詩は舞台のためか、頁のためか
今月から日本に戻っているが、ロンドンで温めた資料やアイデアもまだあるので、「英国Haiku便り [in Japan]」と題を少し変えて、英国・英語やアートという異なる視点から見た俳句について、しばらく書き続けてみたい。
英国人(もしくは西洋人)は詩の朗読が好きらしい、という話は本連載でも既に触れた。あるイギリス人の話を聞いていたら、こんなことを彼は言った——「poetry for the stage」と「poetry for the page」、つまり「舞台のための詩」か「頁のための詩」か、という議論がありますね、と。舞台で声として読み上げられるものと、文字に書かれて読まれるものと、どちらが詩の本質なのか、という趣旨だろうが、このような議論があること自体が、日本語の詩からは少し奇異に思える。日本でも披講などの習慣がなくはないものの、漢字と仮名、もしくは旧仮名と新仮名、といった文字の使い分けは日本語の詩の(少なくとも俳句の)重要な表現要素の一部だからだ。
自身でも詩を書くと言うイギリス人女性と、そんな話をしてみた。彼女は、英語圏で盛んだという「スポークン・ワード」(Spoken word)のことを教えてくれた。それは、舞台の上から聴衆を前に詩を読み上げるパフォーマンス芸術の一種で、米国や英国の多くのバーやカフェで頻繁に開催されているものらしい。日本語版ウィキペディアの解説を読むと、このような活動は日本ではあまり一般的ではないとし、数少ない例として佐野元春、つまりミュージシャンの名前を挙げているのが逆に興味深かった。
この落差は、「舞台のための詩」という概念が成立しうる英語圏の詩を象徴しているだろうし、さらに言えば、英語圏での詩が日本語の詩よりもより「公共的」でありかつ「音楽的」であることを意味すると感じる。僕が話をした彼女は、「詩は人と人をつなぐものよね」とも語った。そんな彼女に質問してみた。
「あえて選べば、詩の本質は、声と文字のどっちにあると思う?」
少し考えた後で彼女は答えた。
「声だと思うわ」
そんなことを考えると、日本語の「詩」と英語の「ポエトリー」はそもそも同じものか、とも思う。それとも関連しそうなのだが、イギリス人たちが気軽に「詩人」(poet)と自称するのも特徴的だ。日本で「自分は詩人です」と名乗るのはごく限られた一部の人だろうし、逆に他者からは「ポエマー」などと揶揄的に呼ばれたりする。イギリス人は衒いもなくポエットと自称し、しかも複数の肩書きのひとつとして語られることも多い。例えば、「私はアーティスト、ポエット、コメディアンです」みたいに。その気軽さはなんとなく羨ましく、それは「舞台のための詩」という概念が広く受け入れられうる国ならではの光景なのかも、と感じた。
2021年1月29日金曜日
英国Haiku便り[in Japan]【改題】(17) 小野裕三
(『海原』2020年7-8月号より転載)
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