寧の生家はあの解放大路(ジエファンダールゥ)の暗(あん)帰りぬ
鱈の白子を菊と呼ぶ地で金策せり
小さな天の尻餅のような文鎮ください
右眼のハングルの恨(ハン)とときどき酌めり
ザリガニ尺もて祖国嫌度は脛から測る
夕べ馬車載せ重くて戻れぬ津波ありき
鮮と発して北を思ほゆ飢えや軍や
『未定』を経て現在は『DA俳句』に所属する大沼であるが、その出立において大沼は『海程』に拠って活動していた。大沼が『海程』に同人として名を連ねることになるのは昭和四六年のことだが、同年海程新人賞の準賞を受賞してもいる。このときの大沼の句はたとえば次のようなものだった。
手淫す工員その白濁が苦痛の河口
運送暮らしの俺に黄の雨後品川過ぐ
僕ら妻なし激論果つればバルドー欲るこのときの大沼は自らと他者について、それを「僕ら」という名で呼ぶことのできる場所にいた。準賞受賞時の感想で大沼は自らの句を「俳句以前の俳句でしかなかった」と韜晦しつつ、次のように書いている。
あまりに恵まれた、東京例会、櫂の会、この金貨あふれる宝島のごときところで、僕は、いざ大泥棒になろう。そして、その光り輝くものを、より多く奪ってやろう。(『海程』昭和四六・六)
大沼の言葉は驚くほど晴朗で意欲に満ちている。こうした明るさは、しかし、大沼に特有のものではなかったはずである。喜多唯志は『大沼正明句集』の解説を次のように書くことから始めている。
俳句は老人の趣味、浮世離れの五七五、と思っていた私が、ふとした機会に金子兜
太氏の『今日の俳句』(光文社刊カッパブックス)に触れ、その新鮮さに驚いたのは、
学園紛争などで騒然としていた一九六〇年代後半であった。
喜多はこのように自らの出自を明らかにしたうえで大沼について「同じころ仙台にいた大沼正明も、『今日の俳句』に心を揺さぶられた一人である」と記したのであった。「僕ら」と呼ぶことのできるような彼らの連帯感は、彼らの方法論の類似として表れているところがある。大沼が準賞を受賞した年に同賞の正賞を射止めたのは鈴木秀治と宇田蓋牛であったが、彼らの作品を見てみよう。
火薬車眼をむく僻遠風樹の青岬 鈴木秀治
寂光硬山(ぼた)へ喇叭を流し羊肉売り 同
揺れ椅子少女に父氷海の北帰航 同
石も爺もはげしく生殖半漁村 宇田蓋牛
処刑部落わら積む高さに日暮れあり 同
流星の我らつぶやく鉄打つ日 同
彼らにとって他者を詠うことがまさしく自らを詠うことであったとすれば、いわば「僕ら」の表現をいかに行うかということは、彼らにとって切実な問題であったにちがいない。しかし、初期の作品「生霊死霊の野末やむむむむ陰陽石」にすでに見られるように、大沼はそうした場所にとどまっているわけでもなく、また大沼が自らの書き方を手にするまでの道程は決して単純なものではなかった。
阿部完市氏の『絵本の空』、森田緑郎氏の『花冠』は私が殊に憧れる句集である。前者の言語純化への突き詰め、後者の言外への広がりの鮮やかさは追随を許さぬスタイルを産み出した。時折私は初夏よりそれらを抜き取り、充実した世界に遊ぶ。あわよくば吸収したいとも願う。(略)
谷佳紀氏の海程賞受賞前後の作品は一目を置くに値する。血湧き肉踊る世界にしばし圧倒されたことは否めない。(「五反田をさまよいながら」『海程』昭和五二・一一)
大沼は一方で彼らについて「言語主義への傾き」があることを批判してもいるが、俳句形式に対して決して手際がいいとは思われない大沼の流儀を思うとき、その若き日に大沼がこのように書いていたことは注目に値する。
白く激しく罠鳴る空にあづける自分 阿部完市『絵本の空』
私の島ではればれ燃える洗濯屋 同
白髪を刈るヒロシマのまぶしい空 森田緑郎『花冠』
花冠の無傷で刈られ祝祭来る 同
静かに部屋小鳥が入るような冷え 谷佳紀(『海程』昭和五一・六)
わが家の宙の草原誕生音 同
ここでの彼らの方法は、いわば他者に対して「僕」を優位に措定しつつ、「僕」の内実を他者に提示することで他者の内実へと働きかけていくような-換言すれば、「僕」を書くことで「僕ら」を書いていくようなものではなかったか。大沼は先の文章で「俺の書き方」への執着を語り、また『異執』において旧満州生まれの最年少引揚者としての自らを探っていくような句を見せてもいるが、自らを他へと開示していくときの大沼の方法は、まずは同時代の多くの作家との出会いのなかで育まれたものであったろう。その意味で、「大沼正明」とは前衛俳句運動のなしえた最後の成果であったのかもしれない。
ところで、大沼は次のようにも書いている。
その場、その場限りの抒情などもうどうでもいいのだ。でないと……私も十年後、温
厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人の類に属しているのだろうか。(前掲「五反田を
さまよいながら」)
それから三〇年以上がたったが、大沼はいまだ温厚さとは無縁の場所にいる。大沼が、その初期からこうした姿勢を崩すことをやめないのはなぜだろうか。江里昭彦はそれを「生き延びるため」であると指摘した。
大沼の姿勢が一貫しているのは、彼の思考と感覚とが、独自のリズムでもって世界を捉えようとするとき、確かな手応えと快感を覚えるからだ-私はこう信じてきた。だが、『異執』を読むと、大沼は状況がもたらすかなり厳しい風圧のなかに置かれているらしい。そこで、いまはこう付け加えるべきではないかと思うようになった。-『異執』の尋常でない文体は、すなわち思考と感覚とがつくりだす尋常でないリズムは、かかる風圧に耐え、それをちょっとでも押し戻すために、欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されているのではないか、と。
生き延びるために、ただ生き延びるために、必要とされる文体が、そして俳句が、ここにある。(「ただ、生き延びるために」『異執』栞)
江里が「欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されている」というとき、決して後退戦ではないところで戦い続けてきた大沼を忘れてきた僕たちの姿勢こそが本当は問われているのだということに気がつく。生き延びるための「文体」を背負い続けるのは恐ろしいことだ。だから僕たちの目の前にはそのようなものを背負わなくともすむ方法がいくらでも用意されている。そして僕たちはきっと江里のように大沼を読むことができなかったし、そのような僕たちのありようを肯定する論理こそ、実は僕たちにとっての生き延びるための選択であったのかもしれないとも思う。いってしまえば「大沼正明」を排除してきたからこそ僕たちは心地よく生きられたのだ。
しかしながら僕はこのような生きかたを-正しいとは思わないけれど-間違っているとも思えない。俳句形式に抱かれて無自覚に安眠を貪ることと、俳句形式と自覚的に対峙することとは、本当はどちらも生きるための必死の行為である点において同じくらいに尊いのではなかったか。大沼がかつて危惧したような「温厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人」を否定することは、その対極にある「大沼正明」を否定することとどこかで繋がっている。両者を対立するものとしてみるのではなく、同じものとしてみること。困難なやりかたで生き延びることを選んだ「大沼正明」を見てしまった後で僕たちができることは第二の「大沼正明」を志すことでもなければ「温厚さのみ取り柄のあの多くの中堅俳人」になることでもあるまい。むしろその両者を肯定しつつ否定するような、追い風と向かい風がないまぜになった奇妙な風圧のなかに立ち続けることではないだろうか。
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