だから「揺れる日本」を、その内容で大きく二つ、つまり、社会性俳句的なものと「時代俳句」的なものに分けてしまっていいだろう。
さてこのうちの社会性俳句的なものは、いままでですでに見てほぼ一巡したと思う。この中から再度選び追加する(それなりの感動のある)句があってもよいが、これはまたあらためて眺めることとしよう。社会性俳句とは何なのかを宿題としている以上最後に考えてみたい答だ。
これ以外の「時代俳句」は、とかく馬鹿にされてきたが、もう一度真摯に眺めてみよう。現在も時代俳句が花盛りなのだから再度考えてみる価値はあると思う。例えば若い人の間で最近話題になる神野紗希の「コンビニのおでんが好きで星きれい」などは現代の時代俳句であり、以下眺める当時の時代俳句と比較してみる価値が十分あるに違いない。
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以下、項目ごとに整理して時代俳句を紹介しよう。まず、時代に最も敏感である媒体に関する項目で、ラジオ・テレビ。「ラジオ」と言う項目はないが、ラジオの番組名が「揺れる日本」ではたくさん上がっている。珍しい題なので例句は少ない。
【君の名は】
「君の名は」縄なう農婦の手がとまる 寒雷 29・4 兼蒔寿蔵※昭和27年4月から29年4月まで、毎週木曜日8時半から9時まで放送されたラジオドラマ。菊田一夫原作で、阿里道子、北沢彪の出演。後に岸恵子、佐田啓二により松竹で映画化された(第1部から第3部まで、6時間にわたる巨編であった。第1部の公開は28年9月で、ラジオでまだ放送中であった)。戦後の代表的メロドラマで、松竹は映画化に当たって「女湯が空になる」と言う惹句を用意した。
【真知子まき】
真知子巻して薄命ならんと泣黒子 氷原帯 29・5 早坂順一※「君の名は」のヒロイン氏家真知子のショールを巻いたファッションから生まれた。当然ラジオではなく映画の影響である。ちなみにラジオの阿里道子も映画の岸恵子に劣らぬ美貌の女優であったという。
【ラヂオ子供音楽会】
音冴えてあはれおさなご弾きとげし 青玄 25・8 日野草城※筆者もよく知らないが、当時、NHK「声くらべ腕くらべ子供音楽会」、TBS系「こども音楽コンクール」などがあったという。なおこの直後になるが、昭和30年にウィーン少年合唱団が初訪日し、以後少年合唱団ブームに火がついた。
【モスクワ放送】
モスクワ放送吹雪はこれを伴奏す 浜 25・2 小室夜光杯※旧ソ連の海外向けラジオ放送であり、1942年から対日宣伝のために行われたという。これも筆者は全然見当がつかないが、筆者の時代に引き戻せば、「北京放送」がそれにあたるかも知れない。北京放送(現在は中国国際放送)は1941年から始まったものだが、1960年代には宣伝と同時に、江青の指導によって精選された革命的現代バレエ「白毛女」や現代京劇「紅灯記」が繰り返し放送されていた。当時このような放送を聞く人たちの心情を次の歌はよく伝えている。
妻の厭う北京放送の音量を下げて聞く夜半の雪しずれいる 前田透『銅の天』
やさしき言葉述べることなき北京の声いたしと聞きて太郎は眠る【ニュース解説】
ニュース解説妻は編む手を休めざる 石楠 26・4 松下津城※戦後のラジオニュースは新聞社系の民放のニュースと後発のNHKが競い合った。NHKでは昭和22年ごろから始まったとされ、平沢和重(外務省出身)などがニュース解説を行った。
【ニュースカー】
風花や乳児が指さすニュースカー 俳句研究 25・6 加藤知世子※筆者にも実物は不明であるが、街頭宣伝・街頭放送や後にはニュース取材のための放送機器を搭載した自動車らしい。当時の新聞にはしばしば出てくる名称で、写真では選挙カーのような体裁となっている。
【日曜娯楽版】
蚊火既に日曜娯楽版をはる 俳句研究 27・7 見学玄※昭和22年10月から27年6月まで、毎週日曜日7時半から8時まで放送されたラジオコメディ。三木鶏郎作、丹下キヨ子、三木のり平、河合坊茶、千葉信夫らが出演、キノトール、小野田勇などが制作に加わり、聴取者からのコント投稿も行われた。冗談音楽の副題通りヒット曲(「田舎のバス」「僕は特急の機関士で」など)も生まれた。過激な風刺で政府からにらまれ、特に造船疑獄を揶揄したため終了させられた。掲句の「日曜娯楽版をはる」は、詠まれた時期から見て、放送時間が終わるのではなくて、番組打ち切りとなった意味である。「揺れる日本」の初出の年月は、一見煩わしいが重要な意味を持つことがある。
【街頭録音】
柳絮飛ぶ街頭録音十字路に 馬酔木年刊句集 伊藤青史※昭和21年6月から33年4月まで、午後12時半から1時まで、銀座などで聴衆を集めて藤倉修一アナウンサーが取材した。有楽町の闇の女たちの姐御ラク町のおトキや、群衆にとりまかれた中で回答する片山哲首相の声もとらえている。
【私は誰でせう】
霧の帰路ラヂオが「私は誰でせう」 氷原帯 28・1 川崎里童子※昭和24年1月から44年3月まで、毎週日曜日7時半から8時まで放送された、アメリカの「What’s my name」をまねたクイズ番組(戦後のクイズ番組は皆こうした模倣企画で、「話の泉」は「Information please!」、「二十の扉」は「Twenty questions」にならったものでGHQのCIE(民間情報教育局)の指導による。「鐘の鳴る丘」さえCIEの浮浪児の非行防止のための指示に始まったという。純粋な日本の企画は、道楽番組「とんち教室」ぐらいであったらしい)。初代司会者は高橋圭三。
【尋ね人】
松過ぎぬラヂオの尋ね人はやも 石楠 26・3 川本臥風
柵くぐる薔薇やラヂオの尋ね人 俳句苑 27・9 秋元不死男
海霧充ち来(く)ラヂオの尋ね人はじまり 氷原帯 27・11 田中北斗※これは「揺れる日本」③社会に出てくるものだが、ラジオ番組なので再掲する。NHK第1ラジオで、「尋ね人」という、引き上げや戦災の戦中・戦後の混乱で連絡を取れなくなった人々と尋ね人の名前を読み上げる番組があった。昭和21年7月から37年3月まで土日を除く毎日朝・昼・晩の3回放送された。数万人規模の名前が読み上げられたという。
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これに反して、【テレビ】という項目はあるが番組名は見つからない。昭和28年2月にNHK、8月に日本テレビ、30年4月に東京ラジオテレビなどがテレビ放送を開始。ただし、当時のテレビの句には現在読むと違和感のある句が多い。
【テレビ】
西日中テレビを見んと爪立ちに 俳句 28・9 齋藤照也
白息はわれテレビのレスラー湯気放つ 暖流 29・5 大石登志雄
テレビ見る枯葉交りし葱を持ち 風 29・5 中井之夫
心くらくテレビに佇てば春の雷 俳句 29・5 飯田蛇笏「爪立ち」「白息」「葱を持ち」「佇てば」は何か変だ、こんな詠み方を現代はしない。理由は、当時民放(日本テレビ)が視聴者確保のために街頭テレビとして、公園や繁華街などにテレビ受像機を設置し、人々が群がってこれを眺めた、上に掲げた句はそうした状況を詠んだ句なのである。そしてその時の人気番組は、プロレス中継、ボクシング中継、野球中継、大相撲中継であり、戦後のヒーロー力道山、白井義男、与那嶺要、川上哲治、千代の山、栃錦が活躍したものである。番組自体が魅力的であったわけではないようだ。そういった意味で、まだラジオの時代がしばらく続くのである。
【注】多くの出典は「ノーサイド」平成8年2月号「特集懐かしのラジオデイズ」による。
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