北川美美
中国地方では局地的大雨の影響で多大な被害が出ています。
そして関東近県は厳しい残暑が続いております。ともにお見舞い申し上げます。
先週はお休みを頂き主に、冊子『俳句新空間No.2』の作業に充てさせていただきました。
そして個人的は、8月16日(山本紫黄の命日)に御献体された師の眠る駒込・吉祥寺に墓参し、根津・千駄木を歩きました。 夏目漱石旧居跡にもやっとたどり着き、猫の銅像を拝んできました。
今号から三週に渡り<こもろ・日盛俳句祭 特集>です。島田牙城さん作成の特選全句を掲載させていただきます。また参加の若手よりレポートをご寄稿いただきました。まずは黒岩徳将さんです。黒岩さんは現在活動が目覚ましい関西・ふらここの創設者である行動的な方です。
・第一句集を上梓された吉村毬子さんの句集評が届きました。
・当ブログにも投句していただいております岡田由季さんが第一句集『犬の眉』(現代俳句協会新鋭シリーズ)を上梓。おめでとうございます。
・さらに! 詩客の時代は「日めくり詩歌・俳句」をご寄稿、そして当ブログでは句帖に参加していただいております 内田麻衣子さんが第32回現代俳句新人賞 佳作を受賞されました。おめでとうございます。
筑紫磐井
○このごろわが家では名探偵コナンごっこが流行っている。
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夫婦揃って老化してきたために物忘れがひどい。物がなくなっただけでなく、約束を忘れる、今やろうとしていたことを忘れる、予定表に書いてある事項の意味が分らない、会うと書いてあるのだが誰と会うのだろうか、など日常茶飯事である。
この恐怖心から、夫婦でルールを決めて、物忘れしたらお互い罵り合おうということにした。いかに愛していても、このことに関してだけは相手を許しては駄目である。とことん非難して相手に深い疵を負わせるぐらいでなくては老人は反省しない。反省すればまだ改善の余地がある。
しかし傍目から見ると危険な夫婦に見えてくるらしい。そこで方法を改善することにしたのが、金田一少年名探偵コナンである。
物忘れを「犯罪」としよう。と言うことは現にここで犯罪が行われていることになる。犯人は誰か?間違いなく私である。犯人は分っていて犯罪が分らないという推理小説は、倒叙型と言ってよくあるミステリーのパターンである。最後にちょっと異なるのは、探偵も私ということだ。倒叙型の中には時折こうした趣向のものがある。主人公が酒を飲んでいて、目を覚ますと目の前に死体が転がっている。どう考えても自分が殺した状況なのだが、主人公は限られた時間内で(警察がやってくる前までに)、愛する妻や恋人の協力を得てなぜこの被害者が死んでいるのかを探求しなければならないというものである。新たな犯人を探すとなると月並みなミステリーとなってしまうので、よそで致命傷を負った被害者が主人公の家までやってきてこと切れたとか、持病の難病が発症したとか、主人公のてんかんを利用して自分を殴り殺させたとか、実は数十年前に死んでいた死体が現れたとかおよそ荒唐無稽なストーリーが用意されている。中身はくだらないが、役立つのはこうした「推理」ということだ。
物忘れであるとしたら、どこかにものはあるはずでそれをどうやって発見するか。犯罪はどこかに証拠を残しているはずだし、発見した後で考えると腑に落ちるプロセスであることが多い。とりわけこうした犯罪捜査の奥義は、迷宮入りを許さないということだ。1時間、2時間でなく、何日でも何年でもしつこく犯罪を探る。これは結構老化防止には役立つ。そしてもし、犯罪が見つかれば、名探偵コナンの「犯人はお前だ!」の決めぜりふが使える。
こうした犯罪捜査をしていて気がついたことが二つある。一つは、整理は必要であるが、整頓は敵であると言うことだ。必要なものが出てくるのが整理、形が綺麗に整っているのが整頓。見た目は整頓は快適だが(家内はすぐ整頓したがる)、私は整理を主義とする(従って実に部屋が汚い)。整頓すればするほど必要なものが出てこない、必要なものが出てくる部屋は汚い。その代わり外出して急に資料を確認する必要が生じた時、家人に電話して、東側の棚の上から何番目の抽斗の中にある三番目のファイルの中を見て欲しいというとだいたい見つかることが多い。見たか整頓魔め!
もう一つは、これが高じるとあらゆる資料は紙袋に詰めて机の上に積んでおくことになる。私の職場は正にそれだ。必要な時に引きずり出して使ってから積む。これを繰り返すうちに、常時使われる資料は上に上に集まり、滅多に使わない資料は沈殿して行く。日がよく当たるオフィスだと下の資料は段々変色して漬物のようになって行く。そうなると捨てごろということになるのだ。これがよく人のいう「整理学」である。ただ不思議なことに捨てた途端にその資料が必要になることがしばしばである。そこで私はそれらを捨てない。これが「私の整理学」である。保存用のロッカーに移していつでも引き出せるようにする。するとこれまた不思議なことに、先ほどと違って、滅多にその資料を必要としないようになる。こうして、10年、20年の歳月が経過し、資料はいつしか歴史的文献となる。実に何十年ぶりかで資料に日が入り、読み直してみるとそれはもう立派な歴史になっている。そうしてそろそろ歴史的価値のないことが分ってきた段階で初めて資料は捨ててもよいことになるのである。
これが、私が歴史好きとなった理由である。そして今、「戦後俳句を読む」で続けているのは、こうした私の内部で歴史となってしまった資料や事実を記述しているものなのである。
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