句集にタイトルがあるのは、不思議です。
篠崎央子句集『火の貌』は、このタイトルこそ読まれるべきです。
ひとつの視点。
句集の帯に書かれた、角谷昌子さんの跋文。
「央子さんは、中村草田男、鍵和田秞子のいのちを詠み、俳句の可能性を探るという志をしっかりと継いでいよう。」(P210)
このような〈師系〉というものが、この句集に関わっているということ。それは決して曖昧なものではありません。
動もすると、この跋文の「いのちを詠み、俳句の可能性を探る志」という言葉は、具体的なイメージを結ばないままに読み流されてしまう可能性があるのではないか、と危惧します。
この言葉は、句集『火の貌』を読むことで、具現化されるものです。句集を読む好奇心の眼が、その先にある〈主体〉に出会うために必要な道しるべになるでしょう。
このことは、中村草田男の第二句集『火の島』、鍵和田秞子の最晩年の第十句集『火は禱り』、そして篠崎央子氏の『火の貌』。この師系で〈火〉のモチーフがまるで聖火のように受け継がれていることに現れています。これは、おそらく偶然ではないでしょう。
この草田男の師系で受け継がれる〈火〉とは何か。それについて論じるのは俳句史家の仕事として、ここでは一旦、措いておきます。
逆にこれは、句集『火の貌』を読むためには、この『火の貌』というタイトルこそを読むべきだ、ということを示しているとは言えないでしょうか。
『火の貌』こそが、この句集を読むための亀裂なのです。
つぎなる視点。
この亀裂となる『火の貌』を「読む」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。この「読む」という語が、何かの「解釈」を行うことを意味するのだとすれば、ここに何か「解釈」すべきものがあるのでしょうか。
著者によるあとがきによれば、この『火の貌』というタイトルは、集中の一句
火の貌のにはとりの鳴く淑気かな (P200)
に拠ったということです。
「朝という刻を告げる鶏は、火のような形相を持つ。鍵和田秞子師もまた、火のような情熱を持ち、私達の俳句を明日へと導いてくれている。師の燃え上がる俳句精神に接した弟子の一人としてこれからも邁進してゆきたい。」(本書「あとがき」より)
集中の一句に含まれる語が、その集全体をつかさどる「タイトル」として昇華するとき、そこでは何が起きるのでしょうか。
特にこの『火の貌』の「貌」という語は、句中の「鶏」のものから、より大きな、こちらを見つめ返してくる「貌」として、この句集全体を象徴し始めます。これは、人間的な「顔」ではなく、動物的とも言えるような「貌」です。
問題となるのは、この『火の貌』は、〈どこから〉見つめ返しているのか、ということです。
これこそが『火の貌』を、「火のような形相」という一句の分析的な意味から、この句集が〈表現し得なかった意味〉として、逆説的にこの句集の性格を決定しているのではないかと考えます。
では、それはいったい〈どこから〉なのでしょうか。
その場所を示す、ひとつ目の視座。
残雪や鱗を持たぬ身の渇き(P144)
言うまでもなく掲句における「鱗」は一度も現実化したことのない、作者個人の自己認識のための補助線に過ぎません。
「鱗を持たぬ身」は、そうした自己を生まれつき「鱗」が欠落している主体として認識することで、逆説的に「鱗を持ちえた身体」という主体の〈ゼロ〉ベースを規定しています。
この句が書かれた動機があるとすれば、この主体の〈ゼロ〉ベースを提示することだとは言えないでしょうか。
かはほりや鎖骨に闇の落ちてくる(P64)
己が色まだ知らずしてかへるの子(P152)
指先より魚となりゆく踊かな(P175)
これらの句にも見られるように、句集『火の貌』における主体は、このニュートラルな〈ゼロ〉ベースからの欠落や差異として把握されます。
蚊に刺されたる膝裏のまだ若き(P64)
この句は無垢で傷のない「膝裏」を〈ゼロ〉ベースとして、それが「蚊に刺された」ことで、「まだ若き」と言わざるを得ない何かが作者の内面に生まれたとしか言いようがありません。
「蚊に刺された」ことが、なぜ「膝裏」の「若さ」を喚起するのでしょうか。
この「若さ」が喚起される原因の分析はここでは措きます。
ここで言いたいことは、〈ゼロ〉ベースを基準とした、ニュートラルなものとして想定された主体が、そこに止まることのできない欠落あるいは過剰の方向へと引き裂かれつつある、ということです。
それが、この句集の性質のひとつの側面を定めています。
一つ触れておくと
ヒステリーは母譲りなり木瓜の花(P52)
の句は、こうした句集の性質に、作者なりの根拠(物語)を与えているとは言えないでしょうか。
この「母譲り」が示すように、角谷昌子さんが跋文で触れている「血族」という主題が、この句集に与えられたひとつ目の視座を根拠づけることで、〈ゼロ〉ベースの欠落や過剰から主体を守っている、とも言えるでしょう。
ふたつ目の視座。
さらにこの句集は、ひとつ目の視座とは反対方向へ向かうもうひとつの視座があるのではないかと考えています。
エプロンは女の鎧北颪( P88)
この句では〈ゼロ〉の主体は、社会的要請としての「エプロン」という「鎧」で覆われています。「鎧」という武具で象徴されるように、この社会的主体は「闘う主体」です。
この主体は、いったい何と「闘う」のでしょうか。
どくだみ干す二人の主婦の眠る家(P111)
無花果を夫に食はせて深眠り(P126)
職業は主婦なり猫の恋はばむ(P143)
流灯会女は家を二つ負ふ(P175)
ここで主体は「主婦」であり「妻」であり「女」として振る舞います。
ただし、この主体が闘う相手は、社会的要請そのものではありません。
そうではなく、まさに主体を反対方向へ引き裂こうとする、〈ゼロ〉の主体からの欠落や過剰こそが、その闘争相手だとは言えないでしょうか。
そして言うまでもなく、〈ゼロ〉の主体を覆う社会的要請は、句集中の「介護」の句として結実しています。
太股も胡瓜も太る介護かな(P117)
熱帯魚眠らぬ父を歩かせて(P118)
うなづくも撫づるも介護ちちろ鳴く(P122)
芋刺して死を遠ざくる父の箸(P124)
この〈ゼロ〉の主体からの欠落/過剰(ひとつ目の視座)と、それが纏う社会的要請(ふたつ目の視座)によって引き裂かれていること──その引き裂かれた場所にこそ、句集タイトル『火の貌』が顕現しているのではないでしょうか。
これはつまり、草田男のことばを引用すれば、
「創作の振子というものはたえず作者の内輪で創作の各瞬間に、俳句の「私」という固有性のほうへいき、また俳句の「公」の務めというほうへいくというふうに、一作一作のなかで振幅豊かにたえず動きつづけてゆく、そうして振子の根っこのところに「時」を示す円盤の針があって「時代の俳句はかくのごとく一秒一秒タクタク生きて動いているぞ」という成果を示すようなものにならなければいけないのであります。」(中村草田男『俳句と人生』─「俳句の「私」と「公」」)
ということになるでしょう。
句集のタイトルの元となった
火の貌のにはとりの鳴く淑気かな (P200)
の句のふたつ後、句集『火の貌』の末尾の句、
寒牡丹鬼となるまで生き抜かむ(P201)
この句が草田男の意志を継ぐ意志ように見えるのは、この『火の貌』の位置に由来するのだと思います。
最後に、個人的な感想を付け加えれば、この句集は前述の「寒牡丹」の句で完結したように見えますが、むしろ次の句によって、『火の貌』の彼方への志向性を残しているのではないかと感じました。
死ぬ前に教へよ鰻罠の場所(P166)
この「鰻罠の場所」こそが、〈ゼロ〉の主体が、文字どおり〈ゼロ〉に戻る場所──その欠落を満たし、句集『火の貌』を生んだ起点となる倫理的な場所だと思うからです。
プロフィール
・名前(ふりがな):田島健一(たじま・けんいち)
・生年、出身地:一九七三年生・東京都
・所属結社:炎環
・俳句歴:平成元年「炎環」入会。現在同人。同人誌「豆の木」「オルガン」参加
・句集:『ただならぬぽ』(2017年)
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