2014年8月22日金曜日

中村苑子の句  【『水妖詞館』― あの世とこの世の近代女性精神詩】29.30.31.32/吉村毬子


29 まさぐる終焉手に残りしは苦蓬

「終焉」それは死に臨むこと、今際(いまわ)ということでもあるが、あの世とこの世を行き来する女流俳人の異名を遺す苑子のその一端を掲句からも伺うことができよう。

 「まさぐる終焉」とは、死を了解し、死を探しあて弄ぶということである。私が頂いた『水妖詞館』の感動を、拙い言葉で述べた四半世紀前、それは苑子の晩年であるが、「この句集を出した頃はある病気で死ぬと思っていたのよ。」と語っていたことを思えば、自身の人生の終わりに接し、思い残すことを詠んだ句なのだと納得できるのだ。けれども、前回からの流れから察するに、恋への葛藤が描かれているような気がしてならない。

 この死は、肉体的な死にまでも至る恋の「終焉」と呼べるのではないか。しかし、それは放っておけばなるがままになり、そう苦しまなくとも済む筈であるのに、自らの手でまさぐり、終末を引き込んでいるのだ。その「まさぐる」行為が自虐を極めた後、「手に残りしは苦蓬」である。真夏の激昂する陽射しの下、強烈な臭気を放つ「苦蓬」が恋の残骸の如く己が手に残る。もはやその苦蓬は苑子にとって生薬としての効きめも失い、薄い掌の上で、無音無風の真夏の妖気にも似た臭気が立ち込めるだけである。

30 愛重たし死して開かぬ蝶の翅

 前章〈遠景〉に次句がある。

撃たれても愛のかたちに翅ひらく
前句に蝶の翅の指摘はないけれども、此の句を意識して、念頭に置いて書かれたように思われる。

 かつて、どんなに「撃たれても」「翅ひらく」ことを念じていた「蝶」は、「愛」という名の元に「死して開かぬ」蝶であったのである。撃たれることには耐えられても、「愛」の重さに撃ちのめされ「死して」しまったのだと告げる。愛とは永遠には、見つめられない、叶えられないものなのだからと、薄い翅に支えられるほどに一刻だけの春風に舞う蝶も多いであろう。苑子の苑に棲む蝶は、その一刻にも一生命を掛けて翅がちぎれる程、舞い狂う。それは、死を招くことと解ってはいてもそうせざるを得ない性なのである。

 この両句について、苑子と話をしたことがあるが、「若い頃の句で恥ずかしい」と笑っていた。決してナルシズムの範疇を出る句ではないが、詩人は若書きにこういった句を幾つかは残しているものである。恥ずかしいとは言いながらも厳選した25年間の俳句苦業のなかの139句に入れているということは、作者にとって何がしかの思い入れがある句なのであろう。〈撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉は、苑子がある日旅先で、此の句の短冊を見つけたと言い、「今度皆で一緒に是非観に行きましょう」とお誘いすると、「恥ずかしいわ」と、また言った。果たして、それが何処にあるのか、聴きそびれたのか、聴いたはずが忘れてしまったのか、解らず了いである。遠い遥かな処で「愛のかたちに翅ひらく」蝶が、今も確かに存在しているのである。

31 逢へばいま口中の棘疼き出す

 死まで思い至る恋愛の傷が癒えぬ内に、忘れたいのに忘れられないその顔を偶然目にすることがある。またこちらの悲哀など感じていない相手は、何の悪気もなく連絡して来たりするものである。絶望に打ちひしがれた思いを、やっと喉元へ押し込めようとしていた矢先の再会の言葉は、「口中の棘」となって「疼き出す」。言葉にならず自身を刺すどころか、目の前の相手へも口中から零れ落ち刺してしまいそうな予感さえ持つ。

 「逢へばいま」は、〝今逢ってしまったならば〟という仮定に置き換えて読んでいたのだが、何度も読み重ねるうちに〝逢ってしまった今〟という現実感として捉えた方が、緊張を伴う臨場感が伝わり、句が鮮明になってくるように思われる。
 
 しかし、掲句の口語体の調べに流れる一句一章は、俳句というかたちを成すが、詩や短歌の部分的な句とも差がないように思われる。むしろ、「疼き出し」と続けた七七の下の句の転換を望むのは私だけであろうか。前句からの流れの展開からすると致し方ないのであったか……。七七への欲求不満を抱えて次句への転換を見てみよう。

32 狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる

 毎回見開き2頁4句を観賞しているため、(昭和50年俳句評論社刊、初版『水妖詞館』)今回の一句目「まさぐる終焉手に残りしは苦蓬」からの流れを物語風に追えば、自虐的ではあるが、重たい恋への窶れを抱えながら、家に帰り着くと、常日頃は楽しみや慰めにもなる愛玩の鸚鵡のおしゃべりが煩わしくて、ついには殺めそうなことにもなってしまったということになる。「狂ひ泣きして」「くびる」のである。

 「熟練の鸚鵡」とは誰であろうか。前掲の句、

鈍(のろ)き詩人(うたびと)青梅あをきまま醸す
の「鈍き詩人」ではなさそうに思われるが、先にも述べたように〈鈍き=女に甘い、色におぼれやすい〉とも言える。言葉に熟練した饒舌な「鸚鵡」は無垢に見えたあの詩人ではないだろうか。

    死のまなざしの
    はにかみに
    首をかしげる 
    黒髪格子     重信「蒙塵」所収
苑子と「俳句評論」を立ち上げ、後半生をともにした高柳重信の多行形式の一句である。俳人同志の家庭であるから(自宅が発行所でもあった)、俳句のことで議論になることも多々あった。

この多行形式の俳句の四行目「黒髪格子」は、苑子が秘かにあたためていた造語であり、掲句は、それを重信が無断で使用してしまったため、喧嘩となったと聞く。そして、重信はお詫びにと

    中洲にて
    叢葦そよぎ
    そよぎの闇の
    残り香そよぎ   重信「蒙塵」所収
と、頭韻に〈中・叢・そ・残〉(なかむらそのこ)と名前を詠み込んだ句を作ったのだと、半ば、のろけるように笑いながら語ったことがある。

 また、重信の此の句について、随筆集『俳句礼賛』にて綴っている。

    松島(まつしま)を
    逃(に)げる
    重(おも)たい
    鸚鵡(あうむ)かな     重信『日本海軍』所収

   海防艦の「松島」は、草間(時彦)氏の鑑賞文(「俳句研究」昭和五十九年七月「高柳重信特集号」)のとおりに、わずか四千七百噸の小艦にもかかわらず、三十二サ((ママ))ンチの巨砲を積むという無謀を敢行したために、砲撃のたびごとに艦首が反動で回転し、照準が逸れてしまうというお粗末さだったが、涙ぐましいまでのその健気さを愛して巻頭に挙げた、と高柳は言っていた。しかし、おそらくそれだけではなかったであろう。折りにふれては僕は現代の芭蕉だなどと冗談めかして言うこともあったから、芭蕉が、待ち焦がれた松島の、想像を絶する造化の妙に魂をうばわれながら「いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ」などと言って、一句も残さなかったことに対して、自分の新歌枕を以て挨拶をしたのではあるまいか。さらに、そこに鸚鵡をしつらえたのも、わが身の、晩年、肥えてきてお腹がせり出してきたのを「高柳重信らしからぬ」といって嘆いていたから、あるいは、自画像だったか、とも思われる。

括弧内補筆は引用者。

 俳句にその生涯を懸けた連合いへの、同志としてのあたたかな眼差しが感じられる文章だが、やはり、「鈍き詩人」「熟練の鸚鵡」は重信がモデルなのである。

 二人は男女間についての痴話喧嘩も公然としていたと聞く。

 人前で、喧嘩を締めくくってしまうことで尾を引かないようにしていたらしいとも――。

 句作の動機や舞台裏はどうであれ、この句における醍醐味は、「狂ひ」「熟練」「くびる」のク音、ジ・ビの濁音が「鸚鵡」の繰り返す甲高い声と反響し合い、女の感情が昂揚し狂っていくことで、驚異の結末に至るという演出効果に読み手が引き込まれていくということにある。

 掲句は句集出版の62歳(昭和50年)以前に書かれた句であり、女としての「狂ひ泣き」が生々しいが、三橋鷹女は、56歳(昭和30年)で次の二句に狂を詠んでいる。

    狂ひても女 茅花を髪に挿し     鷹女『羊歯地獄』所収
    祭太鼓鳴り狂ひつつ自滅せり         〃  
   
二句とも、自身を詠ってはいないようであるが、明治女の気骨の術が、狂ふことを自我へと埋没させる鷹女の悲哀が滲み出ている。

 更に二人の晩年の狂の句を比較してみよう。鷹女73歳(昭和47年)、苑子80歳(平成5年『吟遊』以後、平成8年『花隠れ』所収)。

    千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き      鷹女『橅』以後
    炉火爆ぜて一会狂ひし夜なりけり   苑子『花隠れ』所収
鷹女の死を意識した(没年の作)とも思われる壮絶な生への「狂ひ鳴き」に比べると、鷹女よりも10年の歳月を経た苑子句(没年の5年以前の作)は、鷹女と比べても壮健な苑子の、女であることの証しを書き留めておきたいという思いが描かれているようだ。これもまた生への壮絶さの表出なのだろう。






【執筆者紹介】

  • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
2014年、第一句集『手毬唄』上梓
現代俳句協会会員
(発行元:文學の森

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