僕たちは、なにか置き去りにされたような、あるいは靄のかかった風景の中に立ちつくすような淋しい感覚を覚える。だが本当に淋しいのは僕たちではない。本当に淋しいのは、このように僕たちを置き去りにしかねないやりかたで詠うことを選んだ佐藤のほうではなかったか。これを佐藤のひとりよがりだというのなら、その前に、そもそもひとりよがりを志向することの強さを思うべきである。誰とも繋がれないかもしれないことを書くときの、その書き手の指先の強さを思うべきである。その指先の強さはそのまま「白鳥の池」を「描く」指先の強さでもある。
それにしても、「白鳥の」の句にせよ「また美術館行かう」の句にせよ、これらの句のうつろな印象は何だろう。これらの句において、対象はいわば中抜きにして描かれている。「白鳥の池」といいながら白鳥の池はこの句にはひとつも描かれておらず、「美術館」といっても美術館は描かれずに「行かう」という意思が提示されているだけだ。いわば、対象に対峙するときの自らのありようを詠っているのであって、その意味ではどこまでも「わたし」のうたなのである。
だから、「また美術館行かうまた蝶と蝶」という句が、僕にはとてもつらいものに感じられる。「また美術館行かう」というのは「わたし」の言葉である。にもかかわらずこれは「わたしたち」の言葉になることを願っている。「蝶」もまた、どこまでも「わたし」の謂でありながら、「蝶と蝶」で―「わたしたち」で―あろうとする。そのことがつらいのである。もっとも、こんなことを言うのは佐藤にとってはある種の侮辱であろう。というのも、こうしたつらさや淋しさをわかったうえで、それでもそれらを超えていくためにこそ、これらの句が書かれたような気もするからだ。
【執筆者紹介】
- 外山一機(とやま・かずき)
昭和五八年一〇月群馬県生まれ。
平成一二年から二年間、上毛新聞の「ジュニア俳壇」(鈴木伸一、林桂共選)に投句。平成一六年から同人誌『鬣TATEGAMI』同人。
共著に『新撰21』(邑書林)。
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