1)
現在の筆者の随感
私は、戦後の俳句について、とりわけ「天狼」俳句について、あまり真剣に考えてこなかったように思う。(最も重要な拠点だったにもかかわらず)。そのわけは、出発当時の「天狼」と、山口誓子が死して終刊した時期の「天狼」やはりだいぶん違ってきているような印象が強かったことと、当時の資料が図書館ぐらいでしか手に入らないということが大きかった。
また、さらに大きな理由は、その時の、その時期の関心が、目先のことに向けられていたからでもあった。三鬼、多佳子、個別俳人やその俳句一句に、それぞれ魅力を感じても、発想として、「天狼」を俳句文学集団とか文学運動として、つまり戦後の俳句思想の拠点として、感覚や教養としては多少は頭に入ってきていても、まともに突き当たることがなかった故ということもある。このことは、じつは、まだ十分に読み込んでいない中村草田男や石田波郷、ひいては水原秋桜子についても言えることなのである。
一般の読者好きから詩歌に入っていった私は。いわば、病膏肓に達する過程をたどって、俳句という過去の時空が目の前にある。いま対応しているのは、現在ではなく過去である。
過去が、現在化されているのである。従って、読み手としては、じつに複雑な環境に陥っている。
いま、古茶けた褐色の地肌を呈しているこれらの既刊号のページを繰りながら、そこに湧き出ている(言葉で表現されている)戦後俳句の巨匠だと言われてきた人たちの言葉文字たち、これらのつたえる本当の理想はなんだったのだろうか?と考える。勿論、そのようなことが、一朝一夕にわかるはずもない。いまは、可能な限り、そのころの言葉を書き留めてみるだけなのである。
が、更に思うことは、このような、読み方気づき方こそ、天狼や当時の俳人たちが仕掛け
た、戦後俳句の思想。(端的に人間主義―ヒューマニズム―、というべきだろう?)の枠組みである。ここからの脱出が言われ始めてかなりになるが、脱出した挙句の氾濫している読み方がそう面白いとも思えない。奇妙な自己撞着の円をぐるぐる回っている、これも実感である。
2)
津田清子に触れつつ「天狼」昭和二十六年十二月号を読む。
俳誌「天狼」は昭和二十三年に創刊、敗戦後の俳句を舞台にして一つの文学運動を起こした。
昭和二十六年は、「天狼」その三年を経過し四年目に至ろうとしている時期である。五月三日小倉、五月五日福岡、六月三日奈良、で記念句会や講演が行われた。そして、十月二十一日に名古屋で大会が行われ、十一月四日東京で締めくくりの会が催された。各地の同人たちが皆動いている。
津田清子は、その前年度の《遠星集》の作品がみとめられて、三周年の年の一月号の表紙の裏に十句が堂々掲載された。三周年記念行事が遠星集出身の新人津田清の巻頭句から始まったことは、やはり、讀者になにがしかの感銘を与えたのではないだろうか。薄鵜城、橋本美代子、八田木枯らの「一般読者」と誓子が言う、創刊同人ではない若い「新人」の台頭がめだっている。誓子の統計によれば、遠星集の投句者は、七十%が二十代、三十代のワカモノだった、という。
第一回の天狼賞が電撃的に薄鵜城に決められた、ことに比べて、二回目の津田清子の受賞については、誓子多佳子らの創刊同人が彼女に託した今後への意志も感じられる。
(しかし、彼女はこの段階では、まだ同人としては、認められていない。昭和三十年一月号の「天狼」巻頭に、新同人紹介として、津田清子、小川双々子、鈴木六林男、佐藤鬼房の四名が、写真入り略歴添えで新同人として紹介されている。)
3)
三周年記念大会の宣伝の概要(当月までの各号の裏表紙など大きく掲載。)
天狼三周年記念 全國俳句大会並に講演会
期日・昭和二十六年十月二十一日 。会場・中日会館(名古屋市中區西川端町)。大会順序・(イ)挨拶並に記念講演 誓子、不死男、冬一郎、影夫、多佳子、靜塔、健二、かけい、昭,耕衣、 三鬼、幽鳥,予志,窓秋,暮石、波 津女 祿郎、白虹 (ロ)座談会・ 講演修了後別室にて誓子外参加者同人を囲む座談会を開催。 主催・天狼俳句会。後援・中部新聞社。
そして、それらの行事が終わった十二月號には、「天狼三周年記念大会特輯」、として、以下の講演記録が掲載されている。
●天狼三年(山口誓子) ●古さと短さ(秋元不死男) ●トリィビィアリズムに就いて(平畑靜塔) ●寓意に就いて(永田耕衣) ●俳句に於ける態度と方法-根源追求について( 西東三鬼) ●全國大會の記。
他に、●和服集(山口誓子) ●同人作品。エッセイ連載●アメリカ見聞(三) (山畑祿郎) 雑詠欄●遠星集 ●選後獨斷 山口誓子 前年度どおり●昭和二六年度同人自選作品。 ●あとがき。
大会の講演のテーマは、この雑誌が文学運動の目標として掲げてきた「根源探求の俳句」関わるものである。一体この「根源探求」とは俳句にとってどういう理論であったのか?また、そのような言挙げを仕掛けなければならなかった、
2) 天狼三年 山口誓子講演記録 (抄。オレンジの部分が本文引用。)
☆ 「天狼」三年の問題と誓子の立場を懇切丁寧に述べ、最後の締めくくりの要約。
「天狼」は一つの文学運動であります。
私達はこの運動によつて俳句の秩序を整へ、新たな権威を確立しようとしてをります。
私達は根源探求の俳句を示し、その理論を確立しなければなりません。
一般作者は、それによつて自己を開拓し、自己を進出して貰ひたいのであります。それ等の為に、「天狼」全体が強く、固く、結束することが必要であります。
以下、詳しくニュアンスに触れる。
☆
「天狼」は、一つの文学運動であります。
過去の権威を失ったとあり。明らかに桑原武夫の「第二芸術」論を意識している。
敗戦後、日本はあらゆる分野に亘つて、過去の権威を失ひました。/従来の俳句はその権威を失つた/ 内部のそのやうな失墜と同時に、外部からは、第二芸術論のやうな、俳句の弱点を衝く議論も出てきた。
このときに当つて、内に於ては、俳句の秩序を回復し、新たな権威を確立する爲に、又、外に向つては、「第二芸術論」を作品によつて反撥する為に、私達は、「天狼」といふ文学運動を起こしました。
文学運動には、目標がなければなりません。私達はその目標を「根源探求」に置いたのであります。私達は、従来の、自然發生的な、非人間的な俳句に満足せず、作者の人間の深まりに於て、生命の根源を捉へやうとしたのであります。
そして、この根源探求こそ、他のいかなる文学に於けるよりも、短詩型の俳句に、なくてはならぬものあり、これこそ俳句をして真に俳句たらしめるものであると信じ、この方向に嚮つて進んだのであります。/略。
私には、この一節は何度読んでもわかりにくい。花鳥諷詠が非人間的だということもさる事ながら、根源探求が「俳句をして眞に俳句たらしめるものである」ことには、論理性のない根拠付である。しかし、惹きつけられる。なぜか?
「ホトトギス」は、堕落した旧俳句に抵抗する、子規の文学運動を記念する雑誌。
「天狼」は、その後の、人間を失つた旧俳句に抵抗する、私達の文学運動を記念する雑誌。
であるという。創刊の目的が、俳句の文学性を樹立し、根源探求をする表現である。その下での俳句の「秩序化」をはかる、という目的である。それを推進している、と宣言。
この独裁性も、滑稽なほど真剣である。
☆その「鬱然たる権威」の確立ができていないという批判に対して、
「僅か三年にしてうち樹てられる、と考える人を私は笑う。」という。
「理論の確立に対して/「天狼」は、いまだに「根源探求」理論を確立していない」。
に、対して、
☆理論の樹立は、そのやうに簡単なものではありません。
と「アララギ」發行は明治四十一年。の例をもって反論。
斎藤茂吉が「子規の「写生」説を深め、否、深めるといふより変へやうと決意して、それに着手したのが明治四十五年。/
それから、自分の説を固めるために、資料を集めて、それの終わつたのが、大正五年であります。」理論を先に掲げたのではなく「作品が先づあつて、理論はその後を進んだのであります。」「(誓子自身も)着手しましたが、なほ発表の時期に至つてをりません。」
あとに続く、不死男、靜塔、三鬼。らの講演でもこの「根源探求の定義」には内部で相当苦しんでいるあとがうかがわれるが、後世にとってはぬきさしならない彼らの位置が興味深い。
☆「天狼」からは、いまだに新人が出てゐないではないか――といふ非難について。
どこそこの結社から出たといふ、その新人の流れを見ますと、みな、すくなくとも雌伏十年を経た人々であります。
誓子の「新人」の定義が面白い。
「新人は旧人の為し得なかつた夢を実現する後継者であると云はれてをりますが、」
「私は新人の資格として、後戻りせぬことを要求します。」
「新人として現れた場合に、今後後戻りしないかどうか、それを見極める必要があります。しかし、そのことは、僅か三年のテストで決めることは、出来ません。」
このあたり、に《遠星集》の狙いがある。天狼に読者からの雑詠を公募して、自身が選をした理由はこういうところに現れている。新人を雌伏させたのである。
もっとも、新人たるべき者は、「天狼」に随分をるのであります。私はそれらの作者の成長を見守り、それ等の作者が後戻りをせず眞に新人たらんことを期する者であります。
いづれにしましても、「天狼」の次の時代を担ひ、根源探求の俳句を受け継ぐ新人は、「遠星集」から現れると思います。「遠星集」は、一般作者が、私はじめ同人の作品をいかに理解したかの反映である、と私は考えてをります。
津田清子や鈴木六林男が,《遠星集》のこういうところからでてきたためだろうか、己を律する厳格さとか,句にあって自己の位置をはっきりさせる、という姿勢の中に生きている。
誓子はさらに言う。
文学の進歩には、「拡がつて進む」のと、「深まつて進む」の二つの進み方があります。私達の仕事は、先の新興俳句時代の。「拡がつて進む」ことを経て、「深まつて進む」ことに移りました。狭く、深くなりつゝあるのです。私達は、狭く、深く、生命の根源を探求した俳句を作りつゞけたいと思ひます。
ここで、私が関心を深くしたことは、新興俳句が「拡がつて進む」ことを経て、戦後に至って「深まつて進む」ところに来た、という位置づけである。
誓子の中では戦前からの新興俳句の運動がまだ継続している。とともに、今で言えば水平方向ではなく、垂直方向へむけてゆく、ことが、誓子のみならずそうそうたる新興俳句作家に芽生えている。これは、俳人の戦争責任の取り方の一つではなかったか、というのは勘ぐり過ぎであろうか。
戦前の「京大俳句」を読んでいても、都市化や機械文明の発展を無視できない。内面を表現する要求も強い。無季理論が出てきている。しかし、「京大俳句」誌上の論調は、どうも表層をうがったものにすぎなく、性急な状況論に終わっている。俳人の近代意識では、まだ俳句存立の本質的なものを捉えきっていないのである。戦後の「天狼」には「京大俳句系の人たちがかなり結集している。しかし、彼らは既に俳人として一應名を持ってきているから、問題は、戦後の新人たちが、そういう指導者たちの謦咳に接しつつ、
「一般作者は、私達の作品を理解して自己を開拓し、私達の作品の隙間から自己を進出して貰ひたいのであります。
青年の作者は、「深まつて進む」ことを不得意とするかもしれません。
しかし、俳句をして真に俳句たらしめるのは、「深まつて進む」俳句であります。根源探求の俳句であります。
青年の作者といへども、この方向を失ふべきではありません。この方向を失つた努力は俳句的な努力ではありません。
又、青年は技術を軽んじますが、私は、技術がなければ、自己の個性を発揮することが出来ない、と考へてをります。
で、ありますから、青年の作者が技術を身につけることを切に望む者であります。句はうまくなくてはならぬのであります。」「自己の個性を発揮しようとするものは、まず技術を修めることが必要であります。」というとになり、
以上私の述べましたところを要約して見ませう。
というところで、要約されて、講演があ終わっている。(拙文文頭にかえる。)
いつもながら、誓子の文調には、ムダも隙もない。ほとんど、引用させられた。「新人」候補たちが、創刊同人達の作品の隙間から「私達の作品の隙間から自己を進出して」ゆくのは用意でないことだと思う。
「天狼」のこのストイシズムと技術が、輪郭のぼやけた戦後日本を、みなおす契機として、俳句青年たちにとってひとつの魅力だったろうことは、理解できる。
新興俳句の戦後版であったことを追認して、今回はこれで打ち止めである。 了
0 件のコメント:
コメントを投稿