2021年1月29日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】10 句集『くれなゐ』を読む  大木満里

 中西先生第四句集『くれなゐ』を一読して、思い出すことがあった。
 二〇一二年四月、第三句集『朝涼』上梓時の「都市」誌上会員座談会においての最後に、今後の先生の句の進化についての話題に移った時に、ある会員が「俳諧味のある句を、次回の句集では作って頂きたいな、と思います。これからは、生真面目ではなくて、少しゆとりのある句を読んでみたらと思います。」と発言していた。 
 確かに、この卒直な意見は、一つの方向性を示していると思い、私は共感して読んだ。俳諧味とは、軽みのある句と思ったのである。
 今回上梓された『くれなゐ』には、中西先生の、句境の幅の広がりを感じる。
 句は決して難しくはない。定型と季語を信じる姿勢は、未だ同じである。 
 しかし今回の句集では、対象を気負いなく平明な言葉でつかみ取り、軽やかさを感じる句が目につく。
 中西先生の作句を楽しんでいるような余裕が、読み手にも伝わり、引き込こんいくのではないだろうか。


声の人ひよいと顔出す古簾
 声が聞こえた。そこにひよいと古簾から顔を出した人がいる。古簾だと、ご老人かはたまたおかみさんか。ひよいとの措辞に、軽妙味が醸しだされている。

信号の青に誘はれ鯛焼屋
 誘はれとはうまくいったものである。鯛焼屋の看板を見つけて、青信号を
いまだとばかりに鯛焼を買いに走った。見慣れた景ではあるが、おかしみが
ある。

男伊達此方を向いて涼みなせい
 歌舞伎の一場面に、見立ててしまう。お目当ての贔屓役者に向かって、台詞もどきによびかけてみたいのである。軽妙洒脱、そこが楽しい。

不貞寝せし太夫もをりし屏風かな。
 不義理な客への怒りか、太夫同士の意地の張り合いか諍いがあったのかもしれない。一句の視覚的効果。切り口が巧みである。


手話の子の手も笑ひをり花木槿
 やさしい眼差しである。子の笑顔から、手話する手に視点を当てたのであ
る。白い木槿の花が可憐である。    

つぶやきにひらめきありし衣被
 都市同人、故井上田鶴さんへの追悼句である。心に沁みる。静かな方では
あったが、確かにひらめきを感ずる句を作られた方だった。季語がいい。

皺くちやな紙幣に兎買はれけり
 ほろ苦い、胸に迫る句である。恐らく風体を構わない男性であろう。無造
作に差し出すしわくちゃな紙幣、白い無垢なる兎。ここにさまざまな連想が
うかぶ。

高枝の小綬鶏来いよこいよ恋
 言葉の配合にひかれる。来いよこいよ恋、と調べが跳躍。視点が小綬鶏から恋へと移る。句の発想と構成の力が心地よい。

ばらばらにゐてみんなゐる大花野
 一人一人がさまざまな考えをもって点在しながらもそれぞれを認め合って
いる。広い彩りに充ちた世界である。
 こんな結社でありたいという、中西先生の願いと思い、最後の句とした。

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