暗黒や根元に朝の火ゆきわたり
暗黒の先へさきへと転ぶ白桃
暗黒の黒まじるなり蜆汁
暗黒の強き黒らは産卵せり
これよりは暗黒、海に枇杷繁り
暗黒を濯ぎて花嫁渇くなり
行き過ぎて戻る暗黒・菫に酢
暗黒と鶏をあひ挽く真昼かな
春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え第一句集「姉にアネモネ」所収、後に第二句集「鳥子」に一部変えて収録された。これがまた実に奇妙な句で、何をイメージして良いのか、全く分からないのだが、妙に心に残る。解読したくなる強さがある。先に挙げたのは、「鳥子」版の暗黒である。(ここでは「鳥子」版の暗黒について考察する。「姉にアネモネ」版との違いは随時言及する。)
では、一句づつ見てゆこう。
暗黒や根元に朝の火ゆきわたりこの「根元」とは、何の根元であるか。句中の言葉だけで見るならば、「暗黒」の根元であろう。暗黒には根元がある。暗黒とは木とか草のようなものなのか。或いは碑とか墓とか塔とかにも「根元」はありそうである。暗黒とは、地面から生えている、ある一定の高さをもったものか。
暗黒の先へさきへと転ぶ白桃暗黒という、死をもイメージする言葉と「転ぶ白桃」から、黄泉平坂を思う。掲句の場面は生と死の境の坂か。「先へさきへ」という絶えず動いてゆく形容は桃に関するのであるが、同時に、暗黒もまた桃を追って移動可能なもの、という印象を与える。「先へさきへ」というリフレインは果たして本当に繰り返しなのか。色々考えてみる。先へ崎へ、先へ岬へ、先へ幸へ、先へ咲へ、先へ左記へ、先へ裂きへ、先へ割きへ、先へサキという名の女へ? 少なくとも、暗黒は白桃でもサキでもないもの、であろう。
暗黒の黒まじるなり蜆汁蜆汁にまじっている、と取るならば、暗黒は食べる事が可能か、又はうっかり食べてもわからないものか。この場合、蜆汁にまじっているものは「暗黒の黒」、暗黒から派生した黒である。
上五中七と下五は切れていて、二物衝撃の景だとすれば、「暗黒の黒まじるなり」という景は「暗黒に黒混じる」、つまり、暗黒と黒は別物だということになる。そして、黒混じる暗黒は、蜆汁の見かけ、又は味に或る種通じるものがある筈だ。
暗黒の強き黒らは産卵せり暗黒からは「黒」が派生し、その中でも特に強い「黒」は産卵する事が可能だということになる。暗黒とは「黒」なる生物を派生させ、更に「黒」は増殖が可能だという事だ。
これよりは暗黒、海に枇杷繁り連作中で最も強い句であろう。「これよりは」という措辞が、芝居の見栄のように張り出す。「海に枇杷繁り」というフレーズは暗黒そのものではないが、暗黒を包み支えることにより、暗黒のある一面を示しているようにも見える。枇杷の暗い緑が繁っているのか、その中に枇杷の実も混じっているのかは定かではないが、枇杷の木特有の旺盛な生命力と翳りは海と良く調和していると思う。
暗黒を濯ぎて花嫁渇くなり「夜濯ぎ」という季語と見るも可能であるが、ここはやはり暗黒という具象そのものを濯いでいると見たい。これまでの句が、暗黒の様々な具象化を試みているからである。暗黒を濯ぐ事により水に接していながら、花嫁は、何に渇くのだろう。花嫁ならば、愛か幸福を求めているのだろうから、やはり愛やら幸福やらに渇いているのだろうか。では、暗黒は愛やら幸福やらに何らかの化学的変化を起こす作用があると考えてもよさそうである。暗黒は愛や幸福を吸いとるのだろうか、それとも変質させるのだろうか、或いは花嫁をして、より愛や幸福に対して渇かせるのだろうか。ここでは暗黒が、或る魔術的変化を人の心に起こさせるとわかる。
行き過ぎて戻る暗黒・菫に酢「姉にアネモネ」では句中の「・」が「、」になっていた。「・」にしたことにより、「行き過ぎて戻る暗黒」と「菫に酢」が、拮抗し合う又は調和し合う彫刻であるかのような印象を受ける、と言ってしまって良いかどうか。そう名付けられた彫刻があっても良いような気はする。「行き過ぎて戻る暗黒」は、或る躊躇の果に試みるやり直し、と云った観の彫刻で、「菫に酢」は嗜虐性を孕んだ哀れな彫刻であろうか、「酢」という言葉から少し腐食しているような感じも受ける。行き過ぎてから、暗黒に戻ってゆく、と取るのは、これまでの句を読んできた上では、もはや無理があるような気がする。やはり暗黒という具象が行き過ぎて戻るのではなかろうか。
「・」によって、「暗黒そして菫」という読みも出来る。酢は暗黒と菫の両方に掛けられる。酢の特質として防腐性がある事を考えると、通常の場合と同じく、暗黒は不浄に親しむ性質も含むのだろうか。そうであるなら菫に、不浄になりやすい側面としての、暗黒との共通点が存するらしいと窺える。
暗黒と鶏をあひ挽く真昼かなこの句、「姉にアネモネ」では「真昼」が「昼餉」になっていた。「昼餉」では、暗黒が鶏の挽肉に混ぜる物であり食品であると疑いなく読めてしまうので、そこまでの断定を避ける意で「真昼」にしたかと思う。「真昼」と置けば、高い陽の下で暗黒はより際立つという気もする。ここで示される暗黒の特性は、鶏と共に挽くも可であるという事である。
春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え春巻きを揚げる主体は誰かというのが焦点であろうが、ここはやはり作者ではなく暗黒であろう。作者だとすると、あまりに下らない。暗黒の冬を越えて春、春巻きを揚げる攝津幸彦、というイメージはつまらなすぎる。この一句だけをいきなり読めば、どうしてもそういうイメージしか浮かばない処、これまで暗黒の句群を読んできた上で掲句を読めば、暗黒が冬を越えて春巻きを揚げる、と取れる。ここに至って暗黒は、動物同様、越冬もし、人間同様、春巻きも揚げるのである。
「姉にアネモネ」では掲句の後に、「暗黒といへども茶碗の影冷ゆる」が置かれているが、「鳥子」でこの句が省かれた理由は、せっかく積み上げてきた暗黒の具象化が「といへども茶碗の影冷ゆる」によって、単なる暖かい闇、というイメージに還元されてしまう事を怖れたか。
さて、「鳥子」における暗黒の特性をまとめると次のようになる。
暗黒とは、草か木か碑か墓か塔のように一定の高さを持ち、根元がある。移動可能であり、白桃でもサキでもない。黒を派生することがあり、その黒は産卵可能である。暗黒は黒と混じると、蜆汁に通ずる何かになる。芝居の見栄の如く張り出すことがあり、その様は海に枇杷が繁る様と良く調和する。花嫁に濯がれて、花嫁の、恐らくは心を渇かせる。行き過ぎて戻る事がある。その躊躇する様は、「菫に酢」という嗜虐的な哀れなイメージと良く調和する。或いは菫と共に酢を掛けられる。鶏肉と合挽きされることがある。越冬し、春巻きを揚げることも出来る。
「二十の扉」ではないが、さて、暗黒とは何でしょう。
「それは私です!」と、攝津幸彦が手を挙げたら、どうしよう。
その場合、私は連作中の白眉である
これよりは暗黒、海に枇杷繁りの暗黒に、(奔放に見えて実は慎ましい攝津に怒られるのを承知で)ルビを振りたくなるのだ。これよりは暗黒(せっつゆきひこ)、と。これよりの句業は、まことに「海に枇杷繁」るがごとき、怒濤にして鬱蒼たる勢いではなかったか。
「姉にアネモネ」は昭和四十八年刊、「鳥子」は昭和五十一年刊である。この頃の「暗黒」というと、土方巽の「暗黒舞踏」を思い出す。となると、この連作に一気に暗黒舞踏が重なり出す。加藤郁乎が土方巽と共に暗黒舞踏の舞台に上がったという逸話も思い出す。
私事だが、阪神大震災の後、いきなり姫路に連れて行かれた事がある。永田耕衣を囲む何かの会にいきなり押し込まれて、その時、大野一雄の舞踏を見た。板張のホールで、舞台はなく、耕衣も我々も大野一雄も同じ平面にいた。大野一雄はその時九十は超えていたと思うが、少女を踊った。私の目にも、何かに憧れる少女に見えた。私の真向いで、耕衣は車椅子に座って、眼前の舞踏を見上げていた。実際、大野一雄が伸び上がると、塔の聳えるように見えたのだ。
「鳥子」では、暗黒連作最後の「春巻き」の句の後に、
白髪に蜜光りける夢の秋が置かれている。
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣を思い出し、個人的には、大野一雄の舞踏を見上げていた耕衣の姿が重なってしまう。
暗黒連作を読んできた勢いで、この句を読めば、春巻きまで揚げる暗黒は、そうか、白髪であったか、その髪には蜜が光っていたか、もしかしたら暗黒は夢の秋の擬人化であったか、という妄想まで起こる。
これ以降、攝津の句に「暗黒」は絶えて出て来ない。「闇」や「黒」の句は時々出て来ても、暗黒の行方は杳として知れない。
【執筆者紹介】
- 竹岡一郎(たけおか・いちろう)
昭和38年8月生れ。平成4年、俳句結社「鷹」入会。平成5年、鷹エッセイ賞。平成7年、鷹新人賞。同年、鷹同人。平成19年、鷹俳句賞。
平成21年、鷹月光集同人。著書 句集「蜂の巣マシンガン」(平成23年9月、ふらんす堂)。
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